#2
「おい」
何と呼べば良いか。知りもしない。だから、そうだ、適当に言うしかなかった。
だが目の前の此奴は狼狽えてるのかぽかんとしていて、差し出してやった手を取ろうともしない。
「こっちだ」
うかうかしていられない。腕を掴んで無理矢理立たせた。あの時の女子生徒はもごもごと何かを言っているようだ。聞こえないし、今は構っていられないし、流すか。
「部長! あまり乱暴に引っ張ったらダメだって!」
「たらたらしてられないだろ。 命掛ってんだ」
後世は全くもって喧しい。
「あ、あの! 貴方は……」
女子生徒はやっと声を出した。
「今は何も言えない。 黙って付いて来い」
事実だ。無能力が居るのは非常に拙い。相手は武装しているのだ。
歩きそうにない女子生徒を引っ張りつつちらと振り向くと、俯き気味で不安そうだがちゃんと付いて来ている。
後で謝ろう、今は兎に角保護を優先しないと。
俺は安全な場所まで早足で向かった。勿論、歩調はこの女子生徒に合わせたが。
*
あの体験の翌日、私は早速シズクにあった事を事細かに話した。シズクは口を挟まず最後まで聞いてくれた。全て話し終えた時、彼女はなんだか神妙な面持ちをしていた。
「ふうむ」
脳内の情報を吟味しているようだ。
「それはきっと、『帰宅部』だねえ」
「え?」
帰宅部って。
「帰宅部って、部活に所属せず真っ直ぐ帰るアレの事?」
「そう。 それだよ」
どういうことだろう。
「それは、どういう」
「噂には、その変な四人組がこの学校に居るとしかないんだ。 場所は様々で、いろんな教室で目撃されている。 中には三人組っていう証言もあったっけなあ。 直接彼らに話しかけた勇者がいてね、何者かって聞いたら『帰宅部だ』って返ってきたそうな。 だから帰宅部なのさ」
「成る程……」
「あたしは彼等はただの変わり者の生徒だとしか思えないんだけどねえ。 実際、その中の二人は上の学年にいて、普通に学校生活送ってるらしいし、後の二人は殆ど見かけないってことはサボりか保健室、あるいは不登校って考えられる。 こう、ファンタジー的要素ってのは皆無だよ」
「そ、そっかあ」
「ミョウガが彼らを見かけた時間帯は所謂、逢魔時だったんじゃない? あんたはそういうのもすっかり刷り込まれているみたいだから、神秘性を感じたのはまあ、不思議じゃないしね」
分析されるとあっという間に夢は崩れ、私まで冷静になってしまう。唯の夢に降格したそれはすっかり冷め切って落ち着いてしまった。
「夢見すぎかなあ、私」
「そうかね? あたしはあんたのそういう所、良いと思うけど。 感受性が豊かで。 ただ、夢の方に行ったっきりにならないでよ?」
「ならない!」
「どうかなあ。 ミョウガの事だし……と、それは置いといて。 明日の予定大丈夫そう?」
明日の予定とは、図書館の開館から閉館まで本を読み倒し、後日感想を言い合う読書会の事だ。
「全然大丈夫。 シズクは?」
「あたしも。 この調子で読書会続けたらあっけなくあの図書館の本を読みきっちゃいそうだ」
シズクはからからと笑った。
私の中での昨日の出来事はすっかり埋没し、読書会の事で頭がいっぱいになっていた。
*
読書会が終わり、シズクと別れた帰り道。頭の中で気に入ったシーンを何度も反芻し、歩きながらメモに纏めていた。
日はもう傾き辺りは暗くなってきて、電柱に取り付けられた蛍光灯が明かりを灯している。
私はふと一昨日の夢を思い出した。あの日の帰った時もこんな暗さだったな。変わり者の先輩に会った事でちょっと夢見すぎちゃったけど、シズクの言う通り、不思議な事なんて何もなかった。思い出すのはあのやたら目つきの悪い顔だった。あんなに眼光鋭い目を今まで生きてきて見た事がない。彼は不登校というより、不良なのかもしれない。
うんうん、と一人で納得しながら、ブロック塀の角に差し掛かる。しかし真っ黒い影が私が曲がるのを遮った。
うわ、と思わず声に出してしまった。踏み出すも行き場のない足先を元あった位置に引っ込める。
黒い影は鈍い音を立てて横たわった。酔っ払いだろうか。ここには蛍光灯の明かりが届かず、影の正体は見抜きにくい。
行き倒れではもっと困るので、しゃがみこんで、肩らしき部分を叩き、大丈夫ですかと声を掛けようとした。
影が這うようにゆっくり広がった。正確には、影の下から何かが湧き出たように見えた。
肩を叩いた手に違和感があった。じっとりと何かで濡れている。粘ついていて、水と違って張り付くようだ。
手の平をゆっくりと返した。真っ黒い何かがべっとりと付着している。
これは、
「血……?」
まさか、そんなはずは。
鼓動が急激に激しくなる。
「見られちまったか」
低い男性の声だった。
しゃがんだまま尻餅をついて腰を抜かしている私の前に、影の向こうに、人がいる。
「お嬢ちゃんにはショッキングだったなあ、おい?」
頭を掻き、溜息を吐いている。そうして影を踏みつけ、その上に立った。
私を見下ろしている。
「『見られちまったらしょうがねえ』って奴かね、これは。 悪いなお嬢ちゃん」
その人は右手の指を三本曲げて拳銃の形を作った。そして人差し指をまっすぐ私の顔に、眉間だろうか、そこに向けた。
「ごめんな、不運だったと思ってくれよーー」
相手の唇が『ばん』と言ったように見えた。耳鳴りと自身の鼓動でもう何も聞こえない。目は見開いたまま閉じることも出来ない。
鈍い音がした。
人差し指は、私から逸れた。
目の前の人はどうしてか直立してるには曲がっていて、よく見ると右脇腹に何者かの足がめり込んでいる。
「謝る位なら手ェ出すんじゃあねえ、優男擬き」
聞き覚えのある声だ。角から姿を現したのは、目つきの悪いあの人だった。
私に指を向けた男性は横倒しになり、けられた脇腹を抑えて呻いている。
彼は横たわる何かを避けて私の目の前に来た。
「おい」
手を差し出された。
私はぽかんとしてしまって、すぐに反応できない。
すると苛つかせてしまったのか、彼は私の腕を掴み思い切り引っ張った。されるがままに立ち上がる。
「こっちだ」
「えっ、あ、あの、え?」
今度は私がさっき通った道の方向へ引っ張ってくる。
「部長! あまり乱暴に引っ張ったらダメだって!」
背後でまた声がした。
「たらたらしてられないだろ。 命掛ってんだ」
一層不機嫌そうに吐き捨てる。
「あ、あの! 貴方は……」
私は声を絞り出した。
「今は何も言えない。 黙って付いて来い」
冷たく言い放つと、遠慮無しにグイグイと腕を引っ張ってくるものだから、私は歩かざるを得なかった。
私の心臓は未だにバクバクと激しい鼓動を刻んでいて、走ってもいないのに息が切れている。彼はそんなの御構い無しなのか、ある程度歩調は合わせてくれているが今の私には早足すぎた。
手は未だにべとべとしていて、若干乾き始めていたのが一層不快感を産む。早く手を綺麗にしたい。
私は一昨日のように非日常の中にいた。常日頃夢見る非日常。でも今はどうだ。恐怖と息切れで頭がくらくらしている。
一昨日の夢とはまるで違う。これは紛れもない悪夢だ!
夢ならどうか、覚めて欲しい。一昨日は再び飛び込みたいだなんて思っていたが、これは違う。
ぐるぐるとそんな事を思っていると、腕を引いていた彼は急に立ち止まった。突然の事に躓きかける。
「着いたぞ」
今まで私の腕をがっちり握っていた手はあっさり離された。
顔を上げると、倉庫のようなプレハブ小屋が目の前にあった。
「その手、洗え。ありったけの洗剤で好きなだけ洗ってくれて構わねえから」
裏手に回って、よくある外付けの水道を指差された。ここで待つように言われ、少しすると、彼は腕いっぱいに石鹸やら台所洗剤やら化粧落としやらを抱えてきた。それをどさどさと水道の脇に積み上げた。
「早くしないとこびり付いて面倒だぞ。 俺は中にいる。 満足出来たら入って来い」
そう言い残し、さっさと小屋の中に引き上げていった。
私は混乱していたが、取り敢えずこの不快な手をどうにかしたくて、柔らかめのスポンジで皮ごと持っていく勢いで手を洗った。石鹸も洗剤も化粧落としも、とにかくありったけ使った。この手の平の悪夢を消し去ってしまいたかったから。
手の平だけでなく手の甲も爪も、何故か手首から肘まで入念に洗って、私はやっと落ち着いた。渡された綺麗なタオルで丹念に水分を拭き取り、貸し出された洗剤らはどうしていいか分からず、使った石鹸以外はそのまま手に持ってプレハブ小屋に入った。
プレハブ小屋の中はすこしごちゃっと物が散らかっており、むき出しで置かれたゴミ袋にお菓子の袋や何かの箱がみっちりと詰まっている。簡易な流しとコンロは少し汚れていた。
部屋の中心に置かれた継当てのあるソファに、私をここまで導いたあの人が寝転がっている。
洗剤を持ったまま玄関で立ち尽くしていると、それに気付いた彼は起き上がって私から洗剤を取り上げその辺に放った。
「ああ、なんだ。 座れ」
言われるままにソファに座った。意外とふかふかだ。
「手はもういいのか」
私は無言で頷いた。
「あそ。 そうだなあ、何から説明するかなあ」
怠そうに後頭部を掻く。
「うん、まあ、取り敢えず。 お前の命は保証する。 ただーー」
少し間があった。
「ーーこれから巻き込まないとは、保証出来ないかもしれねえ」
その言葉は私の脳裏に深々と刻まれた。
そう。
私は、この時から。
『人の手及ばぬ奇怪な事件』に、関わらざるを得なくなってしまったのである。
化粧落としって有効なんですかね。何処かで見た気がしたので入れてみました。
(追記:前後の間の空いた文章をロクに確認せず投稿してしまいましたので一部修正しました)