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エルザTの水の彫刻家(濃縮小説)

 デアキは川面に腰を下ろす。たったいま切り出したばかりの薄い紫色の水の直方体を目前に置く。いつの間にかヨーロピアン・パープルと呼称されるようになった独特の輝きを持つ紫色を帯びた水の直方体。当然のように、それはヒラセ川近傍に生息する苔が変質した結果だ。道具箱を開け、師匠から譲り受けた作業工具を取り出し、じっくりと時間をかけて選別する。数日に渡って川の様子を探りつつ求める水の塊を掘り出したときから、デアキには彫り上げられるべき完成品の形状が目の奥にはっきりと刻まれている。ここ、クジではなく、ずっと北の町=イタバシに住んでいたころ、師匠のカヅキに繰り返し言われた言葉をデアキは不意に思い出す。『見えるまでは彫るな!』結局のところ、カヅキは最後の弟子にそれだけしか伝えていない。鑿や研磨布の使い方は見ながら憶える。二三日、師匠の元に戻ってはすぐに姿を消す数人の兄弟子たちは違ったが、師匠は技を出し惜しみしない。けれどもデアキは頭では憶えられない。子供の頃にLに感染して高熱を発し、海馬に重篤な損傷を負ったためだ。長期記憶が壊れている。以来必要時には日記を記すようになったが、自身の様々な人生の局面から零れ落ちてしまったエピソードは余りにも多い。デアキ自身はそれを知らないので頓着しなかったが、幼い頃には周りの誰からも不憫がられる。長じてからは疎ましがられる。水がほとんど変容していない、よって通常人のほとんどがそれ以南に移ってしまった土地に居辛くなったのは、そのためだ。病気の直後にはサイタマケンのコマという場所にいたらしい。それから流れて、距離的には大したことはないが、ナリマス、イタバシと移り住んでいる。デアキという名は、その頃再命名されたようだ。イタバシの水の硬さは寒天くらい。作り方にもよるが、立方体で五十センチ以上の高さになると自重で崩れる、そのくらいの水質だ。数年前に辿り着いたカワサキシ/タカツク/クジを流れるヒラセ川の水質はもっとずっと硬くて高度でいえば石膏(ただし空気が充分に混ぜ合わされたもの)程度だ。が、彫り触りは違う。鑿を当てた最初の瞬間は確かに石膏の感触なのだが、その後の鑿の食い込み方が生木に近い。さすがにデアキでさえ水の塊の中に木目があるとは思えないが、喩えて云えばそんな感覚で水はデサキの鑿に応え、抵抗し、裂ける。だから水を掘り出すときには方向が要となる。もちろん掘り出される対象によっても、その方向は変わる。地蔵になるときと猿になるときでは違ったし、花になるときと華になるときでもまた違うのだ。その段階から形が見えていなければ作業ができない。カヅキは天然石の彫刻家だったが、日記によると、やはりそういった石の見取りをしていたようだ。師匠の完成作品が裡から発する迫力は他に喩えるものがない。デアキの目にはそう見えたが、師匠の顧客は多くない。迫力があり過ぎて怖かったせいかもしれない。幸いなことにデアキが作る水の彫刻には需要がある。もっともそうでなければ今まで生き延びることができなかっただろう。デアキが移り住んだとき、水の変容が大きいクジ近辺には殆ど住人がいなかったので、狭いとはいえ自分独りには充分の畑が使い放題だ。が、ここではたねが手に入らない。ごく少ない品種では先祖返りして野生化したモノもあるが、殆どが一年経てば枯れてしまう遺伝子加工品だ。米や麦も手に入らない。それらの直接または間接的な供給役はデアキの顧客が果たしてくれる。遠い土地から、わざわざ毎年買い求めに来てくれる上得意もいる。けれども淋しい思いもしなければならない。幼い頃にデアキの長期記憶を奪ったウィルス性病原体のLと同じ物質が、水と他の多くの化学物質との分かちがたいフィラーとなったことが硬化水発生の公式要因だったため、顧客はその土地特有の水の彫刻をそのまま持って帰ることができないのだ。デアキの部屋に置かれた3Dレーザーシステム――かつて小学校だった廃屋の西向かいの集合住宅エルザTに業者を雇って納入させたもの――か、あるいは顧客自ら選んで運ばせた価格の見当が付かない全方向性立体模写システム等で、アクリルやガラスまたは各種金属や鉱物に形をうつした模造品のみ、持ち帰りが許されるのだ。法律で定められているわけではない。水とLとを介した他の物質との結びつきが半恒久的だと信じられていたからだ。穢れた水の持ち込みに対する人々の非難はまるで信仰のように凄まじい。何も知らない素人ならば、翌日にはほぼ死体になると人口に膾炙されるほどだ。けれども持ち帰り不可にもかかわらず結構な思いをしてまで顧客がデアキの許を訪れるのは、もちろんデアキの水の彫刻を直接その目で見たいがためだ。まるで惚けたようにそれをじっと見つめる顧客の姿が作者としてのデアキの大きな慰めになっている。次の顧客が訪れるのは四日後の予定になっている。届いた手紙には「数日逗留して様子を見たい」と記されていが、それまでにはある程度の形に仕上げておきたいとデアキは思う。それに続く三日間、さまざまな想いがデアキを訪れてはまた去っていったが、デアキはそれを流れるままに捉え、粛々淡々と作業を続ける。やがて明確にその形が見えてきたデアキの水の彫刻は、やがて懇親の力を込めて鑿を振るう師匠カヅキの生き姿を写し取ったものとして産声を上げるだろう。(了)


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