76 恋愛感情とは? レオ先生の特別授業
エドワード王子がヴィリアー伯爵家に来た次の日。
マリアは伯爵家の中にある書庫に来ていた。小さな本屋が開けそうなくらい、たくさんの本が置いてある部屋だ。
その部屋にある椅子に座り、目の前に立つエミリーとレオを見つめているマリア。
「いいですか、マリアさん。これから特別授業を始めます!」
「はい! レオ先生!」
やけに真面目ぶったレオのテンションに合わせ、マリアは元気良く返事をした。
レオの隣には、助手のようにひっそりとエミリーが立っている。
なぜ今このような状態になっているかというと、話は昨夜に戻る──。
エドワード王子のことを好きだと言っていたマリアの姿を見たレオが、このままでは色々な意味で危険だと判断し、エミリーのもとを訪ねたのだ。
「もういい加減、マリアに色々と教えたほうがいいと思う。エドワード殿下が本気で動き出してきたから、何も知らないのは危険だし……」
「そうですよね。マリア様はまだ幼いし……と思っている間に、気づけばあんなに素敵なご令嬢になってしまわれて」
「せめて、恋愛の好きとその他の好きの違いくらいは、しっかり教えておこう!」
「……そうですね! マリア様が危険な目に遭ってしまっては困りますし!」
今まで、マリアから色恋沙汰を避けさせていたのはグレイだ。
まだ子どもだから。まだ知らなくていい。そう言われていたことが理由である。
しかし、エミリーやレオ自身にもマリアはまだ幼く純粋なままでいてほしい……という気持ちがあったことも嘘ではない。
「とりあえずグレイには内緒にしておこう。書庫だったら執務室からも遠いし、そこで明日マリアに『恋愛』について教える。いいね?」
「わかりました!」
こうして、昨夜こっそりと協定が結ばれていたのだ。
現在いきなり書庫に連れてこられたはずのマリアは、どこかワクワクした様子でレオとエミリーを見上げている。
やっとこの2人から何かを教えてもらえるのだと、喜んでいるのだ。
「それで、レオ先生? 今日は一体何を教えてくれるんですか?」
「今日は、マリアに色々な『好き』の種類を教えようと思います!」
「好きの種類……?」
キョトンとしたマリアの机の上に、2枚の紙が置かれた。その紙には、『恋愛感情』『恋愛のない感情』と書かれている。
なぜか今だけメガネをかけているレオが、わざとらしくメガネをクイッと片手で支える仕草をしながら問いかけてきた。これがレオの中の先生像なのだろうか──と、エミリーが温かい目で見守っていることには気づいていない。
「では、質問です。マリア、エミリーのことは好きかい?」
「もちろんです!」
マリアが即答したので、エミリーは涙を浮かべながら「マリア様……!」と呟いた。
「じゃあ、俺のことは好き?」
「もちろん」
「ガイルは?」
「好きだよ」
「エドワード殿下のことは?」
「好き」
「じゃあ……グレイは?」
「大好き!」
「なるほど、なるほど」
レオは腕を組みうんうん頷くと、いきなりビシッと机の上の紙を指差した。
マリアの視線がレオから2種類の紙に移る。
「じゃあ、その『好き』がこのどちらに当てはまるのかを考えよう!」
「このどちらか……?」
「そう! いいかい、マリア? 好きには、2種類あるんだ。恋愛かそうじゃないかの2つだ!」
「ええっ! そうなの!?」
堂々と話すレオと、その全てを信じきっているマリアの様子を見て、エミリーが小さな声で横から口を出してくる。
「あ、あの、マリア様。これはあくまで、レオ様のお考えだということをお忘れなきよう……」
しかし、教師役と生徒役を全力で楽しんでいる2人には聞こえていない。
マリアは初めてレオから色々教えてもらえることが嬉しくて、普段よりもテンションが高くなっていた。
「まずは、恋愛感情とは何かを教えようと思う」
「はい! 先生」
「恋愛感情っていうのは、この前エドワード殿下が言っていた『男として見ろ』っていうのと同じなんだ」
「! それ、わかる。キスできる相手ってことなんでしょ?」
マリアが黄金の瞳をキラキラと輝かせてそう答えると、エミリーがギョッとした目をレオに向けた。
エドワード王子がマリアにキスしようとした話は誰にも言っていなかったため、突然マリアの口から『キスできる相手』という言葉が出てきて驚いたからである。
なぜマリアがそんな答えを言ったのか……とエミリーから疑いの目で見られ、レオは慌てて言い返した。
「そ、それも間違ってないけど、とりあえずそのことは忘れて」
「?」
レオはわざとらしくコホンと咳払いをすると、人差し指を立てて説明を始めた。
「まず、恋愛感情は同時に2人に感じたりはしないんだ。相手はただ1人。その人とうまくいかなかった時は、その人を諦めて違う人を好きになることもある。でも、基本的に恋愛の意味で好きな相手は1人だけだ」
「恋愛の意味で好きになるのは1人だけ……」
実際には同時に2人も3人も好きになれる人もいるけど──という話は、今はしないことに決めた。
レオは机にある『恋愛感情』の紙を指差し、マリアと目を合わせながらキッパリと告げる。
「この『恋愛感情』に当てはまるのは、1人だけ。そして……」
レオはもう1枚の紙を指差す。
「マリアが他に好きだと思う相手は、みんな『恋愛のない感情』だ」
「他のみんなは全部こっち?」
「そうだ」
マリアはほぉ〜と驚いたような感心したような顔でレオを見つめた。
知ってて当然の内容を話しているだけだというのに、レオは自分がとても賢くなったような気がしてしまう。
エミリーが微笑ましそうななんとも言えない顔で2人を眺めている。
「先生。その恋愛感情かどうかは、どうやってわかるの? キスをしてみようとしたらわか……」
「マママリアッ! それはとりあえず忘れて!」
レオがやけに焦った様子で止めるので、マリアは言葉の途中で黙った。
はぁーーっとため息をつくなり、レオは続きを話し出す。
「恋愛かどうかを判断できるのは、たぶん自分しかいない。でも、自分の気持ちなのに自分で判断できない時もある」
レオの説明を聞いて、マリアはたまに感じる自分のよくわからない感情があることを思い出した。
グレイを相手にした時にだけ、やけに胸が高鳴ったり鼓動が速くなったりするのだ。
自分の気持ちなのにわからない……っていうのは、よくわかる……かも。
そんなことを考えながら、マリアはレオに質問した。
「じゃあ、どうやったらわかるの?」
「それはですねーー、マリアさん。嫉妬と! ドキドキです!」
「嫉妬とドキドキ……!!」
マリアの顔がまた楽しそうにパァッと輝き、レオもつられてニヤリと笑う。
昔からこの2人を見てきたエミリーは、グレイとマリアよりもレオとマリアのほうが本当の兄妹みたいだと吹き出しそうになるのを我慢した。
「たとえば、俺がマリア以外の女の人と手を繋いで仲良さそうにしてたら、どう思う?」
「レオが? うーーん……誰だろう〜って思うかな?」
「胸は痛む?」
「え? 痛まないけど……」
「ここで胸が痛むのが、その女性に嫉妬してるってことになるんだ! ……まぁ俺はなんとも思われてなくてちょっぴり悲しいけど」
「なるほど」
私以外の女の人と仲良さそうにしてるのを見て、胸が痛むのが嫉妬……。
マリアが頭の中で復習をしていると、レオが突然マリアの手をギュッと握ってきた。どうしたのかとマリアが見上げると、レオは意味深な笑顔でニコッと笑った。
「じゃあ次ね。今マリアと俺は手を繋いでいるんだけど、どう感じる?」
「どう感じる? んんーー……手を……繋いでるなぁって……」
「プハッ! うん。まぁ、その通りだよね……ハハッ」
何がおかしいのか、レオが吹き出した。
近くに立っているエミリーの肩も震えている。
「まぁ、これも悲しいといえば悲しいんだけどさ。マリアは俺にドキドキしてないってことだね」
「ドキドキ……?」
「そう。恋愛の意味で好きな相手の場合、手が触れるだけでもドキドキするものなんだよ。心臓がいつもより速くなって、顔が赤くなって、頭が少しパニックになる……みたいな」
「なるほど」
うんうんと素直に聞いているマリアと違って、経験者ですか? という目でエミリーから見られていることにレオは気づいていない。
得意気になって話を続けている。
「この2つが当てはまると、その相手は『恋愛感情』で好きって言えるかな? まぁもちろん例外はあるし、誰にも必ず恋愛感情で好きな相手がいるとも限らない。実際に、俺には今そういう意味で好きな相手はいないしね」
「2つ当てはまる相手が……恋愛感情で好きな相手……」
「そう。貴族はあまりこの感情を優先されずに結婚する人が多いけど、マリアには……ちゃんとマリアが好きになった相手と結婚してほしいなって俺は思うよ」
優しく微笑むレオと、隣でうんうん頷いているエミリー。
マリアはそんな2人の姿を見て、胸が温かくなるのを感じた。ほんわかとした優しい気持ちに包まれる。
レオの話をまだ完璧に理解できたかわからないけど、この2人に喜んでもらえる結婚がしたいとマリアは思った。
手を繋いだだけでドキドキかぁ……。
…………あれ? 私、お兄様といる時に心臓が速くなったことがあるけど、あれもドキドキになるのかな? んん?
「ねぇ、レ……」
コンコンコン
マリアがレオに問いかけようとした時、書庫の扉をノックされた。
ここは滅多に人の来ない場所であるし、マリア達がここにいることも誰にも言っていない。一体誰が来たのだろうと、3人は黙ったまま顔を見合わせた。
レオが少し扉に近づき返事をする。
「……はい?」
「ガイルです。マリア様へエドワード殿下から手紙が届いてます故お持ちいたしました」
「あ、どうぞ」
なんでここにマリアがいることを知っている? と3人は思ったが、ガイルならば知っていても不思議はないと各自結論を出した。
返事をしてすぐ、ガイルが書庫に入ってくる。
「マリア様、王宮から来月行われるガブール国との親交パーティーの招待状が届いております」
「ガブール国?」
昔からそれなりの友好国であるカブール国は、船を使ってひと月近くかかるほど離れた場所にある。
そのため王族同士が実際に会うことは滅多になく、10年前の聖女セレモニーにも参加していなかった。
ガブール国との親交パーティーと聞いて、レオがハッとして両手をパンと叩いた。
みんなの視線がレオに向けられる。
「あっ! それ、聞いた! この親交パーティーは、カブール国のマナーに合わせたものになるって! この国はわりと自由だけど、カブール国では絶対にパートナーを連れての参加じゃなきゃダメなんだって!!」
「パートナーなしでは入れないってこと?」
「そういうことだね! ……ということは、その王子からマリアへの手紙ってもしかして……」
レオが爆弾でも見るような目でマリアへの手紙を見ている。エミリーもレオの考えをすぐに察したのか、レオと同じような顔をしている。
ガイルだけは顔色を変えないまま、優しくマリアに問いかけた。
「マリア様。こちら、開けてもよろしいでしょうか?」
「うん。もちろん」
マリアが答えるなり、ガイルはペーパーナイフを取り出しサッと一瞬で手紙を開けた。
そして、そのままマリアに手渡す。
マリアはまず声には出さずに先に1人で手紙を読んだ。
「……親交パーティーの招待状だわ。それと……当日は私をエスコートしたいって」
「あああっ!! やっぱり!!」
レオはそう叫ぶなり頭を抱え、エミリーは頭痛がしてきたのかこめかみ辺りを押さえて目を閉じた。
どうやら2人にとってあまり良くない展開らしいが、何が問題なのかわかっていないマリアは首をかしげながら2人に尋ねる。
「何かいけないの?」
「……マリア。その王子からの誘い、受けるの?」
「断れるの? 王宮の特別な用紙に、エドワード様と陛下のお名前まで書いてあるのよ。これはただの手紙じゃなくて、命令証書のようなものだわ」
「……断れない……ね」
今までも、何度かエドワード王子にパートナーとして誘われたことがある。そのどれもが全て口頭で誘われており、承諾したことも断ったこともある。
しかし、ここまで正式な形で誘われたのは初めてであった。
無知なマリアでも、これは断ってはいけないものだということくらいわかる。
「レオは断ってほしいの?」
肩をガックリと落としているレオにそう尋ねると、何故かレオはチラリとガイルとエミリーを見た。そしてすぐにマリアに向き直り、苦笑いを浮かべながら答える。
「そうじゃないんだけど……。その、マリアはそれでいいの?」
「うん。特に問題ないよ?」
「そう。……あのさ、ガイル。その招待状……グレイにも届いてるんじゃないの?」
「えっ?」
レオの意外な言葉に、マリアは目を丸くした。
何故なら、今まで王宮のパーティーにグレイは誘われたことがなかったからである。……正しくは、パーティー嫌いのグレイが初めから招待状の送付を断っていたからだ。
グレイが参加しないならと、マリアも聖女としての参加を頼まれた時以外は断ることも多かった。
お兄様にも同じ招待状が……?
少し気まずそうにしているレオに、ガイルが答える。
「はい。グレイ様にも届いております」
「やっぱり……。マリアへの手紙は開いてなかったのに、ガイルが招待状の件だと知ってるのはおかしいと思ってさ」
「本当に、お兄様にも届いてるの?」
「はい」
グレイに届いた物にも陛下のサインが入っているのであれば、断ることはできない。パーティーに参加しなければいけない。
そして、パーティーに参加するには……必ずパートナーが必要になる。
お兄様が、誰かと一緒に……誰かをエスコートしながら、パーティーへ……?
ズキッ
マリアの胸に、針に刺されたような痛みが走った。
以前からたまに感じる──治癒の力で治せない痛みだ。
この痛みを感じると、しばらくは胸のズキズキとした痛みに耐えなくてはいけない。
どうしよう……胸が痛い。……あれ?
他の女性と手を繋いでいるところを見ると胸が痛む。
これは『嫉妬』だと、さっきレオから教わったばかりだとマリアは思い出した。
他の女性をエスコートするところを見たくなくて胸を痛めるのも……嫉妬?
ズキズキする胸を押さえながら、マリアは少し考え込むのだった。