13 俺のことはお兄様と呼べ
マリアと少年は、薄暗い中しばらく無言のまま見つめ合う。
すると、少年が口を開いた。
「怪我をしたら治せるのか?」
マリアがコクリと頷くと、少年は服の中に隠し持っていたナイフを取り出した。
月の明かりに照らされて、小型ナイフがきらりと光る。
マリアのことを切るのかな?
今までに何度もイザベラにナイフを向けられた経験があるマリアは、大人しく少年が動き出すのを待つ。
すると、少年はマリアを見向きもせずに自分の腕を見つめ、そのナイフで切りつけた。
「!」
少年の腕からは血がポタポタと垂れているが、少年の顔は痛みをまるで感じていないかのように冷めた表情をしている。
痛くないのかな?
マリアは、切られたり血が出ると痛いんだけどなぁ。
少年はザックリと深い傷のついた腕を前に突き出し、先ほどと微塵も変わらない落ち着いた口調で命令をした。
「この傷を治せ」
マリアは一瞬迷ったが、格子の間から手を出した。
実は、勝手に誰かを治癒してはいけないとイザベラに言われている。
だがマリアは血だらけの少年をそのままにしておくことはできなかった。
その痛みがわかるマリアだからこそ、すぐに治してあげたいと思ったのである。
力を使うと、いつものようにキラキラと輝く光が溢れてきた。
だんだんと傷が消えていくのが、マリアの目には見えている。
もう少し……!
完全に傷が治ったのを確認すると、ふっと光が消えた。
少年は自分の腕をマジマジと眺めながら、少しだけ嬉しそうな声でボソッと呟く。
「これが癒しの力……!」
少年がニヤリと笑う。
初めて見た少年の笑顔を見て、マリアは自分の心が温かくなったのを感じた。
じーーっと自分を見つめるマリアに気づいた少年は、今度は少しだけ頬を赤く染める。
気まずそうに視線を逸らしながら、また質問をした。
「床の血を消したのもお前か?」
マリアがコクリと頷くと、もう一つ質問をされる。
「お前は、イザベラがここに来る前……ここに住んでいた女の娘か?」
マリアの頭に、自分の母……エマの姿が浮かぶ。
マリアはコクリと頷いた。
「やはりそうか」
少年は、マリアの答えを聞くなりなぜか暗い顔をした。
「お前は……俺よりも不幸なヤツだな。聖女として生まれたなら、王宮で贅沢な生活を送れるものを。強欲な人間に見つかったせいで、こんな場所でこんな暮らしをしているとは」
マリアは、少年が何を言っているのかよく理解できていなかった。
ただ、少年から哀れみの感情が出ているのは感じる。
今までたくさんの人に会ってきたマリアだが、『哀』の感情を向けられたことはない。
治癒で訪れた貴族の中には、マリアに向かって「可哀想に」という言葉を投げかけた者もいたが、そこに『哀』の感情はなく、ニヤリと口元を緩ませた『楽』の感情ばかりであった。
身体が回復したことへの『喜』の感情、突如イザベラから与えられる『怒』の感情もよく向けられるが、『哀』の感情を向けてきたのは少年が初めてであった。
どこか自分自身にも向けているような、そんな『哀』の感情を出す少年。
マリアはなぜか涙が出そうになった。
褒められたわけでもないのに、胸がほっこりとした気持ちになっている。
「お前に名前はあるのか?」
──マリアだよ。
マリアはコクリと頷いた。
「そうか……。なんという名前なのか……」
マリアは答えることができない。イザベラに人と会話することを禁止されているから。
少年は視線を上にあげて、何か考え込んでいるようだ。
だめ……。しゃべっちゃだめ……。あの人がだめって言ってた。声を出しちゃだめって……。
でも、マリアの名前……言いたい。
マリアは着ているワンピースをぎゅっと握りしめる。
「…………マリア」
「…………え?」
「…………」
少年の目をジッと見つめながらそう呟くと、少年は驚いた顔でマリアを見つめ返した。
「……今、お前が喋ったのか……?」
マリアはコクリと頷く。
「もしかして名前を言ったのか? なんて言った?」
「…………マリア」
「マリア……」
少年に名前を呼ばれ、マリアの心がはずむ。
今まで、マリアの名前を呼んでくれたのはジュード卿とエマ、執事のキーズだけだった。
しかし、いつからかジュード卿やエマもほとんど名前を呼んでくれなくなり、「マリア様」と呼んでいたキーズも2人の死後は「聖女様」に変わっていた。
ずっと自分だけで呼んできた名前……人に呼んでもらえるだけでこんなに嬉しいのかと、マリアは驚いた。
……元々あまり感情が顔に出るタイプではないので、マリアの喜びに少年は全く気づいていないが。
「……俺はグレイだ」
「…………」
少年は自分の名前を教えてくれた。
しかし、マリアはなんと呼んでいいのかわからずに黙ってしまう。
マリアが名前を呼ばれないのと同じで、マリアも誰かの名前を呼ぶことがなかったからだ。
グレイ……じゃダメだよね。
グレイ様? グレイ卿? グレイ……嬢?
今までに訪れた貴族がなんと呼ばれていたか、マリアは思い出していた。しかし正解がわからない。
「呼んでみろ」
そんなマリアの気持ちも知らずに、グレイが名前を呼ぶよう要求してくる。
「なんて呼んでいいのか……わからない……です」
グレイを見つめたままそう正直に答えると、グレイは目を少しだけ大きく開いた。
そして手を口元に当てて、ブツブツと独り言を言いながら考え込む。
「なんて呼ぶか……? やはりそこはグレイ様で……いやでも血がつながっていなくても、コイツは俺の妹みたいなものだよな……? ……妹……」
家庭が崩壊し、グレイが心を閉ざす前……グレイは兄弟がほしいと思っていた。
もちろん今はそんなこと望んではいないが、なぜかその頃の気持ちが少しだけ蘇ってくる。
こちらを見つめる従順そうなマリアを横目で見たグレイは、かすかにニヤッと口角を上げる。
伝説の聖女が俺の妹というのも悪くない。
「いいか。俺のことはお兄様と呼ぶんだ。言ってみろ」
「お兄様……?」
マリアにそう呼ばれたグレイは、なんとも言えない不思議な高揚感に包まれた。
「そうだ。これからはそう呼べ。特別に許可してやる」
マリアはコクリと頷く。
「あ。だが、このことは誰にも話すな。わかったな?」
マリアはコクリと頷く。
13歳のグレイと7歳のマリアが、この日初めて兄と妹の関係になった。
この時にマリアを妹としてしまったこと、「お兄様」と呼ばせるようにしてしまったことを後悔する日がくるとは、13歳のグレイには知る由もなかった。




