生きたがりの怪物
僕は夜が好きだった。
溢れ出る静謐さと、静かにそよぐ風と、仄かに煌めく街灯の灯りが好きだった。
この変哲の無い日常に、僕の日常に、大きな傷がつくまでは、少なくともそうだったのだ。
傷ついた人生。
僕は少なくとも、この譚を語るべき時がいつかはやってくるのだろうし、この譚に関しては、騙るべき物では無いことは充分承知していたつもりなのだ。
空に大きく輝く青白い満月を眺めながら、僕は考えた。
あれは慥か、五月頃の事だったか──。
「僕」こと鎌田 和成は、クラスの中で、いわゆる「人間嫌い」のレッテルを貼られている。というかそれが高じて今では「人間嫌い」という立ち位置を与えられている。
まぁ友達がいないのも事実だし、移動教室や学校行事などのあらゆる場面において他人と共に行動する事を好む人間では無いのだが、妙に卑屈で厭世的な性格を連想させられる渾名を付けられてしまった。
しかしまぁ、実際はそうではない。
「人間嫌い」と言っても、それはただの噂が歪曲されて解釈されてしまったもので、実の所は少し違う。
正確には、「自分嫌い」だ。
だからといって、自殺を講じているわけでもないし、ただ無気力に無感動に、日々を過ごしているだけなのである。
学校でごく当たり前に形成される、「友達のいない人間同士の繋がり」にも僕は位置していないし、かといって疎まれていたりすることも無い。
いわば僕は、「この世に必要とされている」割合と「この世にいなくてもいい」割合が完璧に五分五分になった人間なのだ。
──僕は既に、「半分だけ」死んでいるのだから。
5月13日の事だった。
僕はいつもの如く、何の変哲も刺激も無い平穏無事な日常を送るため、朝早くに自分の通っている私立高校に通学しようとしたのである。
ただ結果的にはそう上手くいかなかった。平穏無事な日々というのは、ある日突然、呆気なく味気ない些細なきっかけで崩落するのである。
学校から少し離れた所にある横断歩道。
道路の中心には、七歳くらいに見える髪の長い女の子が、本を読みながら歩いていた。読んでいたのは何だっただろうか。
児童向け文学か、はたまた別の何かだったのか。
普段なら何でもない光景だったが、あえてもうひとつ、特筆すべきところを挙げるとするならば、その横断歩道の信号は──赤だった。
そして少女の横には、喧しい音を響かせながら走る自動車が迫っていた。
「危ねえ!!!」
僕は咄嗟に叫んだ。叫ぶだけではなかった。あろう事か、そこに身を投げ出してしまった。少女を庇うように、大きく手を広げて。
いくら「自分嫌い」として自分の事を忌避していたとしても、死ぬことには少しだけ躊躇いがあった。
僕は「走馬灯って本当に見るんだな」とか、「死んだらやっぱ痛てぇのかな」とか、「あの女の子、無事でいてほしいな」とかあれこれ考えたあと、結局は「他人の命より自分の命を優先する理由なんて無いし、まあいいや」という結論に帰結して、僕は考えるのをやめたのだった。
目が覚めた。
腕時計の時刻は1時30分だったが、これだけじゃ午前か午後かは判別出来なかった。
夢だったのか、なんて思ったが、学校の制服姿である事や、時計の時刻がそう思い込むことすら許そうとはしないようだった。
それよりも。
ここは何処なんだ?
やけにボロいアパートの一室って印象を受けたけれど、少なくとも僕の知っている場所では無かった。
体は無事だし、いつも通り動くことだって出来るので、立ち上がって歩いてみる。
そうこうしてるうちに、この建物のドアらしき物を見つけた。
若干安堵して、ドアノブに手をかける。
すると突然、突風でも吹いたかのような感覚で、外に放り出されたのだ。風が強いな、なんて思ったけれど、考えるべきはそこじゃなかった。
なんだかやけに気温が低い。周りは薄暗く、建物から灯がチラチラと漏れている。
理解するのに数秒かかったが、スマホのデジタルクロックが現実を突きつける。
「5月15日、午前1時32分…」
え。
ええ?
あまりの奇想天外な状況に困惑していると、近くから快活な声がした。
若い男性。17歳くらいなのか?
「やあおはよう、元気そうで何よりだぜ、鎌田クン」
おはようって、夜なのに…。
真夜中なのに。
「あの」
薄暗くてその人の姿はよく見えないが、声を頼りになんとなく会話を続けようと試みた。
「うん?」
「あなたは──誰ですか。」
直接核心に迫るのではないだろうけれど、それでも重要な質問をぶつけてみた。
「俺?えーっとねぇ、何て言うべきかなぁ」
"彼"は深く息を吸い込んでから、再び口を開いた。
「俺の名前は──鎌田 爻」
鎌田…。
「言うなれば、鏡の中の君だよ、和成クン。」
下の名前で呼びやがった。
そしてもっととんでもないことをさらっと口にしやがった。
「鏡の僕?あれか?漫画とかでよくある、"表裏一体"の存在って奴かよ?」
そんな話があるわけない、と言うように、少し嘲るような口調で訊いてみた。
「いやいや、表裏一体じゃないよ。ウラオモテの関係にあるのは確かだけれど、表裏一体ってわけじゃあない。」
「表裏……一体…。」
一体?
一体何だ、コイツ?
自分を嫌うことは多々あれど、他人に対してそういう考えを抱いたことはあまり無かった。
でもこいつ…苦手な人間だ。態度で分かる。
狼狽している僕を挑発し返すように、軽薄な口調でソイツは──僕の表裏の存在である、爻は言った。
「ようこそ、夜の國へ。」
話によると、どうやら僕はあの事故によって肉体が半分死んだそうだ。その部分は腐敗せず、代わりに超人的な力(を手に入れたと言うことも聞いた。(具体的にはまだ分からない)
そして、僕が人間に戻るという方法があることも──。
夜の國…。
僕は夜でしか生きられない、怪物と人間が半分ずつ混合した体になってしまった(日光に当たると死体の部分が腐敗し始めるとか何とか)。
無理して生きなければいけない理由は無くとも、人間でありたいと願う理由くらい、僕だって持っていた。
「自分嫌い」──。
その呼称が、妙に愛おしく感じられたのは、自分がもう自分でなくなっている、という事の示唆なのだろうか。