6.濡れ衣
「なぁに、これ?」
目の前にあるパンは、いつもと違ってしっとりと卵色をしており、表面は綺麗な焼き目がついている。
ターシャがいつも通り手に取って食べようとしたところ、グリードに「ちょい待て!」と止められた。
「それはこれで食え」
渡されたのはナイフとフォークだった。
面倒だな、と一瞬思ったが、グリードがパンの上にたらりと蜂蜜を垂らしたので、手で食べるのは諦めた。
ナイフを入れると、ふわっとした感触に驚く。
パンなのに、しっとりふんわりってどういうことだ。
焼き色がついてるのに、ふんわりって。
内心訝しく思いながらも口に入れると、じゅわんと甘さが口に広がった。
「んんんん! おいしいっ!」
ターシャの表情を伺っていたグリードが、ニカッと大きく笑う。
「だろ?」
「おいしい! ねえ、これどうしたの? パンよね? どうしてこんなにふんわりしてるの?」
「日にちの経った古いパンがあったから、卵を牛乳で溶いたものに浸して、それから焼いたんだ。硬くなったパンはこうした方が食べやすいだろう」
ターシャは口いっぱいに頬張ったまま、コクコクと忙しなく頷く。
よほど美味しいのだろう、視線はパンに釘づけだ。
「こういうの、食べたりしなかったのか?」
「うん。硬くても食べれないことはないし。ねえ、まだこのパンある?」
「あるよ。なんだ、今日は随分のんびりしてるんだな。そろそろ仕事に行くんじゃないのか?」
「あ、今日は休みよ。商店街も全部休み。そこに暦があるでしょ」
「あるでしょ、って……。これは昨日、俺が散乱してた荷物の中から発掘したヤツじゃないか」
「い、いちいちうるさいわね。そういえば、グリードが住んでた森では、休みはどんな感じ?」
「月の満ち欠けだな。俺ら人狼は月の満ち欠けに体調が左右されるから。それにしても、休みか~。今日はターシャの仕事場まで一緒に行こうと思ってたのに」
「えっ。なんでよ」
ターシャが、なぜだか嫌そうに顔を顰めた。
「俺はお前の用心棒だからな。それに、店の掃除もしなきゃダメだろう」
「失礼ね。さすがにちゃんとしてるわよ。店は荷物が増えるってこともないし」
「じゃあ、窓や棚を拭いたのはいつだ? 床を掃いたのは? 外壁を洗ったのは? 空気の入れ替えをしたのは?」
言い返した勢いはどこへやら。
途端に、ターシャの視線が泳ぎ出す。
「答えられないってことは、明日は俺を連れて行かなきゃな。大体、物が増えなきゃいいってわけじゃない。一応客商売なんだろうが」
「――わ、わかってるわよ」
ターシャはなんとかそう言い返すと、一口大に切ったパンを口に入れた。
「あ~あ、蜂蜜ついてるぞ」
唇の端を指差され、指で拭おうとすると、その前にグリードの手が速く唇から蜂蜜を拭いとった。
なんだか、昨日からすっかりグリードのペースだ。
ターシャは、心の中でため息をついた。
* * *
さて……。店が休みとなると、どうしようか。
ターシャはグリードも休むべきだと言ったが、突然そう言われても、特にやることがない。
ベッドでゴロゴロするのも性に合わないし、なによりこの家に来てからは、夜ぐっすりと眠れているのだ。それには、ターシャの存在が大きいような気がする。
実は、昨晩もひどい夢を見ていた。
走っても走っても森を抜けることができない。
尊敬する祖父も、叔父も、随分先を走っている。
このままでは置いていかれる。
また、ひとりになる。
それは嫌だった。
早く立派な大人になりたかった。
足手まといな存在だと、思われたくなかった。だから、色々我慢した。辛くても、なんでもやった。何度置いて行かれても、家に連れ戻されても、ふたりの後を追った。
でも、いつも気づけばひとりだった。先を走るふたりの足音も、気配も消えていた。
嫌だ。
ひとりになるのは嫌だ。
必要とされないのは嫌だ。
苦しい。寂しい。悲しい――。
そんな感情の渦の中、優しくあたたかい手が頭にそっと触れた。
この手を離してはいけない。そう思った。
がむしゃらに手を伸ばして、その手を捕らえる。
引っ張りこんで、抱きしめた。そこから感じる温もりが、嬉しかった。
やっと深く息を吸えた。暖かな、太陽が降り注ぐ草原のような香りがした。
明け方、目を覚ますと、腕の中にはターシャがいた。
あの夢は、半分本当だったのだ。
思えば、この家に来た時、久しぶりにぐっすり眠った日も、ターシャを腕に抱きしめていた。
どうしてターシャが隣にいると、ぐっすりと眠れるのかはわからない。けれど、これだけは分かった。ターシャは、グリードにとって、自分自身を見てくれる初めての人間だった。
ここに居座るために無理難題を言った自覚はある。でも、困った顔を見せながらも、ターシャはグリードを受け入れてくれた。
人狼であるということ以外、ターシャはグリードのことを知らない。
どこからやって来たのかも、なぜ倒れるまで旅をしてきたのかも。
それでもグリードを受け入れてくれた。
そんなところも危なっかしいと思う反面、やはり嬉しかった。
となると、悪い虫は排除したくなるものだ。
今日は掃除にかこつけて店に同行し、しょっちゅうちょっかいかけてくるというアジルとやらを見定めるつもりだった。
別に明日でもいいのだが、なんだかヤツの存在を思うと、胸がもやもやする。
「ここは村の中心部まで出て、それっぽいヤツを探すしかないのか?」
ターシャは湖に水浴びに行っている。
休日でも共同浴場はやっているそうだから、グリードにはそちらに行くようにと言っていた。だから、ターシャが帰ってきた時、グリードがいなくても、別に不思議には思わないはずだ。
それにしても、と腕を組む。
今日も出かけるギリギリまで湖での水浴びを止めるように忠告したのにも関わらず、ターシャは湖に出かけてしまった。
ターシャは自分が年頃の若い娘だという自覚がないのだろうか?
アジルというヤツも、家の風呂に誘うくらいだ。ターシャに気があるに違いない。それなのに、当の本人は気が付かないどころか、無防備すぎるくらいだ。
いくら穴場だといっても、湖なんていつ誰に覗かれてもおかしくないというのに。
――ん? 覗く?
…………。
グリードはハッと顔を上げた。
「――あ!」
急いで家を出て、走り出す。
その足が向かう先は、村の中心部とは反対方向だ。
「今日は暦通り、店は休み。アジルはターシャが共同浴場にもアジルの家にも行かないことを知っている!」
どうして、もっと早く気が付かなかったのだろう。
ターシャは自分に魅力がないと思い込んでいるが、とんでもない。
確かに目はパッチリと大きいが平凡な茶色だ。でも、少し吊り上がった丸い目はとても綺麗だ。
鼻だって少し低い。だけど、鼻筋が通っている。
髪もくすんだ茶色で強い癖毛だ。でも、とても柔らかくて抱きしめた時に首筋をくすぐる感触がとてもいい。
なにより、とても優しくて小さな手と、柔らかくて抱き心地の良い小柄な身体は、男のグリードとは正反対のものだ。
つまり、他の男に覗かれるのは、腹が立つ。
絶対、アジルは湖にいる。
そう結論づけたグリードは、森に入った瞬間、大きな木の陰で狼に姿を変えた。
急激に嗅覚と聴覚が鋭くなる。
水の音――ターシャの香り――そこに混ざる、他の人間の匂い。
一瞬足を止め、グルルとうなると、グリードは一気に駆け出した。
草木をかき分ける音も、滝の音にかき消されて、目の前の光景に夢中の男には聞こえないらしい。
ヒョロリとした体躯の金髪の男は、立派な幹を持った木の影に隠れ、息を飲んで湖を――いや、水浴びを楽しむターシャを見ている。それを確認すると、グリードは、はらわたが煮えくり返るような強い感情が身体の中を駆け巡った。
一気に近づいてやろうか。それとも、静かに近づき、間近に迫ってから脅そうか。
効果的なのは、後者だろう。
すぐに蹴散らしたい気持ちを抑えて、グリードは慎重に距離を縮める。
アジルと思われる男の息遣いが荒くなる。
嫌悪感に鼻を顰めると、グリードはアジルの真後ろで、ガルルルルルと威嚇した。
飛び上がって振り返ったアジルが、目の前に迫る大きな狼に腰を抜かす。
「ひっ、な、なんでこんなところに、お、狼がっ……」
ぐっと顔を近づけ、至近距離で大きく口を開けて牙を見せると、アジルは声にならない悲鳴をあげて、這うように逃げていった。
「ふん。覗きだなんて、汚い真似をするからだ」
満足げに鼻を鳴らしたグリードだったが、先ほどの悲鳴に気づいたのだろう。ターシャの声が聞こえた。
「なんの音? 誰かいるの?」
近づいてくる気配を感じ、グリードは焦り出す。
覗き魔を蹴散らしたのはいいが、今グリードがひとりの状況で見つかっては、犯人にされかねない。
急ぎ足で戻ろうと踵を返した時だった。
「ああああああああ!?」
視界が反転する。
あっと思った時には既に遅く、グリードは大きな水しぶきを上げて、湖に落ちてしまった。
「グリード!? ちょっと、一体なにしてるのっ……!?」
「いや、これは、その……水浴び、しようかな~って」
「はぁ!? じゃあ、なんでそんなコソコソしてるのよ!」
「それは……そのぅ……」
両目を吊り上げ睨み付けるターシャに、グリードはタジタジだ。
ターシャは薄手のワンピースを着ていたが、身体に貼りついて柔らかそうな白い肌が透けている。これはやはり、湖での水浴びを止めさせなければならない。
アジルがこの姿を見たかと思うと、どうにもイラつく。
「ターシャ! やっぱりそんな無防備な恰好で、水浴びは止めろ! 覗くやつがいたらどうする!」
「あんたがそれ言わないでくれる!?」
結果的に、覗き魔に仕立て上げられたのは、グリードだった。




