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12.満月

 今宵は満月という日、グリードは陽が高くなっても、なかなか寝室から出てこようとしなかった。


「グリード? どうかした?」


 ターシャがドアに顔を張りつけるようにして尋ねると、中からくぐもった声が聞こえる。


「……悪い。今日は、なんか適当に食べてくれ」

「私は大丈夫だけど……。グリードは食べないの? 具合でも悪い?」


 いつもと違う声に心配になったターシャは、ドアを開けようとノブに手をかけた。すると、「開けるな!」と鋭い声が飛んだ。


「えっ」

「……悪い……。今日だけ、ちょっと休む。心配はいらないから」

「そう? あの、なにかできることがあったら、言ってね?」


 その言葉に、返事はなかった。

 気にはなったものの、ずっとここにいてはグリードも気が休まらないだろう。

 後ろ髪を引かれる思いでドアから離れると、朝食の用意を始めた。

 どうせひとりで食べるなら、別に牛乳だけでもいいか……。

 カウベルの合図が鳴ったら、ドアを開ければ手に入る。でも、ターシャが仕事の間、グリードがなにか食べるかもしれない。なにかすぐに摘まめるものがあった方がいいだろう。そう思い直して、残っていたパンを切った。

 オムレツにしようかと思ったが、うまく焼けない自信がある。きっと、グリードのようにふわふわにはならない。迷った挙句、熱したフライパンの上に卵を落とす。ここからは時間の問題だ。卵が固まらない内に、ハムを二枚被せ、更にパンで蓋をする。


「いち、に、さん……」


 十五まで数えると、フライパンを持ち上げ、皿の上にひっくり返す。

 幼い頃、ルーシアから教えられた“らくちんタマゴパン”だ。

 卵が少し焦げてしまったが、ターシャにしては上出来だ。


「グリード、食べれるかな……」


 ターシャは自分の朝食を牛乳だけで済ますと、グリードの部屋のドアを叩いた。


「グリード。あのね、あまり上手じゃないけど、朝食を用意したわ。食べれそうだったら、食べてね」

「……ああ……ありがとう」



 * * *



 グリードは、夢を見ていた。

 何度も繰り返し見るのは、あの夜の夢――。

 丘の上から、遠吠えが聞こえる。

 それは聞き慣れた一族の声だった。

 グリードは、冷たくなった祖父の傍らにいた。

 強く、厳しかった祖父が、いつの間にかこんなに痩せて、随分と毛もボサボサになっていた。

 ダラリと出た舌は、既に乾いている。

 やけに豪華な箱に入れられた祖父の、思った以上に小さな身体に、鼻の奥がツンとした。


「若長さま。そろそろ運びましょう」


 その言葉に、グリードは鼻に皺を寄せる。

 小さな頃から、その呼び名が嫌いだった。

 小さな頃、両親を亡くしたグリードは、一族の長である祖父に育てられてきた。

 その強さと冷静さで長く人狼族をまとめてきた祖父は、孫に対しても変わらず厳しかった。

 甘えることは許されず、幼い頃は毎晩のように丸まって泣いていた。

 それでも、家族だった。

 それでも、愛していた。

 愛されていたかは、正直わからない。

 人狼族の成人にあたる十八歳になってからは、やっと一人前と認めてくれたのか、祖父の言動も少し柔らかくなった。その辺りから、グリードは周りに「若長さま」と呼ばれるようになった。

 その呼び名は、まだ若いグリードには重かった。

 父が亡くなった後、祖父の補佐を長くしてきたのは、伯父のシャリグだった。それなのに、なぜ自分が「若長さま」と呼ばれるのか。


(外は、どんな世界なんだろう)


 人間社会に出て行った友人たちのことを考えるようになったのも、その頃だ。

 自分がただ流されるまま生きているようで、苦しかった。


「いいのか」


 声がした方を向くと、唯一森に残った旧友がいた。


「ボイスル……」


 同年代の中でも一番大柄なボイスルは、豪快な性格で、いつもあちこちで騒ぎを起こしていた。そんな彼が、妙に神妙な顔をしている。


(まぁ……こんな時だから、それもそうか)


 やけに冷静にそう納得していると、ボイスルが口を開いた。


「グリード。お前は森に囚われるぞ。今が最後のチャンスだ」


 その言葉に、グリードは雷に打たれたような衝撃を受けた。


「な、なにを言っているんだ。ボイスル」


 なんとか笑おうとするが、芝居じみた乾いた笑いしか出てこない。


「冗談で言ってるんじゃない。長になったら、もうお前はお前じゃいられない。――今なら、まだお前は長じゃない」

「お、俺は……」


 動揺するグリードに対して、ボイスルはとても落ち着いていた。その視線が、更にグリードを焦らせる。

 大人になっていないのは、いつまでも諦めがつかないのは、覚悟ができないのは、自分だけの気がした。

 遠くからグリードを呼ぶ声がすると、ボイスルの雰囲気は一変し、いつものくだけた男に戻った。

 だが、ボイスルの言葉は、ずっとグリードの頭の中に残っていた。

 夜も更け、たまたまひとりになった時に、その言葉がより一層頭の中に響く。グリードは、それに突き動かされるように、外に飛び出した。

 ここから、逃げ出したかった。

 がむしゃらに走ったグリードが、長く自分を守ってくれていた森を出る直前、足を止めて振り返った。

 そこには、一匹の大きな狼がいた。


「しゃ、シャリグ……」


 シャリグは、なにも言わずにただじっとグリードを見つめている。

 グリードは足に根が張ったかのように、動けなかった。それが分かったのか、シャリグがフンと鼻を鳴らした。


「どうした。出ていくんじゃないのか。こんなとこで怖気づいてちゃ、外の世界じゃやっていけないぞ」

「――と、止めに来たんじゃないのか」

「俺がか? フン。逃げ出すやつの顔を見に来てやったのさ」

「俺は……! ただ流されて生きるのが嫌なだけだ!」

「なら、行けばいい。そこから一歩踏み出すだけだ。だが、それでもうお前は森の庇護を受けられない。それが分かっているから、そこから動けないのだろう」


 バカにしたように鼻を鳴らすシャリグの挑発に、グリードは一気に森を飛び出した。

どんどん加速し、シャリグの姿も、森も遠のいていく。

 これまで身体を優しく包み込んでいた森の温かさが、霧となって散っていくような向かい風の中、グリードはただひたすら走った。


「まったく……。お前は兄貴そっくりだよ」


 シャリグが呟いた言葉は、風にかき消され、グリードの耳に届くことはなかった。



 * * *



 どこにも寄り道せず、まっすぐ帰宅したターシャだったが、テーブルに朝食がそのまま残っているのを見て、肩を落とした。

 朝からずっと、あのまま部屋に閉じこもっているのだろうか。

 それでも少し様子を見ていたのだが、夜が更けても、グリードは一向に部屋から出てこようとしなかった。

 おなかが空いているだろうに、なにも言ってこない。

 心配が頂点に達したアリーシャは、思い切ってドアを叩いた。


「ねえ! グリード! なにかあるなら言ってよ! 心配じゃない!」

「ターシャ……」


 やはりくぐもった声が聞こえる。


「うん。なに? 私にできることはない?」

「……そばに、そばにいてくれるか?」


 ターシャはすぐにドアを開けて、ベッドに駆け寄った。そこには、久しぶりに見る大きな黒い狼が横たわっていた。


「勿論よ。いつだって、そばにいるわ」


 ベッドにあがりこみ、グリードの頭を持ち上げると、自分の膝に下ろす。

 グリードは最初驚いた様子だったが、楽なのか、すぐに力を抜いて頭を預けてくれた。

 そっと頭を撫でる。

 少し熱っぽいような気がして、声をかけた。


「熱があるような気がするわ。水分摂った? 果物とか食べられそうなものあったら、持ってくるけど、どう?」

「……いい。これは、いつものことだから」

「いつもの?」

「今夜は満月だろう。その影響で、狼の血が騒ぐんだ。人間の姿でいたら、なにをするかわからない。握力とか……コントロールできなくなる。狼の姿で、じっと耐えるのが一番なんだ」

「でも、辛そうなんだもの。いつもそうしてたの?」

「いや、森にいた時は……本能の赴くまま、森の中を走ったり、仲間と川に入って騒いだり……。でもそれは、ここでは迷惑になるからな」


 ターシャの手が、思わず止まる。

 人間社会では、グリードは本来の姿では生きられないのだ。

 異種間というのは、そういうことなのだ。それを、思い知らされた気がした。

 小さなきっかけかもしれないが、大きな壁だ。

 種族が違うということは、見た目や生活文化が似ていても、根本が違うのだ。


「止めないで。もっと、撫でて。ターシャの手、冷たくて、気持ちいい」


 呟くような甘えに、ターシャがまた手を動かす。

 うっとりと目を閉じたグリードは、先ほどよりも落ち着いて見えた。


「そこまでして、人間社会にいて……苦しくないの? 森に……戻りたいって、思ったことはないの?」

「俺は、森しか知らない。森の外はどうなってるんだろうって、それを知らずに長になるなんて、これが俺の運命なら、なんて息苦しいんだって、思ったんだ」


 長――グリードが、長になるはずだった?

 ターシャの心に動揺が走る。グリードは話を続けていたため、ターシャは動揺を気取られないようゆっくりとグリードを撫で続けた。


「俺は……両親の記憶も淡いものしか残ってない。親の愛とか、そういうのは知らない。小さな頃は、ばーちゃんや群れのおばさんたちに育てられた。そこで自然と、料理や掃除、針仕事なんか覚えてな」

「上手だものね」

「うん……。俺の両親、事故で死んだんだ。俺は両親の亡きがらのそばで、死にかけてたらしい。それもあってか成長が遅くてさ。じっさまの教育に耐えられるような身体になるまで時間がかかったんだ。それからじっさまに預けられたんだけど……。それまでの生活とのギャップが激しくて、ついていけなかった。じっさまは厳しい人なんだ。なんで、こんなつらいことをしなくちゃならないんだろうって、思ってた」


 狩りも、寝ずの番も、時には仲間内での命をかけた力較べも、人狼族の男としては、避けては通れない道だとわかっている。だが、グリードは優しすぎたのだ。


「仲間に噛みつけなくて、じっさまや叔父さんによく怒られた。そこで強さを見せなきゃ、次の長にはなれないぞって。なんで、俺が長になるって決まってるんだ? 俺は。俺らしく生きたい。森の外に、それがあるなら探しに行きたいって思ってた」

「それで、飛び出して来たの?」

「人狼族で成人になったらさ、俺の森では、自由に人間社会に出て行けるんだ。――でも、俺はそれすらも禁じられた。じっさまがさ、昔……人間と親しくなったらしい。それで、森の規律が乱れたことがあるって聞いた。それからは、長になる人狼は人間と親しくなることは禁止されたんだ」


 人狼族の長――昔、人間と親しく――。

 聞けば聞くほど、グリードの話は、守り人の孫である少女の話と重なった。


「俺は……最低だ。じっさまが、死んだんだ。その夜、森を抜け出した」


 グリードが泣いていた。

 次から次へと零れる涙が、ターシャの膝を濡らす。

 それでも震える声で、グリードの告白が続いた。


「最後のチャンスだったんだ。もし本当に俺が長になったら、そうなったら……もう、一生俺は自分を押さえつけて生きなくちゃいけない。森の外を知らずに、自分を押し殺して生きて行かなくちゃならない。そう思ったら、怖くなったんだ」


 ターシャは、言葉にならなかった。

 なにも言うことができず、ただずっと撫でていた。

 グリードの心は、まだ森にある。

 森での生活が嫌で、外の世界を目指したけれど、それでも、彼は森を、そこに住まう仲間たちを振り切れるほど、冷たくはない。

 ターシャは、決意した。


 グリードを、森へ帰そう。


 人狼族の長の座をめぐる争いについて、グリードには知る資格がある。

 もし知らないままで森に戻ったら、きっと彼は離れたことを後悔するだろう。

 グリードの大きな冒険を、小さな自由を、そしてターシャと出会ったことを、後悔しないで欲しい。

 でも、彼にそのことをどう伝えたらいいだろうか。

 少女の占いで視た光景を、グリードに説明するには、どうしたら一番自然だろう。

 少女が訪ねてきたことを話すのが、一番手っ取り早い気がするが、占い師にとって、守秘義務を破るというのは許されないことだ。

 事が事だとはいえ、それを破ることは、占い師としてのプライドが許さない。


(占いで得た情報を、うまく伝えるには……あ、そうだわ)


 アリーシャの頭の中に、ある考えが浮かんだ。



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