70 マリアの恐ろしい決意
「バカなの!?」
「えっ」
突然の暴言に眉を下げたマリアを見て、レオは慌てて言い直した。
余程驚いたのか、マリアはティーカップを持ったまま固まってしまっている。
グレイの部屋で寝た翌日、早速マリアはレオに昨夜のことを報告していた。
「あっ、ごめん! 違う! 今のはマリアに言ったんじゃなくて、グレイに対して……」
「どうしてお兄様がバカなの?」
「だって、女の子に向かってむ、む……胸の話をするなんて、おかしいだろ?」
なぜかレオは顔を赤くして、胸という単語の部分だけ小さな声にして言った。
どうして女の子と胸の話をするのがおかしいのか、それをなぜそんなに恥ずかしそうに言うのか、マリアにはわからなかった。
「何がおかしいの?」
「何がって……マリアだって嫌だろ? その、む、胸の話をされるなんて……」
「嫌じゃないけど?」
「えええっ!?」
レオの顔は赤くなったり青くなったり、コロコロ変わって忙しそうだ。さっきまでは恥ずかしそうに照れていた顔が、今はショックを受けたように顔面蒼白になっている。
「マリア。も、もしかして、今までも誰かとそんな話を……?」
「んーー……。エミリーや、着替えを手伝ってくれる人達とはたまにする、かな? お洋服のサイズについてとか」
「それって女の人だよね? 男の人とは?」
「……お兄様としかしてない、かな?」
「はぁ……よかった」
何がよかったのか、レオはホッと胸を撫で下ろしている。ただ会話をしているだけだというのに、なぜかどっと疲れたような雰囲気だ。
レオ、どうしたんだろう?
胸の話を男の人としちゃダメなの?
はぁーーっと一息ついたレオが、今度は真剣な顔でマリアの目をジッと見た。
「いい? マリア。もし今後そんな話をしてくる男がいたら、笑顔で会話しちゃダメだ。こう、強く睨みつけるんだ」
そう言いながら、レオは誰もいない左隣をギロッと睨みつけた。この睨み方を真似しろ、と言いたいのだろう。
マリアは目を細めてキッと睨む真似をしたが、レオは目をつぶって首をフルフルと横に振った。
「それじゃ全然怖くないよ。こういうのは、自分は嫌な気持ちです! っていうのをアピールしないといけないんだ。はい、もう1回やってみて」
マリアは眉をくねらせて、またキッとレオを睨みつける。
無意識に力が入っていたのか、マリアの両手はグーの形になっている。瞬きを忘れていたせいか、涙目にもなっていた。
真剣な表情だったレオの顔色が曇る。
「う、ううーーん。全然怖くない上に、むしろ可愛いっていうか、これはこれで興奮するヤツとかいそうだな……。んんーーどうしよう……」
「……ねぇ、レオ。なんで男の人と胸の話をしたらいけないの? 普通は嫌な気持ちになるの?」
「え? 普通……は、まぁ女性にそんな話をしたら、怒られるか嫌われるか……おとなしい人なら、泣いちゃう人もいるかも」
「そうなの? なんでだろう。背が大きくなったっていうのと、何が違うの?」
「え? 背?」
「うん。背が大きくなると、みんな喜んでくれたでしょ? それと胸が大きくな……」
「あああ、待って、待って!!」
顔を赤くしたレオが、慌ててマリアの話を止める。
そして「はぁーーっ」と大きなため息をつきながら、自分の茶色の猫っ毛をわしゃわしゃと掻いた。
「うん。なるほどね。わかった。マリアにとって、背の話と胸の話が同等なのか」
「成長したってことなんでしょ?」
「それはそうなんだけど、んんーー……はぁ。そっかぁ」
「?」
レオは、何かにすごく納得したようにすっきりとした顔になった後、また困惑の色を滲ませた。
レオがこんな顔をする時は、マリアには言えない何かを隠している・もしくは言うべきか迷っている時だ。
マリア様のことを大切にしているからこそ、言いにくいことなんですよ。と、昔ガイルに優しく言われたことをマリアは思い出した。
エミリーもレオも、昔からこうやって私にはっきりと言ってくれない時があるんだよね。
どうして男の人に胸の話をしたらいけないのか、あとでエドワード様に聞こうっと。
エドワード様ならちゃんと教えてくれるし。
マリアが心の中でそんな恐ろしい決意を固めているとは知らず、レオはとりあえず話を戻すことにした。
「そういえば、昨夜の話が途中だったけど……グレイに抱きついた後、その、ど、どうしたの?」
「どうしたのって?」
「まさか、一緒に寝たの?」
「…………」
マリアはレオのまん丸い子犬のような瞳を見ながら、昨夜のことを思い出した。
*
グレイに抱きつき、拒否した原因が成長したマリアの胸だったとわかった後……グレイはいつものように、横になったマリアに毛布をかけてくれた。
自分はまだ眠るつもりがないのか、グレイは横にならずにベッドに座ったままだった。
「お兄様はまだ寝ないの?」
「まだ寝る時間ではないからな。マリアは疲れてるだろうし、もう寝ろ」
「うん。おやすみなさい」
そう言って、グレイの服の裾を握りしめながら眠りに落ちたマリア。目が覚めた時には、目の前にグレイがいるはず。隣で眠っているはず。
そう思っていたのに……。
「……なんで?」
朝早くに目覚めたマリアは、自分がベッドに1人で寝ていることに気づいた。隣には、グレイどころか人が寝ていた形跡すらない。
冷たいシーツを軽く撫でて、マリアは部屋を見回した。
いた!
グレイはすぐに見つかった。長ソファに横になり、薄い毛布をかけて寝ている。
マリアがこの部屋に来た時には、この薄い毛布はなかった。マリアが寝た後に調達したのだろう。
つまり、それはグレイがたまたまここで寝てしまったのではなく、元からここで寝ようとしていたということになる。
最初からベッドに来るつもりがなかったってことだ。
マリアは裸足のまま長ソファに近づき、グレイの寝顔を見つめた。そして、静かにその場にしゃがみ込む。
「……なんで一緒に寝てくれなかったの?」
マリア自身にもやっと聞こえるくらいの小さな声。
すやすやと眠っているグレイには、もちろん届いていない。
マリアはもう一度眠る気にならず、自分の枕を持ってグレイの部屋から出た。
*
「……というわけだから、一緒には寝てないの」
「そっかぁ〜! よかった!」
大袈裟なほど喜んでいるレオの反応に、マリアは目を見開いた。
自分の感情と違いすぎて、レオの言葉が理解できなかったからだ。
よかった?
お兄様が私と一緒に寝てくれなかったのに、よかった?
「さすがにグレイもそこはちゃんと考えてたんだな〜。部屋に入れた、ベッドの上で抱きしめたって聞いて、心配しちゃったよ。いや〜よかった、よかっ……た……」
そこまで話したレオは、マリアの顔を見て言葉を止めた。
唇を尖らせて、ムスッとした顔をしている。マリアが怒っている。
それに気づいたレオは、すぐにマリアの気持ちを察した。
「あ、えーーと。マリアにとっては、そのーーよくはない……よねぇ?」
「私は悲しかったのに。レオってば、そんなに喜ぶなんてひどい」
「ごめん、ごめん。つい……! でも、俺はグレイとマリアが一緒に寝てなくて安心したよ」
「!! どうして?」
「友人にはまともに順序を進めていって欲しいからさ」
「?」
レオの意味深な言葉に、マリアの頭の中には ??? がたくさん浮かんだ。
どういう意味なのか問い詰めたいが、こうやってレオが言葉を濁すには理由があることもわかっている。きっと聞いたところで詳しく教えてはくれないだろう。
これも、あとでエドワード様に聞こうっと。
明日王宮の研究室に行く予定だし、その時に会えるかな?
エドワード王子とマリアはもう10年の付き合いではあるが、実は全く会話をしなかった時期がある。
14・15歳の頃になると、エドワード王子が急にマリアを避け始めたのだ。
王宮で会っても、挨拶すら返してくれない。
目も合わせてくれない。
名前を呼んでも顔を背けて無視され、笑顔を見るどころか怒られることすらない。
エドワード王子のことを友達だと思っていたマリアは、この頃ひどくショックを受けた。
グレイに相談しても「よかったじゃないか」と言われて終わりだったし、王子の執事やレオに相談しても「思春期だから、そのーー……」と、よくわからない言葉で濁されて終わった。
どうすることもできずにいたある日、まただんだんとエドワード王子から話しかけられるようになり、今では出会った頃のようになんでも話せる関係に戻っていた。……マリアの中では。
久々に会話をした時には、エドワード王子の身長がさらに高くなって、声が低くなっていたことにマリアは驚いた。
そして、今のエドワード王子は、なぜかやけにグレイとの現在の関係について色々と聞いてくる。
兄と何かあったらすぐに俺に教えろ! って言われてるし、今回のことも相談していいよね?
お兄様がマリアと一緒に寝てくれなかったのはなんでだろうってことと、男の人と胸の話をしたらダメなのはどうしてなのか、この2つを聞いてみよう!
「……あれ? マリア。さっきまで納得いかない顔してたのに、今はちょっとスッキリしてるね? わかってくれたのかな?」
レオが、少しホッとしたような顔で言った。
本当はまだ理解できてないことばかりだが、ここは肯定しておいたほうがいいだろう。
ずっと困った顔をしていたレオに申し訳ない気持ちになったマリアは、コクリと頷いた。
「よかった! じゃあ次からは、マリアもちゃんと自分が17歳のレディであることを忘れない行動を取るように! わかった?」
「わかった」
17歳のレディであることを忘れない行動?
全くわかっていなかったマリアだが、明日エドワード王子に教えてもらえるし……と思い、その場はわかったとウソをついてしまった。
この時レオに「エドワード王子に相談してみる」と話していたなら、全力で止められることになっただろう。
自分がとても恐ろしいことをしようとしているとは知らず、マリアは明日を楽しみにしているのだった。