16 笑った……
マリアは今まで感じたことのない気持ちで、その人物を見つめていた。
涙を流しながら、自分にお礼を言ってくる少年。
ありがとうって、初めて言われた……。
今までマリアは「ありがとう」と言われたことがなかった。
どんなにひどい怪我や難病を治癒しても、お礼を言われるのはいつもジュード卿やイザベラであった。
ありがとう、ありがとう……そう言われながら泣きつかれている姿を、マリアは何度も見たことがある。
「あんたは治癒するだけの道具で、治すかを判断しているのは私なのだから、私がお礼を言われるのは当然でしょ?」
マリアは何も言っていないのに、なぜか突然イザベラがそんなことを言ってきた日があった。
今まで特に気にしていなかったのだが、この言葉を聞いてマリアは『そっか。マリアは人を治す道具なんだ』と納得した。
それなのに、今マリアの手を優しく握ってくれているこの人は、泣きながらお礼を言っている……マリアに向けて。
嬉しいのか恥ずかしいのかよくわからない、くすぐったい気持ち。
初めて感じた感情に、マリアは戸惑っていた。
「おい。いい加減、手を離せ」
「うっ……うっ……ご、ごめん……」
「……泣きすぎだろ」
「だって……う、嬉しくて……。これでまた騎士を目指せると思うと……」
猫っ毛のふわふわ髪の少年は、ゆっくりとマリアの手を離した。
離す直前に、もう一度「ありがとう」と言った。
マリアはコクリと頷く。
少年はひとしきり泣いたあと、また思い出したかのようにグレイに抗議を始めた。
「なんで聖女なのにこんな檻に閉じ込めているんだ!? すぐに王宮に連絡して、保護してもらうべきだ」
「そんなことをしたら、俺の家は終わるな。俺の母も俺も使用人も……聖女を隠して監禁した罪で捕まるし、最悪処刑される」
「そ、それは……」
グレイの言葉に、優しそうな顔をした少年は一気に弱気になった。
そう言えば優しい少年ならきっと怯む……と、わかっていたのだろう。
そしてその言葉に怯んだのは、マリアも同じであった。
マリアがここから出たら、お兄様がつかまっちゃう?
しょけい……ってなんだろう?
「で、でも、この檻からは出してあげたいよ。せめて眼帯や鎖を外したり……」
少年は檻の格子につかまり、不憫そうな顔でマリアを見ている。
マリアに対して『哀』の感情を向けてくれた人は、グレイに続いて2人目である。
「マリアは檻から出たいのか?」
グレイがマリアに訊ねた。
少年が「当たり前だろ!」と言っているが、グレイはそれを無視している。
檻から出たい……?
マリアは考えた。
出たいといえば出たい。やわらかいベッドで寝たり、部屋の中でのんびり過ごしたい。でも……
「マリアが檻から出たら、お兄様がつかまっちゃう?」
「!」
「しゃ……しゃべった!」
驚いて目を丸くしている少年に比べれば無表情と言えるが、それでもグレイも少し驚いているのが顔に出た。
じーーっと見つめるマリアからの視線を、グレイはキリッと整った顔で真っ直ぐに見つめ返す。
「……檻から出ただけでは、捕まらない。お前がこの家から逃げ出したら……捕まるかもな」
「じゃあマリアは出たくない……」
「……!」
「マ……マリアちゃん、なんていい子なんだ……! さすが聖女様! 見た目だけじゃなくて心の中までキレイなんだねぇ……」
少年はウルウルした瞳で2人を見つめている。
喜ばしいはずのその言葉を聞いたマリアは、不思議に思った。
マリアがいい子……? 悪い子なのに……?
マリアが檻から出たくない理由は、実はもう一つあった。
この檻はマリアを守ってくれる盾なのである。
この盾は、定期的に訪れるイザベラの攻撃からマリアを守ってくれるのだ。
たまにこの檻から出されては、イザベラに罵倒されながら暴力を振るわれる。
「あんたは悪魔の娘だ」
「あんたが全て悪い」
「あんたのせいで、私の人生はめちゃくちゃだ」
この女の人が怒っているのは、マリアのせい。マリアが悪いから。マリアが悪い子だから。
マリアがそう思い込むまでに、時間はかからなかった。
しかし、自分が悪いと納得していても暴力を振るわれるのは避けたい。
聖女の力ですぐに治癒はできるが、叩かれた時はもちろん痛みがある。
イザベラは機嫌がいい日と悪い日があり、さらにマリアの檻の鍵も毎回持ってきているわけではない。
たまたま機嫌が悪い日と鍵を持ってきている日が重なると、檻から出されて折檻させられるのである。
機嫌が悪くても鍵がない日の場合は、檻がマリアの身体を守ってくれる。
その代わり暴言を吐き続けられるわけだが、叩かれるよりはずっといい。
マリアにとって、檻から出ることは怖くもあるのだ。
「……お前がこの家から逃げないなら、檻から出せるように動いてやってもいいぞ」
グレイの提案に、マリアは首をフルフルと振った。
「……それは、この家から逃げたいということか? 檻から出たくないということか?」
「…………」
マリアはどう答えていいのかわからなかった。
今まで、自分の意見を聞かれたことなんてなかったから、どこまで本当の気持ちを言っていいのかわからない。
グレイは見下ろすような状態から、膝をついてマリアと同じ目線に合わせてきた。
「正直に言え」
その口調は命令形だったが、マリアにはなぜかそれが優しさに感じた。
言ってもいいのかな……?
「外はこわいから、逃げない。外は……わからない」
「じゃあなぜ檻から出たくないんだ?」
「……こ……こわいから」
「怖い? …………イザベラか?」
マリアはコクリと頷いた。
グレイは苦虫を噛み潰したような顔で「チッ」と舌打ちをした。
「あいつ、おかしいからな」
「お前も大概だけどな〜」
少年がはははっと笑いながらそう言うと、グレイは無言のまま少年のお尻をドスッと蹴った。
「いたっ!! また怪我したらどうするんだよ!」
「安心しろ。マリアがいるから大丈夫だ」
「あとで治ったとしても、蹴られた時は痛いんだからね!」
「お前が余計なことを言うからだ」
正直に答えたことで、グレイが怒ったらどうしよう……と心配していたマリアは、2人のやりとりを見て心から安心していた。
こんな温かな空気を感じたのはいつ以来……いや、あっただろうか。
自然にマリアは笑顔になっていたらしい。
マリアを見た2人が、驚いて喧嘩をピタリと止めた。
「笑った……」
「かわいーー!」
グレイと少年がマジマジと顔を近づけて見てきたので、マリアはすんっと真顔に戻った。
自分が笑っていたことに気づかなかった。
いつもエマやイザベラから「本当に笑わない子ね」と言われていたことを思い出す。
今、自分は笑えていたのか、とマリアは嬉しく思った。