最終話:はじまりのキス
彼は今、顔が赤くなっているに違いない。それが見られないのが惜しい。
対するターシャは、やっと頭が働き、グリードの言っている意味が分かって顔が緩みっぱなしだ。
「なんだよ、もう! ニヤニヤするな!」
グリードはガウガウ吠えるが、そんなことは無理な話だ。
失恋は決定的だと思っていたのだ。
狼の生態に詳しくないターシャは、グリードの行動にそのような深い意味があったとは知る由もない。
「えっ!? でも待って! 赤ずきんはどうなるの?」
「は? なんでそこで赤ずきんが出てくるんだよ」
怪訝そうな声を出すが、ターシャにとっては大問題だ。
占いで視た、あの光景は一体なんだったというのか。
「だって……赤ずきんは、あなたと結ばれる運命だったのよ? 私の占いでそう出たんだもの!」
「へぇ~。ターシャの占いも、はずれることがあるんだな」
「失礼ね! そんなことないんだから!」
自慢ではないが、ターシャが占いを外したことなど、これまで一度もなかった。
だからグリードを送り出す決意をしたのだし、今日だってこうしてひとり裏山を登ってきたのだ。
「ちゃんと、見たのよ。グリードと、赤ずきんが抱き合っていたの……。きっちりくっきり、この目で見たんだから!」
「抱き合って? 俺、再会したその時、思い切りビンタされたけど」
赤ずきんは、グリードを見るなり、悪魔のような形相になると、もの凄い勢いで近づいてきて、思い切り右手を振った。それは、成人した人狼であるグリードが、一瞬目の前に火花が飛び、意識を失いかけたほどの威力だった。そして、「こんな時にどこほっつき歩いてたんだ! 薄情もの!」と、大きな雷を落とされたのだ。それが、どこをどう見たら抱き合ってることになっているのだ。
大体、グリードと赤ずきんは兄妹のように育った。お互いを思いやることはあっても、その情は、決して恋情ではない。
ターシャはまだ納得がいかないのか、「おかしいなぁ」と首を傾げている。
その時、グリードはある事に思い至った。
「それ、本当に俺だったか?」
「え? 勿論よ。間違えるはずないわ。癖のある豊かな黒髪を無造作に後ろで結んでる、長身で逞しい背中。私がよくキッチンで見ていた背中だったもの」
「背中……背中ねぇ……。なあ、ターシャ。占いでそれを視た時、俺の顔をちゃんと見たか?」
「顔……?」
ハッと顔を上げる。
そういえば、見ていない。
力なく首を振ったターシャに、グリードは「おいおい」と苦笑する。
グリードを占った時、赤ずきんと抱き合っていたり、腕を組んで寄り添っていた場面は、どちらも背中しか見ていない。
けれど、その後ろ姿はグリードそのものだったのだが――。
「それ、シャリグ叔父さんだ。ちゃんと顔を見ていたら、一発で俺とは別人だと分かったはずだ。シャリグ叔父さんは、確かに俺と同じ癖の強い黒毛だけど、目から頬にかけて、大きな古傷を持っている。シャリグの見た目はそんな感じでいかついから、群れでも一目置かれてるんだけど――」
「だけど?」
オウム返しに問うと、グリードは可笑しそうに笑った。
「赤ずきんに押しに押されて、赤ずきんとの結婚に同意させられた」
「えっ!?」
親子ほどに年が離れたふたりだが、赤ずきんは幼いころからシャリグ一筋だった。それは大きくなってからも変わらなかった。
言い寄られては、のらりくらりとかわしていたシャリグだったが、今回のこの一件で赤ずきんの本気を見ることになり、とうとう陥落したのだった。
「なんだ。ターシャ、シャリグ叔父さんの後ろ姿を俺と勘違いして、俺を森に送り出したのか? じゃあ、ヨダアンが言っていたのはそれだな」
「え? なにを?」
「ヨダアンが言ってた。『自分に関わることを占うと、真実が歪む』って。なんのことかと思ってたけど、そうか……このことだったんだな」
「私が関わってるってこと? それって……」
「俺の人生には、その時点でもうターシャが関わってたってことだ。だから、ちゃんとした占いができなかった。あのなぁ、俺は問題が解決したら、戻って来るつもりだったぞ? だからターシャになにも言わずに出ていったし、あの日ターシャに印を残したんだ」
「印……?」
問い返した唇は、あっという間にグリードのそれに塞がれた。
急なことに、ターシャの心臓が飛び跳ねる。
唇はすぐに外されたが、ターシャが驚いて目を真ん丸に見開いていると、グリードが優しく指で瞼を閉じさせた。
「そんなに真ん丸な目で俺を見るな。……照れる」
そう言われたところで、ターシャには暗闇でグリードの顔は見えない。そう文句を言おうとすると、今度は先ほどよりも強く、唇を奪われた。
何度も角度を変え、ターシャの下唇を軽く食むと、ちゅっと小さな音を立てて、ゆっくりと離す。
「やっぱり、人間のキスの方がいいな。ターシャの唇は甘くて柔らかい」
「……グリード……」
「これが、印。俺の番いだって印。お前は俺ので、俺は、お前のだ」
「……うん」
ふたりはピッタリと寄り添いながら、何度もキスを交わす。それを、空いっぱいに散らばった星たちが見守っていた。
* * *
久しぶりにターシャの家にふたりが揃ったが、その空気は冷たかった。
「……で? これは一体、どういうことだ?」
「ええっと……だから……そのう……」
先ほどまでの甘い雰囲気はどこへやら。
グリードの追及に、ターシャは視線を彷徨わせている。
今、グリードは仁王立ちしてターシャを見降ろしていた。
「ちょっと……忙しかったかなぁ……って」
「ちょっと? ちょっとで、こうなるか? こんな短期間で?」
「ま、まあまあ。長旅で疲れただろうし、落ち着いて座ったら?」
「座る? 座るって言ったか? この足場もない散らかった部屋で、一体どこに座れって言うんだよ!」
グリードが驚くのも無理はない。
彼が一日がかりで片付け、綺麗に掃除した部屋は、あっという間に元の物が溢れた部屋に戻っていたのだ。
ターシャとしても、まさかグリードが戻ってくるとは思っていなかったので、つい、こうなってしまったのだ。
戻ってくると知っていたら、こうならないように努力した。
できるかどうかはともかく……努力はした。
「戻るなら戻るって言ってくれたら……」
小さな声で反論するが、グリードがすぐに切り捨てる。
「事前に言わなきゃいけないって問題でもないだろ。それに、戻って来ないなんて、俺は一言も言ってないからな!」
「はい……」
しゅん、と項垂れるターシャに、グリードもため息をつく。
結局、グリードはターシャに甘いのだ。
きっと、グリードと離れていた寂しさもあったのだと思うと、これ以上はなにも言えなかった。
「こんなんじゃ、ロクな食事もしてないんだろう」
「ううう……ごめんなさい……」
「そんなことかと思ったよ……」
徐に、肩からかけていた袋に手を突っ込むと、なにかを取り出した。
「ウルフ工房の、羊肉の燻製ハムだ。それにこっちは、ママウフル商会のバケット。それとオオカミ印の葡萄酒」
次々とテーブルに置かれるのは、都会の大きな商店で売られているような、高級品ばかりだった。
たちまち、ターシャの目が輝く。
「す、すごいっ!」
「だろ? すぐに飯作るから、テーブルだけ拭いておいてくれ」
「うんっ」
笑顔で頷くターシャに、グリードは小さなキスを落とした。
もう、このキスの意味を間違えることはない。
これは、挨拶のキスでもさよならのキスでもない。
好きだよ、のキス。
そして、ふたりが恋人として一緒に過ごす、はじまりのキスだ。
《完》




