8.生まれた感情
ある日の帰り、ターシャは商店街に寄ると言い出した。
グリードが来てからというもの、買い物は殆ど任せきりだったので、揃って行くというのは、珍しいことだった。
「必要なものを言ってくれたら俺が行くけど」
「少し多めに買わなくちゃいけないから、ふたりで行くのよ。持ちきれないもの」
「なにを?」
「食料よ。だってグリード、大食いなんだもの。いつもの量じゃ、次の月が出るまで間に合わないわ」
「狼なんだから、仕方ないだろ。なぁ、次の月って、なんだ?」
グリードの問いかけに、ターシャは空を指差す。
「ホラ。月がだいぶ細くなってるでしょ。明日から、また月が出るまでの数日間、休みなのよ」
田舎のこの村には、まだガス灯も普及しておらず、新月とその前後は仕事も学校も休みとなるのだ。
夜、人々はランプを手に歩くが、月明かりのない日はそれも心許ない。
「日が堕ちると、一気に暗くなるからね」
「ふぅん。それが面白いのにな」
新月は闇に包まれる。
月の光のない闇には、魔物が潜んでいるという話がまことしやかに語り継がれていた。
面白いなど、もってのほかだ。
「ダメよ。グリードも家にいなきゃ」
「なんだ。ターシャは意外と怖がりなんだな。俺の森じゃ、そんな言い伝えなんか、なかったぞ」
「そりゃ、国ごとにそういう言い伝えって、違うんじゃないかな。そっちで出ない魔物かもしれないじゃない」
考えたら怖くなったのか、ターシャはぶるりと大きく身体を震わせると、歩みを速めた。
「大丈夫だって。俺がいるじゃないか」
「いくら人狼だって、魔物相手よ? 怪我したらどうするのよ」
眉を顰め、眉を下げてグリードの心配をする様子が、グリードにはなんとも可愛らしく見えた。けれど、そう言うときっとターシャは怒るだろう。ここは自分の胸に仕舞っておかなければ。
ヘラヘラと笑ってついていくグリードを、ターシャは怪訝そうに見つめた。
「しないって。そんなに闇が怖いなら、じゃあエスコートしてやる」
そう差し出されたグリードの手を、ターシャは戸惑いながらもそっと手を乗せた。
「ちっちゃい手をだなあ」
「私の手が小さいんじゃなくて、グリードの手が大きいんだと思うわ」
ふたりは手を繋いだまま、目的の店へと歩いた。そんなふたりを、商店街の店主たちは微笑ましく見守る。だが、そんな空気を心無い一言が打ち破った。
「なぁ、ターシャ。お前そんな男がいいのか。そいつ、狼男だぞ。バケモノじゃねえか!」
突然現れたアジルが、大声でそう言うと、グリードの正体を知らない店主たちの間に動揺が広がった。
「狼男……!?」
「なんて恐ろしい。ターシャ、あんた知ってたのかい?」
「危ないよ! その手をお離し!」
そんな声が増えて気が大きくなったのか、アジルがまたもや声を張り上げる。
「ターシャ! そいつはバケモノだ。新月の闇に紛れている魔物って、案外そいつなんじゃないか?」
村に伝わる魔物の存在を出すと、人々は一斉に騒ぎ出した。
皆、その言い伝えを信じていたし、狼男も見たことがないのだ。
想像で人は簡単に恐怖する。ましてや言い伝えの存在は、幼い頃から恐怖の対象として聞かされ、まるで刷り込みのように人々の脳裏にこびりついている。
人々の、自分を見る目が変わっていくのを、グリードは目の当たりにした。
グリードが傷つき、不安に襲われたことを、ターシャは握った手を通じて感じた。
「グリード、大丈夫よ」
だが、得意気にアジルが人々をそそのかす。
「こいつは村に災いをもたらす! こんなバケモノ、追い出すべきだ!」
人々の恐怖が最高潮に達しようとした時、ターシャが動いた。
繋いだ手をそっと離すと、グリードは縋るようにまた握る。ターシャはその手をぎゅっと握ると、「大丈夫よ。待ってて」と言って、ツカツカとアジルに近づいた。
「そうだ。ターシャ。そいつは危険だからこっちに来――」
パァン、と乾いた音が響き、人々のざわめきもピタリと止んだ。
アジルは左頬に痛みを感じ、ふらふらと後ずさると尻もちをついた。
じんじんと痛む手をそのままに、ターシャはアジルを睨みつける。ターシャがアジルに、強烈な平手打ちを食らわしたのだ。
「アジル、あんたは言っていいことと悪いことの区別もつかないの!?」
「タ、ターシャ……。お、俺はただ……あいつが狼男だってことを教えてやろうと……」
「あんたがやったことは、グリードを恐怖の対象として皆の心に刻みつけることよ! それって、すごく卑怯なことよ!?」
「ターシャ……」
「グリードは確かに狼男よ。そんなこと、知っているわ。知っていて助けたの。それが何? 狼男なら追い出されなきゃならないの? それなら、私は? 私は実際には見えない遠くの光景も視えるわ。魔女じゃないかって言われたこともある。じゃあ私も恐怖の対象? ここには居られない存在なの? 助けてくれたルーシアはそんなこと言わなかったわ!」
「お、俺はただ……」
すっかり覇気のなくなったアジルは、もごもごと口を動かすだけだ。
「ただ、何よ! ただの思いつきでグリードを追い出そうとしたの!? あんたにそんな権利があるの!? この世界には沢山の種族がいるの。あんただって知っているでしょう! それを、単なる思いつきで、話ばかりで見たこともない魔物だと言うのは卑怯だって言ってるの! グリードは誰も襲ったりしないわ! 私を……私を助けて育ててくれた村の皆を、そんな風に騙すのは許せない!」
「ターシャ、もういいよ」
怒鳴りながら泣き出してしまったターシャを、グリードは後ろからそっと抱きしめた。
「……良くないわ! アジルは村の皆のことだって、馬鹿にしてる! 皆にとって種族の違いなんて、そんなに大きなことではないわ! 得体の知れない私のことだって、本当に大切にしてくれたの」
「ターシャは得体の知れない子じゃないぞ!」
「そうよ! ターシャは、うちの子の病気を見つけてくれた。診療所の医師もわからなかったことをさ。たとえターシャが魔女でも、ターシャが大切な子であることに変わりはないよ。勿論、グリードが狼男でもね」
「女将さん……」
人々の気持ちが、ターシャの言葉によって、棘が抜けた様に穏やかなものに変わる。
「お、おい……! 皆! それで本当にいいのかよ? だってそいつは……」
「アジル。あんたは知らないようだけれど、ターシャがここで育つことに関して、あんたの親父さんである村長は、それはそれは心を砕いてくれたよ。それが、あんたはどうだい。種族が違うから追い出すのかい。魔物呼ばわりして。そんなあんたを見たら、村長はなんて言うかね」
「それにな、アジル。お前隣村の食堂でだいぶツケが溜まってるようだな。女将が、村長にかけあうって息巻いてたぞ」
それを聞いて、アジルは顔色を失くした。
「う。嘘だろ……。だって俺、女将に家なんて教えてないし……」
「言わなくたってその辺に聞きゃあ、すぐわかる。お前が隣村でデカい顔してたこと、村長たちが知らないわけないだろうが」
「その性根をなんとかしなきゃ、ここから追い出されるのはあんたの方さ」
「ううううううるさいな! そんなはずがないだろう!」
人々の言葉になんとか言い返すも、アジルは慌てふためいて走り去った。
「まったく……あいつは本当に仕方のないやつだ」
「ごめんね、ターシャにグリード。せっかく仲良く買い物に来たのに、とんだ邪魔が入ったね」
「あの……俺が……怖く、ないんですか?」
グリードが小さな声で尋ねると、それをパン屋の女将が豪快に笑い飛ばした。
「怖くないよ! そりゃあ、狼男は初めてだがね。だからって、あんたが来てからずっと、あんたのことは見てる。それで充分だよ。アジルが新月の魔物のことを口にするから、怯んだけどさ」
「魔物の言い伝えは、この辺の人間にはそりゃあ恐ろしいものだって刷り込まれてるからな。アジルはそれを利用しようとしたんだろうよ」
「さあ、お喋りはこれ位にして。今日はなにを買うんだい? お詫びに沢山オマケしてやるよ!」
「あ、ありがとう。女将さん」
やっと、ふたりに笑顔が戻ると、嫌なことを吹っ切るかのように、両手いっぱいの買い物をして、家に戻った。
* * *
「なあ、ターシャ。外に行かないか?」
「はぁ!? なに言ってるのよ。ダメだったら」
よりによって、新月の夜、グリードは外に行こうと言い出した。
窓から見えるのは、全てを隠す暗闇だ。当然、ターシャは首を横に振った。
「い、嫌よ。絶対嫌。魔物が出たらどうするの」
「魔物なんて出ないって。そんなの迷信だ」
「出なくても、真っ暗でなにも見えないわ。なんで外に行くのよ」
何度嫌だと言っても、グリードはしつこく食い下がる。そんな彼は珍しかった。
「いいから!」
「え、ちょっと……!」
グリードはターシャの手を強引に引くと、そのまま外に飛び出す。
粗末とはいえ、それでも薄い壁の内側は心地よい温もりがあった。そこから飛び出した闇の中は、思った以上に空気が冷たい。
手を引いているグリードの顔も見えないほどの闇に、ターシャは不安で身を縮こまらせた。
「ねえ、やめよう。なにも見えない。怖いよ」
「大丈夫だって。ターシャは怖がりだなぁ。俺は人狼だぞ。夜目が利くんだ。俺にとっては、この闇も昼と同然だ」
「私には見えないんだって。どうして今日じゃないとダメなのよ」
「ターシャに、見せたいものがある」
この暗闇で、さっきからなにも見えないと言っているにも関わらず、グリードは見せたいものがあると言う。
「こわくない。俺が知ってる世界を、ターシャに見て欲しいんだ」
頭上から降る声に、ターシャは渋々頷いた。それもグリードには見えているらしい。安堵したように息を漏らした。
「怖かったら、俺に任せて」
上から聞こえていたはずの声が、なぜか下から聞こえる。それを不思議に思う間もなく、ターシャの身体が浮き上がった。
「わっ!」
ふわっと嗅ぎ慣れたグリードの香りが鼻孔をくすぐる。
気づいたら、ターシャはグリードに背負われていた。
「ちょ……! 私、重いって!」
「重くないって。さ、行くぞ」
その言葉と同時にぐん、とスピードがあがり、思わずのけ反る。慌てて肩にしがみつくと、頬を夜の風が撫でた。
「わぁ」
「気持ちいいだろ」
「うん」
グリードの足取りはしっかりしている。
やはり人間よりも夜目が利くというのは本当のようで、一歩一歩を迷いなく進んで行く。
一体、どこに向かっているのだろう。
少し闇に目が慣れた今でも、今どこにいるのか、どこに向かっているのか、ターシャにはわからない。
やっと闇に目が慣れた今も、かろうじて木々の影がわかる程度しかわからない。
建物から漏れる家の灯りも見えない。民家のある場所から離れているのだろうか? そのことで、ターシャは少し不安になった。
「ね、ねぇ……村から、離れてる?」
「ああ。なるべく灯りのない場所に行きたい。不安か?」
「……少し」
思わず肩を掴む手に、力が入る。
仕方がない。
ターシャにとって、この小さな村が全てだった。
ここを出ると、自分が何者なのか、なぜここにたどり着いたのかに、向かい合わなければいけない気がして、少し怖い。だが、ほどなくしてグリードの歩みが止まった。
「よし、ここでいいか」
ゆっくりと下ろしてもらうと、足が柔らかな草を踏む。
「さ、寝るか」
「は?」
「ま、いいからいいから」
肩を押されて、渋々草の上に座ると、押し倒されるような形でその場に転がった。
すると、満点の星空が、ターシャの目に飛び込んできた。
「わ! すごい……!」
「な? そうだろ?」
星空なんて、今までも散々見て来た。でも、空一面に広がる光景は初めてだった。
寝転んでみるその景色は、端から端までが全て星空で、まるで自分も空に浮いているような感覚になる。
「新月は月明かりがないけど、それだけの理由で外に出ないなんて、勿体ない。日頃、月が隠している小さな星も、ここぞとばかりに自己主張するんだ。たまに、流れ星も見れる。こんなのは新月で、しかも雲のない夜しか見れないんだぞ」
真横から声がする。
グリードも横に寝転がっているのだろう。
「こうやって星空を見るのも初めてだよ……。なんだか全身で星を受け止めてるみたいで、怖いくらい」
「怖くないって。ホラ」
ターシャの手が、グリードの大きな手に包まれる。
慣れたと思っていたその感触も、この闇の中では日頃意識したことのない、男らしいゴツゴツした手に、胸が高鳴った。
それまでなかった感情が、胸にポッと現れたような気がした。
「怖くないだろ」
「……うん」
生まれた感情は、正直怖かった。でもそれ以上に嬉しい。
手の大きさも、背負ってくれた力強さも、新月の夜の星空を教えてくれたことも、ターシャの心をざわつかせた。