41 そのキスの意味は?
睨み合っているグレイとエドワード王子の緊迫した様子にマリアが困っていると、ガイルがグレイのすぐ近くにまでやってきて声をかけた。
グレイが視線を外したことで、ピリピリとした空気が少しだけ緩む。
「グレイ様。馬車の準備ができております」
「わかった。ではこれで失礼します、エドワード殿下」
グレイは王子にそう挨拶をするなり、マリアを抱えたままクルッと踵を返した。
マリアとエドワード王子の目がパチッと合う。
王子はぶすっとした顔で、すぐに歩き出そうとしたグレイを引き止めた。
「マリアにもきちんと挨拶をさせろ」
「……わかりました」
グレイは面倒くさそうな顔を隠そうともせず、小さく返事をしたあと渋々とマリアを下におろした。
ガイルや王宮の使用人たちが皆3人の様子を遠巻きに眺めている。
挨拶って言ってたよね? あのお辞儀でいいのかな?
地面に足がつくなり、マリアはトコトコとエドワード王子の前に歩いていった。
そしてスカートの裾を持ち「エドワード殿下、本日は……」と貴族のお辞儀をしようと頭を少し下げる。
しかし最後まで言い終わらないうちに王子にガシッと左手を掴まれてしまった。
「?」
マリアが不思議に思い顔を上げると、王子はつかんだマリアの左手をゆっくりと自分の顔に近づける。
そして少し戸惑いながらも、目をぎゅっとつぶってマリアの手にキスをした。
「!!」
何をされたのか、これがどのような意味なのかをマリアはわかっていなかったが、騎士達のほうから「おおっ」という小さい歓声が聞こえてきたので、何か特別なことなのだろうということだけは伝わってくる。
マリアのうしろに立っているグレイは、王子に聞こえないくらいの小さな声で「このガキッ……」と呟いてはガイルに「グレイ様!」とたしなめられていた。
ガイルもすでにグレイからは離れた位置に戻っていたため、自身の罵声がガイルに聞こえていたという事実にグレイは驚いて振り返った。
手を後ろで組むようにして姿勢良く立っているガイルは、『場所をわきまえてくださいね』という目でグレイを無言で見つめている。
グレイは呆れたようにガイルから目をそらした。
手にキスをされたマリアは、その後からずっとうつむいているエドワード王子の顔を覗きこむようにして優しく声をかけた。
「……エドワード殿下?」
名前を呼ばれた王子は一瞬ビクッと身体を震わせると、拳をぎゅっと握りしめた。
そしてゆっくりと真っ赤になった顔を上げる。
その目はどこを見ているのやら、マリアとは全然違う方向を向いたままぶっきらぼうに返事をした。
「……なんだ?」
「あの、なんでマリアの手に口をつけたんですか?」
マリアが先ほどのキスの意味を問おうと質問をすると、真っ赤だった王子の顔がさらに赤くなる。
マリアは人の顔ってこんなに赤くなるのかと、王子を見て内心とても驚いていた。
王子はクリッとしたまん丸の目をマリアに向けて、少し震えながら大きな声で叫んだ。
「おっ……お前は! ミアのキスも知らないのか!?」
「ミアの……キス……?」
「男が女の左手にキスすることをミアのキスって言って、その意味は……! ……っ」
じーっと興味津々で聞いているマリアを見て、まくし立てるように話していた王子がピタッと口を閉じた。
そのあとに言う言葉を口にしようか迷っているように見える。
言葉知らずなマリアに怒っているのか、ニヤニヤした顔で2人を見ている執事や騎士達に怒っているのか、王子は少しイライラした様子でマリアをジロッと睨みつけた。
「もういいっ!!」
「え? その意味はなんですか?」
「あとで誰かに教えてもらえっ! それから、敬語は使うな!」
エドワード王子はそれだけ吐き捨てるように言うと、プイッとマリアに背を向けて走りだしてしまった。
使用人の何人かは王子のあとをコソコソと追いかけている。
その場にポツンと残されたマリアのもとに、王宮の執事が申し訳なさそうな顔をしながら近づいてきた。
「聖女様、大変失礼しました」
「い、いえ」
執事は少し疲れたような顔をすると、「馬車までご案内いたします」と言ってグレイとマリアの前をゆっくりと歩きだした。
マリアが歩きだすとグレイがスッと手を差し出してきたので、マリアは嬉しそうにその手をつなぐ。
今までほとんど人に触れることのなかったマリアは、グレイと手をつなぐのが好きだった。
……とはいえ、グレイとマリアの歩調があまりにも違いすぎていたためすぐにまた抱き上げられてしまったのだが。
王宮に来た時にはマリアに合わせてゆっくり歩いてくれていたはずだが、今のグレイはすぐにでも帰りたいという様子で足早に歩いていたのである。
「歩くの遅くてごめんなさい」
「まだ小さいんだからしょうがないだろ。気にするな」
「お兄様、マリアを抱っこしていたら疲れない?」
「マリアは軽いから何も感じないな」
「もう帰るの?」
「ああ」
「お兄様……ミアのキスってなあに?」
「…………」
すぐに答えてくれていたグレイが途端に無言になる。
王宮の執事とガイルがチラリ……と横目でグレイの様子をうかがっている。
一瞬で空気がピリッとしたのがわかり、マリアはそれ以上聞いてはいけないのだと悟った。
チラッとガイルのほうに視線を向けると、マリアの考えていることがわかっているのかガイルは静かに頷いた。
ミアのキスがなんなのかは、あとでエミリーに教えてもらおう。
マリアは頭の中に明るくて優しいメイドの姿を思い浮かべた。
彼女ならばきっと笑顔で教えてくれることだろう。
この時すでに、グレイによって『ヴィリアー伯爵家ではミアのキスについてマリアに教えてはいけない』という規則が作られようとしていることに、マリアは気づいていなかった。