プロローグ
新作です、よろしくお願いします。
「……今日も、いい運動になったな」
そう言って男は大きく息を吐き出した。20キロのダンベルを静かに置いた。
タオルを取り出して汗を拭い、ペットボトルに入った水をグビッと飲み込む。
ペットボトルを置き、彼はもう一度息を吐き出した。
午後六時を回った時計を確認して、軽く頷く。
「……九時間か。思ったより長引いたな」
そう言って立ち上がった彼の名は齋藤 優斗。
22歳独身の、この物語の主人公だ。
ユウトは疲れ切った体に鞭を打ち、歩き出した。
彼の周りでは沢山の人々が、息を切らして筋トレに励んでいた。
ここは筋トレの為だけにある夢のような施設──即ち、ジムである。
日課のように通っている彼にとっては、当たり前の光景だ。
ユウトはそれらに目もくれず、自分の家へと帰らんと足を進める。
……でも、九時間はちょっと短かったかもしれないな。
彼はそう思った。
その要因として挙げられるのは間違いなく、筋トレ開始時刻が一時間ほど遅くなってしまった事にあると感じる。嫁のいない一人暮らしの彼は、頭をポリポリとかく。
つい、家での筋トレを長くしてしまった。今度から気を付けねば。
そうは言うものの、未だ家を時刻通りに出たことが無かった。
やがて彼は、まだまだ活気が有り余っている東京の街並みへと出た。
六時だからだろうか、人が若干少ないように感じる。
それでも十分に喧騒は五月蠅く、あたかも日本中全ての人という人をかき集めたかのようだった。
ユウトは、こういった街並み自体は嫌いでは無かった。
自然の景色の方が好きだけれど、『THE KINDAI』みたいな環境も悪くはない。都会にはたくさんジムがあるから、筋トレに便利なのだ。
彼にとってのジムは、さながら秋葉原のようなものである。
彼は自宅に向かって走り出した。
ここから走って小三時間、いつもより少し遅いから焦らなければなるまい。
やがて、赤になった信号の前で彼は立ち止まる。時計の針が停止したように人々の流れが硬直し、代わりに鉄の箱──車の事だ──が走り出す。
タイミングが悪かったなと舌打ちをする人、静かに時計を見つめる人。
ユウトはそれらに倣って、食い入るように信号を見つめた。
「早く青になってくれ」
彼は切実にそう思った。
ユウトの中では、家までランニングするまでが筋トレ。
休んでしまっては意味がない。
別に誰かからやれと言われてるわけじゃないから、休んでもいいんだけど。
やらないとなんだか、気持ち悪いのだ。
信号待ちをする間、彼は車たちの往来の中に奇妙な物を見つけた。
──少年が、道路の中心で彷徨っている。今にも車に轢かれてしまいそうな、5、6歳ぐらいの幼い子供が……
彼は、我が目を疑うより先に駆けだした。
「逃げろっ、少年!」
自分が何をしているのかに疑問を持ち、鳥肌が立ったのさえ走り出した後だった。
悲鳴が、信号待ちをする人々の中から漏れ出ている。
しかし、彼は止まらない。
やめろ、やめろ、引き返せと欠片ほどの理性が叫んでいた。命を捨てるようなものである。
スクランブル交差点の中心に到着したかと思うと、ユウトはとてつもない腕力を以て少年を突き飛ばした。
突き飛ばされたその小さな体は車の合間を縫うようにして、歩行者道まで行って止まった。
人々の中から漏れ出でる、歓喜と言うよりかは困惑に近い声達。
それを認めたユウトが、ほっと一息をついた。感情は言う。
「これで恐らく、あの少年は安全だろう」
すると理性が、こんなことを言った。
「違うだろう、お前も早く戻らないと……」
「キィィィンッッ!」
笑ってしまうくらいに甲高い音が、人々の耳を劈いた。
トラックだ、そう思った時にはもう遅い。
あと十メートルもない所から、鉄の塊が迫ってきている。
信号を待っていたはずの人は青に変わった信号に目もくれず、目を見開き、あるいは目を覆った。
人々の鼓動はまるで合わせるように、大きく鳴り響いていた。
絶望、彼らはそう表すのだろう。
そしてコトの発端たるユウトもまた、その目を成す術もなく大きく見開いた……
……わけではない。彼は冷静だった。いや、正確には狂っていた。
ゴキリと首を鳴らし、大きく拳を振りかぶる。
彼が、自分がトラックに勝てるという愚かしい慢心を抱いたわけではない。
ただ、『他に道は無い』と感じただけで。
たとえユウトがボディビルダーでなかったとしても、その決断は変わらなかったろう。
彼はどうしようもない恐怖感と共に、その拳を振り下ろした。
ドンと大きな音がしたかと思うと、彼の拳がトラックと衝突した。一つの隕石を片手で受け止めたような、そんな衝撃をユウトは感じていた。
一秒、両者が衝突した時間はほんの一秒にも満たなかった。
「ぐっ……ガハァ!」
勿論、生身の人間がトラックにかなう道理はない。
ビル街に響き渡る絶叫。
魚市場のような匂い。
口に広がる鉄の味。
赤に変わる信号。
……微かな痛み。
五感全てが、危険を知らせていた。
しかし神経は諦めたように一瞬でイカれ、ユウトの五感は真っ暗闇を彷徨いだす。
もうダメだと、彼は悟っていた。
途絶えかけている意識の中、ユウトは手を伸ばす。
「プロテイン……筋肉……結局……何にも、生かせなかったな」
それだけが、未練だった。
伸ばしていた手は力なくうなだれ、血の匂いが濃くなる。
彼はやっと、目を見開いた。