甘美
宿の窓から見える夜の空には、綺麗なアクアマリン色の月がいた。
差し込む光は何処か神秘的で、改めて此処が僕がいた世界ではないと実感するが、唯一変わらぬ夜空の星には何処か安堵を覚えていた。
「……………………」
たった数刻の間に起きた出来事は余りにも突飛で、泡沫の夢ではないかとさえ思う。
でもきっと、夢ではない。
そう信じたい。
何故なら此処は、僕が生きたいと望んだ世界だから。
「…絶対に、そうだよな……………」
呟きながら目線を移した先には、一冊の薄っぺらい本があった。
画用紙を折りたたんでできたそれは、幼い子が書いた絵本だ。
そしてそれは、僕の真の処女作でもある。
「………………………………」
高揚して熱くなる頬を冷ますように、手に取ったその本をパラパラと捲った。
〜〜〜
むかしむかしあるところに
こわいこわいドラゴンがいました
ドラゴンはふこうのドラゴンとよばれていて
みんながドラゴンをこわがりました
そんなとき、あるひとりのおとこのこが
「ドラゴンをたおしてあげるよ」
といってぼうけんにでていきました
おとこのこの名前はウェルドといいました
ウェルドはぼうけんでふたりのなかまをあつめました
「よし!ドラゴンのところへいこう!」
ドラゴンはとてもつよいです
みんながドラゴンのまえでこわがります
「でもがんばろう!」
ウェルドのそのこえでみんなはがんばりました
「わるいドラゴン!ぼくがたおしてやる!」
ウェルドはそういってドラゴンとたたかいました
とてもとてもがんばりました
そしてウェルドはドラゴンにかちました
「やったー!かったぞ!」
ウェルドとともだちはよろこびました
みんなもよろこびました
そしてくにはへいわになりました
めでたしめでたし
〜〜〜
「ぷっ……ふふっ……」
駄目だ、何度読んでも思わず笑ってしまう。
これを作ったのは、幼稚園に通っていた頃だったはず。
母親に何度も手伝って貰いながら創ったのを覚えている。
慣れないカタカナを、必死にクレヨンで書いていたっけ。
王道の王道とも呼べるその物語は、僕が祖母のために創った正真正銘、初めての物語だった。
病気で寝込んでいた祖母を元気付けるために、そして入院生活で退屈しないために、無い知恵を絞って創りだした、拙い言葉で紡ぐ、純粋に楽しませるためだけに創った物語………
それはもう、いつの間にか忘れていた、僅か十頁でできた僕の創作の原点だった。
「キッキキ?」
「ん?どうした?」
僕の肩に登って来た白いリスは、僕の手元を不思議そうに見つめていた。
「本だよ。本」
「???」
「ふふっ…解るわけがないか」
僕はそう言いながら、本をバッグにしまった。
旅に付いていくと決まった時に、路銀すら持っていなかった僕は、その本を見つけた瞬間、わざわざウェルドに金を借りてその本を買った。
古本市の古本たちに埋もれていたそれを見つけたのは、きっと偶然では無い。
立派な表紙を持つ本の中に紛れ込んでいた小さな画用紙の本など、違和感の塊でしかなかった。
自分の処女作がうま◯棒と同じ程度の価値で売られているのを見た時は、滑稽すぎて笑いそうになるのを何とか堪えたのだが……
「頑張っていたんだよな…これを創った時は…」
当時、自称絵が上手い人であった僕は、裏、表紙も含めた全ての頁に、大きな挿絵を描いていた。
凶暴さを何とか表そうと周りに謎のオーラを放っている真っ黒なドラゴンの絵、今のウェルドとは似ているようで似ていない男の子の絵、皆が輪になってくるくる回りながら踊っている絵…………
「…僕はいつの間に、創ることの純粋な楽しさを忘れてしまったんだろう」
思い当たることは沢山ある。否、ありすぎる。
しかし、思い出す必要は無い。
もう、思い出さなくていい。
だって───
「もう僕は…僕の本の世界に……僕の望んだ…空想郷に来れたんだから」
この本が気付かせてくれた。
この本が思い出させてくれた。
此処が僕の切望した世界なのだと。
此処が僕の生きる理由そのものなのだと。
此処が僕を絶望から放してくれる場所なのだと。
だから、もう忘れるんだ。
穢れ、荒み、淀んだ世界のことなんて。
居場所を見出だせない世界のことなんて。
生きる意味のない、世界のことなんて───