69 夜、グレイの部屋へ
夜の11時過ぎ。
マリアはお気に入りの白い枕を抱きしめ、グレイの部屋の前に立っていた。
これまで何度も来たことがあるのに、なぜか少し緊張している。夜に訪れるのは半年ぶりだからだろうか。
昼食も夕食もグレイと一緒だったが、あまり話はできなかった。マリアの帰宅に喜ぶ使用人達が、みんな部屋に集まってきていたからである。
皆の前で、自分のことを嫌っているのかなどと聞くことはできなかった。
やっぱり夜にお兄様の部屋に行くしかない! と改めて決意をしたマリアは、こうして寝巻き姿のままやって来たのである。
……扉の隙間から明かりが漏れてる。
お兄様はまだ起きてるわ。
よし! と気合いを入れ、マリアは扉をノックした。
コンコンコン
「なんだ? ガイルか?」
扉越しに聞こえてきたグレイの声に、マリアの心臓がドキッと跳ねる。枕を少し強く抱きしめ、少し震える声をなんとか絞り出した。
「あの、マリアです」
「……マリア?」
「はい」
いつもならすぐに入れと言われるのに、なぜか何も返事がない。
静まり返った暗い廊下に1人立っているマリアは、どうしたのかと不安に襲われた。
あ、あれ? 何も返事がない。
迷ってる? 来ないほうが良かった?
ドキドキドキ……鼓動がどんどん速くなる。
入ってもいいか聞こうと思ってるのに、喉がカラカラになっていて声が出ない。どうしようか困っていると、目の前の扉が突然開いた。
「……こんな時間にどうしたんだ?」
上から自分を見下ろしているグレイ。
少し長い前髪の隙間から見える碧い瞳。寝巻き代わりであるシャツのボタンを、胸元まで開けている。
普段のキッチリとしたグレイとは違う、ラフでどこか色気のあるその姿に、マリアは顔を赤くした。
「あ、の……ひ、1人でいるのが久しぶりで、その、ちょっと怖くて、今日はお兄様と一緒に寝たくて……」
「!」
マリアの言葉に、グレイは目を丸くする。
その後すぐに、呆れたように目を細めてマリアに苦言した。
「マリア……怖いって、お前はもう17歳だろう」
「じゅっ、17歳でも、怖いものは怖いのっ」
「…………」
グレイの軽蔑したような呆れたような視線が痛い。しかし、ここで負けては追い返されると思ったマリアは、なんとか食いついた。
氷のような碧い瞳が、マリアの持っている枕に視線を移す。
「……昔と変わってないな」
フッと、グレイが柔らかく笑った。
なかなか見ることができないグレイの笑顔に、マリアの心臓はまた大きく跳ねた。
子ども扱いされるのはなんだか複雑だが、グレイの笑顔が見れるのであれば全然構わない。ここはチャンスとばかりに、マリアはグレイをジッと見つめた。
「お願い。一緒に寝てもいい?」
自分の上目遣いがどれほど魅力的なものなのか。それをわかっていないマリアは、グレイが一瞬戸惑ったのに気づいていなかった。
ジーーッと目を逸らさずに見つめ続ける。
グレイもマリアから目を逸らすことなく、何かを考えた様子で見つめ返してくる。
たったの数秒、数十秒ではあるが、マリアとこれだけの時間目を合わせたままいられる男性は、グレイとレオ……あとはガイルだけだろうか。
つき合いの長いエドワード王子だって、マリアと数秒目が合っただけで勢いよく逸らすくらいだ。
自分から目を逸らさずに見つめ続けてくれるグレイに、マリアは嬉しくもありどこか恥ずかしくもあった。
「お兄様……ダメ?」
「はぁ……全く。中身は変わってないな」
中身が変わってない。
それが褒め言葉なのかどうかマリアにはわからなかったが、部屋に入れてもらえたことにホッと胸を撫で下ろした。
良かった! 拒否されなかった!
いつものようにベッドに進み、グレイの枕の横に自分の枕を並べる。そしてニコニコしながら振り返り、ある違和感に気づいた。
あれ? なんでお兄様、こっちに来ないの?
いつもなら、マリアの隣に座り、ベッドに横になったマリアに布団をかけてくれるのがお決まりのコースだ。
なのに、なぜかグレイはベッドから離れたソファに座っている。
「……お兄様、こっちに来ないの?」
マリアは思っていることをそのまま口にしてみた。
部屋に入れてもらった安心感が薄れて、また不安な気持ちが大きくなっていく。
「まだ本を読んでいるからな」
「でも、前はベッドの上で読んでたのに」
「隣に俺がいたら邪魔だろう?」
「邪魔じゃないよ! 邪魔だなんて思うなら、来るわけないでしょ」
「怖かったから仕方なく来たんだろう? 俺のことはいいから、早く寝ろ」
そう冷たく言うなり、グレイは本に視線を戻す。
グレイの考えていることがわからない。
なぜ、こうも昔と態度が変わってしまったのか。
拒否せず部屋に入れてはくれたが、やはり迷惑だったのだろうか。
黒いモヤモヤが、マリアの胸の中を占領していく。
グレイに嫌われてしまったのかもしれないという不安で、胸が押しつぶされてしまいそうだ。
本当に、嫌われてるのかな……。
気づけばマリアの瞳からは涙がポロポロと流れていた。
下にあるベッドのシーツに、ポタポタと涙のシミが浮かんでくる。
「マリア!?」
グレイが勢いよく立ち上がったのがわかった。
すぐにこちらにやって来て、ベッドに腰をかける。そしてマリアの頬に手を当てると、顔が見えるようにクイッと持ち上げられてしまった。
至近距離に、グレイの碧い瞳が見える。
「なんで泣くんだ? そんなに怖いのか?」
検討はずれなグレイの質問。
自分の態度のせいでマリアが傷ついているとは、全く考えていないらしい。
少し迷い、マリアは返事をした。
「……うん」
「何がお前をそこまで怖がらせる? 今回の旅で何かあったのか?」
マリアは首をフルフルと横に振った。
「じゃあ、なんで……」
「お兄様に嫌われちゃったのかと思って」
「……え?」
目の前にある碧い瞳が、丸くなった。
不安で胸がいっぱいだというのに、マリアは心のどこかでその碧い瞳を綺麗だと思っていた。
宝石のような、透き通った美しい色。
一瞬硬直していたグレイが、ゆっくりとマリアの頬から手を離す。
「なんで俺がマリアを嫌うんだ? なぜそう思った?」
「だって……抱きしめた時もすぐに離されちゃったし、今だって……マリアに近づいてくれなかったから」
「…………」
グレイからの返事が止まり、マリアはグレイから目を逸らして俯いた。
グレイの表情を見るのが怖かったからだ。
言い当てられてしまった、といったような困った顔をしていたらどうしよう。
そう考えると、グレイの顔を見ることができない。
落ち着いていたはずの心臓が、気づけばまた速くなっていた。
「マリア」
グレイの落ち着いた低い声に、思わずビクッと身体が震える。
マリアはゆっくりと顔を上げて、グレイと目を合わせた。
気まずそうでもなく、困った様子でもないいつも通りのグレイの無表情に、今は少し安心してしまう。
「俺がマリアを嫌いになることはない。絶対に」
「……お兄様」
そう言って、まだ微かに残っていた涙を拭ってくれる。
不器用なグレイは、嘘をつかない。それをわかっているマリアは、グレイの言葉に心から安心することができた。
嫌われてはいない……! よかった!
ホッと安心すると同時に、湧き上がってくる疑問。
嫌いじゃないなら、なぜ態度が少し変なのか。なぜ、拒否されたのか。
「じゃあ、もう1回……抱きついてもいい?」
「!」
不安を完全に取り除きたかったマリアは、もう一度おねだりをした。
ベッドの上に座っている、寝巻き姿の2人。
手を伸ばせばすぐに抱きしめることができるほど、2人の距離も近い。
マリアが悪夢にうなされた夜、グレイが眠る時に抱きしめてくれたこともあった。
あのなんとも言えない安心感を、マリアは実感したかった。拒否されたあの嫌な再会をやり直したかった。
ここにレオやガイルがいたなら、「この状態ではダメ!」と止めただろう。
でも、ここにはレオもガイルもいない。
ここにいるのは、心がまだ子どものままでいる純粋なマリアと、なぜあの時マリアを拒否したのか自分でわかっていない無自覚な男だけである。
「抱き……つくのは……」
「ダメなの? 嫌いじゃないって言ってくれたのに?」
ウルウルと涙を溜めた瞳で問いかけると、グレイは「うっ」と言葉に詰まってしまった。
これでは再会した時と同じである。なんの返答ももらえないまま、抱きつくのを拒否されてしまう。
しかし、マリアはこれ以上どうお願いすればいいのかわからず、グレイの返事を待つことしかできない。
「……わかった」
「え?」
嫌いじゃないなら、なんでダメなの?
そのマリアの言葉を聞いて、グレイが真っ先に思ったのは「確かに」という納得だった。
マリアのことを嫌いなはずがない。
それなのに抱きつくのを拒否するのはおかしい。
自分自身でそう結論付けたグレイは、急に真面目な顔でマリアに告げた。
「おいで」
「!!」
グレイは、マリアが抱きつきやすいように両手を軽く広げている。
グレイからの突然の許可に、マリアは戸惑いつつもその胸に顔を寄せた。
細い腕をグレイの背中に回し、ぎゅっと抱きしめる。
嬉しさと、また引き離されたらどうしようという不安で、心臓はドキドキと速い鼓動を打っている。
しかし、数秒経ってもグレイがマリアを引き離すことはなく、拒否されなかった安心感でマリアはホッと微笑んだ。
よかった……!
いつもならしてくれるはずの頭を撫でる行為がないことだけが気掛かりだが、それでも自分自身を離されなかったという安心感のほうが強かった。
「ただいま、お兄様」
「……そうか」
「ん?」
再会の場面をやり直そうと、ただいまと言ったマリアに対し、グレイは何かに納得できたような声を出した。
やけにスッキリとした声に、マリアは少しだけ顔を離してグレイを見上げる。
グレイは自分自身の謎が解けたことが嬉しいのか、少しだけ口角が上がっていた。
「お兄様、どうしたの?」
「俺がマリアを離してしまった時、何か違和感を感じていたのだが……それが何かわかった」
「え?」
「胸だ」
「む、胸?」
意外すぎる解答に、マリアは目をパチパチとさせた。
グレイは「なるほど、そうか。それで……」と独り言を呟きながらも、話を続ける。
「今まで感じなかったから、突然で驚いてしまったようだ」
レディに対し、突然胸の話をしてくる。
今までは胸が小さかったと言っているようなもの。
こんな失礼な話はなく、普通の令嬢であれば怒るなり呆れるなりするところだろう。
しかし、7歳からは箱入り娘のように大切に大切に育てられたマリアは、まだよく性についてわかっていなかった。
17歳になり突然の成長期を迎え、そろそろ教えたほうがよいかとエミリーが考え始めた頃、今回の長い聖女の旅が始まってしまった。
よって、マリアはまだそういったことには無知であり、胸の話をされても嫌悪感などは感じていない。
むしろグレイと同じく「なるほど!」と妙に納得してしまっていたくらいだ。
「そういえば私、最近胸が大きくなってきたかも……」
「それが違和感の正体だったんだな」
「なんだ……そっかぁ。……あっ! お兄様は、胸が大きいのは嫌い?」
「他の女に無理やり押し付けられる時はかなり不快だが、マリアなら不快じゃない」
「よかったぁ〜!」
微笑ましいが、とても成年を迎えた男女が朗らかにする会話ではない。
そのことに、2人とも気づいていなかった。
マリアを無意識に引き離してしまった理由は、突然感じた胸の膨らみに驚いたから。
そう結論付けたグレイだったが、それにより自身がマリアを意識してしまったことについてはまだ知らぬところである。
そして、マリアは心の中で小踊りするほど喜んでいた。
お兄様が私を離したのは、胸に驚いただけだった!
私のことが嫌とかじゃなかった!
よかった〜。明日、レオに話そうっと。心配かけちゃったもんね。
このことをそのまま報告し、「バカなの!?」と顔を真っ青にしたレオに叫ばれることになろうとは、この時のマリアはまだ知らなかった。