2.グリードという青年
冷たい身体
乾き、ダラリと下がる舌
ボサボサの毛並み
浮き出た骨
命を持たないはずのその身体が、ゆっくりと起き上がる。
目だけが力を持ち、グリードを見据える。
『グリード、森を捨てるのか』
違う。
違う!
俺はただ、外の世界が知りたかっただけだ。自分の力で、未来を作りたかっただけだ――!
ハッと目が覚めると、グリードは暗い小屋の中にいた。
(夢――か)
ドクドクと心臓が激しく打っている。小屋の中の空気はひんやりとしているが、グリードは汗でびっしょりだった。
夢であることにホッとしたのもつかの間、先ほど夢に出てきた光景が脳裏をかすめ、ため息が漏れる。
自分の選択は、間違っていなかったと思う。それでも、この夢は繰り返し現れて、グリードを苦しめた。
あれから何日経ったのか、ここがどこかも分からぬほどに、グリードは走り続けた。
空腹と疲れに倒れそうになった頃、のどかな森の中にたどり着いたが、グリードにはそこからの記憶がない。
顔を上げると、毛布がかけられていることに気が付いた。小屋の持ち主が助けてくれたのだろうか。だが、見渡してみても誰もいない。
窓から差しこむ月明かりに照らされた室内は、物が散乱している。
物置小屋だろうか。
室内に誰もいないことを確認すると、グリードはふらりと立ち上がった。
ひどく喉が渇いていた。
小屋になにか飲み物はないだろうか。
立ち上がり、台所に近づく。すると、牛乳が並々と入った小さな鍋があった。
グリードはその鍋を両手で掴み、一気に飲み干した。
「はぁ、はぁ……」
グリードは久しぶりに、自分が生きていると実感できた気がした。だが、連日の移動で身体は疲れ切っていた。
鉛のように重い足を引きずるようによろよろと歩き、ドアを開けると、小さいが柔らかそうなベッドが見えた。
(やっと……ちゃんと休める……)
グリードはベッドに吸い寄せられるようにフラフラと近づくと、丸く膨らんだ布団が淡い光を放った。その光は、村を出てからとても孤独だったグリードの心を解くような、優しくあたたかな光だった。
グリードはその光に導かれるように、布団の中に潜り込む。
光に手を触れると、とても柔らかく、あたたかい。
だるい両腕を伸ばし、それをぎゅうっと抱きしめると、全身の緊張がほどけていくような不思議な感覚に陥った。
グリードは満足げに大きく息を吐くと、深い眠りへと落ちていった。
* * *
「ん…………。お、も、い……」
小鳥のさえずりに夜が明けたことを知ったターシャだったが、もう少し眠っていたくて、寝返りを打とうとした。だが、腹になにかが乗っていて、それが邪魔で思うように身体が動かせない。
ベッドになにかを置いたまま、眠ってしまったのだろうか。
(ごめん……、ルーシア……。今度からはちゃんと片付けるから……)
昔、よくベッドに物を置いたまま窮屈な恰好で寝ていて、ルーシアによく怒られていたものだった。
心の中でルーシアに謝り、邪魔なそれをどかそうとして、ターシャはようやく異変に気付いた。
(硬くて重くて……あたたかい。――ん? あたたかい?)
一瞬で目が覚め、腹に置かれたそれを見ると、なんと人の手だったのだ。しかも、筋肉の筋が見える逞しい腕だ。
(そういえば……なんだか背中もポカポカするんだけど……!)
恐る恐る顔を後ろに向けると、そこにはスヤスヤと気持ちよさそうに眠る、青年の顔があった。
あまりの驚きに声が出せず、大きく目を見開いたターシャの前髪が、青年の寝息でそよぐ。
くるくると柔らかそうなカールのかかった長めの黒髪に、しっかりと閉じられた目の睫毛もくるりとカールしていてとても長い。肌は薄汚れていて所々に小さな傷があるものの、とても滑らかそうだ。それに、通った鼻筋に少し開けられた薄い唇――つまり、滅多にお目にかかれないような、整った顔立ちをしていた。
(し、知らない。知らない。こんな人、知らない!)
起き抜けには大きすぎる刺激に、頭が追い付かない。
じっと見ていると、瞼がピクピクと動いた。
ターシャの腹に乗っているだけだった腕に力が入り、そのままぐいっとターシャの腰を抱き寄せる。
更に強く抱き込まれるような形になり、ようやくターシャの危険信号が作動した。
「い、いやぁぁぁぁぁぁ!」
至近距離で叫ばれた男もさすがに驚いたようで、パッチリと目を開けた。
「へ? あ、あれ?」
「あれ?じゃないわよ! あなた、なんでここにいるの?」
「なんでって……起きたらここにいたんだ。床だと身体が痛くて……ウロウロしたらベッドがあって……それで……」
だからって、人が寝ているベッドに潜り込むだろうか。
ターシャは、あまりの言い草に怒り、男をベッドから蹴り落とした。
「イテッ」
「なにが起きたらここにいた、よ! ここは私の家よ!」
「なら、お前が俺を助けてくれたのか?」
「あんたなんて助けてないわよ! 私が助けたのは狼――あれ? 狼は?」
開けっぱなしのドアの向こうには、助けたはずの狼の姿はない。
せめてもと思い、寝ている狼にかけてやった毛布だけが、くしゃくしゃになってそこに落ちていた。
(えっと……一体どういうこと?)
ターシャが混乱する頭を抱えていると、男があっけらかんと応えた。
「それ、俺だ。俺、人狼だから」
「……は?」
ポカンと口を開け、呆けた返事をしたターシャの前で、男がニッコリと笑い、手を差し出す。
「助けてくれてありがとうな。俺、グリード」
「……はぁ!?」
ポカンとしているターシャに構わず、彼女の手を掴むと、グリードは無理矢理握手をした。
苦虫を噛み潰したような顔のアリーシャに対して、グリードはとてもスッキリとした顔をしていた。
こんなにぐっすり眠れたのは、久しぶりだ。
森の皆のことを思うと心が痛むが、まずは自分の健康が優先だ。
ターシャに教えてもらい、家の裏にある井戸に行くと、水を汲んで顔を洗った。そのまま髪をかき上げて、大きく伸びをする。
グリードがいるのは、小さな田舎の村だった。
朝日がまぶしい中で、朝を告げる小鳥のさえずりが聞こえる。
近くの家々からはパンが焼ける匂いや、ストーブの煙が見え、その光景はのどかそのものだった。
ここは、グリードが生まれ育った国だろうか。それとも、国境を越えたのだろうか。そもそも、何日かかってここにやってきたかもわからない。
(まぁ、いいか)
ぐっすり眠ったことで、グリードはすっかり前向きになっていた。
ここで、グリードは新しい生活をスタートさせるのだ。
森に守られていた身としては、いきなりの都会は少々身構えるところだが、ここはとても自然が多く、空気が美味しい。
グリードはすっかりここが気に入っていた。
再び大きく伸びをして、新鮮な空気を吸い込むと、裏口から小屋に入った。
グリードが部屋に戻ると、ターシャは手にしたガラクタをバラバラと落とした。
「な、なんで戻ってきたの」
「え。朝飯食いたいし……。君、なにしてんの?」
片付けようとでもしていたのだろうか。だが、持ったものをバラまいてしまっては元通りのガラクタ小屋だ。むしろ、またちょっと汚くなったかもしれない。
まさか、この小屋に人が住んでいるとは思わなかった。しかも、こんな少女が。
まじまじと見ていると、少女は居心地悪そうにもじもじして、そっぽを向いた。
「君、って……! 私にはターシャって名前が……」
あ。と慌てて口をふさぐが、グリードの耳にはしっかりと届いていた。
「そうか。ターシャって言うのか」
「馴れ馴れしく名前を呼ばないでくれる!?」
「名前は呼ぶもんだろう」
しれっとそう言うと、グリードは戸棚の中を物色し始めた。
「ちょ、ちょっと。なにしてるの?」
「ん? 朝飯の準備。一晩世話になったし、俺が作ってやろうかなってね」
やろうかなって、なぜ上から目線なんだ。
ターシャがムッとすると、外からカウベルの音が聞こえた。
ヴァンスが荷車にミルク缶を積んでやってきた合図だ。
グリードのことが気がかりだったが、朝はミルクだけで済ませるアリーシャとしては、絶対に買っておきたい。
「なんの合図だ? 牛にしてはリズムが一定だな」
「ミルクを売る合図よ。近所の牧場の人が、こうして朝この辺りをまわってくれるの。いい? 私ちょっと出てくるけど、余計なことしないでね? いいわね?」
「買いにいくのか? じゃあ、俺にも頼む」
ミルクは夜のうちに鍋で並々といただいていたが、あれはとても美味かった。
ターシャは顔を顰めただけで返事をせずに出ていったが、グリードは気にせず戸棚の物色を続けた。
「……なんだよ。これ傷んでるし。え~っと……皿は……おいおいおい。これいつから洗ってないんだ?」
流し台に重ねられた食器に、思わず呆れた声を出す。
だが、グリードとしては逆に腕が鳴るというものだ。よし、と文字通り腕まくりすると、グリードは手際よく食器を片付け始めた。
新しい世界だ。
今のグリードが狼の姿なら、きっと耳はピンと立ち、尻尾もブンブンと振っているだろう。
グリードは目を輝かせながら、ターシャの家の中を、そして窓から見える景色を観察する。
たとえ物が散乱した部屋だろうと、食器が現れていない台所だろうと、グリードにとっては、初めて触れる外の世界に違いなかった。
ここから、グリードの第一歩が始まるのだ。
あれだけ疲れていたはずなのに、なぜか身体の中から元気が湧いてくるようだ。
あんなに何日も彷徨ったのに、なぜかここが“来るべき場所だった”と、思える。
人狼であるグリードは、物音や匂いに敏感だ。それはたとえ眠っていても、人間のそれとは比べ物にならないほどだ。それなのに、疲れ切っていたとはいえ、昨晩はぐっすり熟睡してしまった。
(あの光は、なんだったのだ……)
確か、ベッドを見つけてフラフラと近づいた時、あたたかな光を見て、それに触れて安心したのだ。
森を出てから毎日のように見る悪夢も消えて、ただひたすら心も頭も空っぽにして、安らぐことができた。
(夢――だったのかな)
起きた時、抱きしめていたはずのあたたかな光の正体は、ターシャだった。
驚き、顔を赤くしていた少女。
(あの子は、なんでここでひとりなんだろう)
困ったように眉を下げていても、どこかグリードを気にしているような素振りが、とても可愛らしく思えた。
恥ずかしがったりムキになったり慌てたり、くるくると表情を変えるターシャを思い出し、思わず噴き出す。
笑うなんてことは、森を出てから、初めてだった。