空が罅割れるとき
ネズミを追いかけ、ふと気がつくと、ふしぎなところにいるのに、ネコは気がつきました。
さっきまでネコは、下町の路地裏にいたのです。横町のおかみさんとわんぱく小僧たちの入り混じる、汗とホコリとかん高い声の町。そこに住む人々は、みなキラキラと輝いているように、ネコには思えました。空は煤煙でくもり、川はすき通っていなくても、人々の心には、どこまでも晴れ上がった青空がありました。
ところが、たったいまネコの迷い込んだここは、空気が冷たく、澄んだ湖の底のように静かでした。静かすぎて気味の悪いくらいです。
ネコは身体をぶるぶるっと震わせました。
見渡すかぎりに続く金属とコンクリートの建物に人の気配はなく、道路は上へ下へと入り組んで延びています、街路樹は、きっとプラスチックか瀬戸物で、できているのでしょう、吹きすさぶごとにヒュウと悲しげになる風にゆられ、カラカラと乾いた音をたてています。ビルにはめ込まれたガラス窓は、熱さのない高い太陽の光を跳ね返し、場所場所に蜘蛛の巣のような影を落していました。
ミャーオ
ネコは考えました。
いままでネズミのことしか考えたことのなかったネコは、はじめて人が恋しいと思いました。
そういえばさっき、ここに突然きたときから、ネコの頭に、ぼおっとひとりの男の子の姿がチラつきはじめていました。誰なのかはわかりません。けれども、その子の顔の色があんまり白いのは、病気で長いことベッドに横になっているせいだと思われました。
ネコは、その子のことを何とかして思いだそうとしてみました。チラチラとゆれる顔がひとつにまとまりそうになると、ネコの耳の中に、だんだんと怖ろしい音が響き、ネコの頭は、割れるように痛みはじめました。
ミャーゴ
ネコは頭の痛みを振り払おうと、めちゃくちゃな勢いで走りはじめました。開け放たれたビルの鉄の扉は、甘く、生きもののようにネコを誘い、ネコは知っていながら、その口の中に飛び込んでしまいました。
暗闇 階段!
ずいぶんと上の階から光が洩れています。
まっすぐに伸びた光は、階段の節々を一様に照らし、どこまでも下に続く螺旋のもとに、ぐるぐると飲み込まれていきました。
コツーン コツーン コツーン コツーン コツーン
かけ上がる途中、蹴ったコンクリートのかけらが、延びては映える光を追いかけるように、あとに続きました。
カツン カツン カツン カツン カツン カツン
駆け上がるネコの足音も、立てる先から、闇が喰べてしまいました。
光の部屋はすぐそこです。
バタン ドアを跳ね退けると人影!
ネコは、我知らずに、人影に跳びかかりました。
「まあ、こねこちゃん。怖がらなくてもいいのよ」
その人は女の人でした。
長い髪に、黒い大きな目。ほっそりした身体つきに似合う、白いドレスを着ていました。
「こねこちゃんの来てくれたおかげで、わたし、ひとりじゃなくなったわ」
ネコを抱きかかえると、頭を撫でながら、女の人はいいました。ネコには、女の人のコトバがわかるような気がしました。女の人は、甘い香りがします。心は、できたてのスープのようにあったかそうでした。それなのに、女の人の手は冷たく、少しだけネコをびくっとさせました。
(どこ、で、なぜ?)
ネコは心に、気持ちを思い浮かべました。
すると、女の人はネコの心を見抜いたかのように、話しはじめました。
「病院のベッドで寝ている、ひとりの男の子がいると思ってちょうだい」
女の人は続けました。
「その子はひどい病気に罹っているの。身体のすみずみが、だんだんと腐っていき、肝臓や腎臓までもが機械に取り換えられているのよ。人が、あんまり多くなりすぎた都会で、望まれずに生まれてきた子。お父さんも、お母さんも、その子をちっとも愛していなかったわ。やがて病気……
生れつきからだの弱かったその子は、産声ひとつ上げられないうちに、田舎の病院に入れられたわ。たったひとりで。両親はお金持ちだったから、手厚い看護は受けられたの。けれど、決して会いに来てはくれなかった。なぜって、その子の手には水かきがあったもの。その子がまだお母さんのおなかのなかにいたとき、お母さんが飲んだある薬のせいらしいわ。いまでも知らずに売られているその薬を飲んだ人から生まれた赤ちゃんは、かならずどこかに欠陥を持つ。目が三つあったり、手や足がなめくじのように縮れていたり……
でも、よく聞いて欲しいの!
そんな子でも、自分の子供だったら、やっぱり可愛いわ。普通のお母さんだったなら、五体満足に生まれてきた赤ちゃんよりも、もっとずっと大切に思うはずだわ。それでも、わたしはこの子の母親ですって、自信を持っていえるはずだわ。
だけど、その子のお母さんは違っていた。
それでも、わたしはこの子を愛さない。もっとひどいの。この子を憎むとさえ、眉ひとつ動かさずにいってのけたわ。
この子の知らないこと、なんだけどね……」
女の人は乱れた髪をかき上げると、手を拭いて、ネコにお皿とミルクを出してくれました。女の人の姿を追いかけて、ネコは部屋を見渡します。白い、真四角な部屋。正面には棚があり、ガラスのコップやスプーン、フォークが立てかけられて、その並びには、小さなテレビがありました。左手側には、ネコの入ってきたドアがあり、やはり、きっちりとは閉められずに、少しだけ開いて、階下に光を与えています。うしろ側はベッド。白いシーツに、白い枕に、白いベッドカバー。右手側には、大きな窓がありました。空は青く、見渡すかぎりに澄みきって、のぞくと、どこまでも果てなく見える、金属とプラスチックの街が広がっていました。遠くの方は霧に煙って…… ネコはそこでちょっと不思議に感じましたが、おなかがすいていたので、考えるのをやめて、ミルクにありつくことにしました。
「心のなかは海に喩えられるわ。自分の知っている心、心の表側は陸地で、山があったり、街があったり。けれど、その陸地も広い海のなかに浮かぶ、ほんのちっぽけなものなのだわ。どんなに大きく感じられてもね。海とは、心の内側のことよ。その海を通じて、すべての人はつながっている。すべての生きものはつながっている。それぞれの生きものが持っている心は、その広い広い海のなかに浮かぶ、ひとつひとつの陸地なのね、その海をとおって、わたしはここにやってきた。そして、住みついてしまったの。
こねこちゃんは、どうしてここにきたのかしらね。ええと、……まだ、この話をするのは早すぎたかしら」
女の人は目をつむりました。女の人が、ほんの少し、もといたところの懐かしさに囚われたように、ネコには思えました。
「また、男の子の話なんだけれど……
その子に目に映る景色は、病院の窓の外の、すがすがしい田舎町ばかりではなかったわ。
その子は、幼稚園にも、小学校にも行けなかったから、もちろんコトバはしゃべれなかったけれど、それでも、やさしい心を持った看護婦さんが、さまざまなお話を物語ってくれたから、どうにかコトバを聞くこと、わかることだけは、できるようになっていたの。ちょうど、その子の持っている陸地から延びた眼が、海を越え、看護婦さんの持つ陸地をのぞき見するといったふうに、その子は話を、自分のものにすることができたのね。話のなかでは、お伽話の国や、昔の人々の生活、あくせくとしながらも、明日を夢見て生きる下町のおかみさんたちのことが、ていねいに語られたわ。そんな話を、その子は喜んで聞いていた。看護婦さんたちのいる世界では、
アール! アール!
としか聞こえない声で、その子は喜びを表現したの。
でも、その子もやっぱり男の子だったのね。
普通の村や山で遊ぶ子供たちが、ただ面白がって、カブトムシやザリガニの足をもぐように、その子の心をのぞく眼は奥へ奥へと分け入ってしまい、やさしい看護婦さんの心の穢らわしい、醜い部分を見つけてしまったの。
どんなに素敵な人でも、素晴らしい人でも、神さまでもないかぎり、いいえ神様だって、心のかたすみには醜い部分を持っているわ。
(わたしは、あの人と一緒に病院に勤めたのに、あの人の方が早く婦長さんになったわ)
(あの人もわたしも同しくらいの綺麗さなのに、あの人の方がいいお婿さんを見つけたわ)
昔のこと、そんなちっぽけな醜い心がかたすみに掃きだめられて、どんな生きものの心の中にも、うずたかく山になっているものよ。
そして、すみっこにそんな小さな山のある人の心が、その子には耐えられなかったのね。
その子の心は、もうぐらぐらになって、その子の身体の病気も、もっとずっと悪くなってしまった。ただ身体の弱い子っていうだけじゃなく、本当に身体のすみずみが腐りはじめたの。病気の進み具合に気がついた看護婦さんは、悲鳴を上げたわ。だって、その人の見ている前で、男の子の足の指がポロリと床に落ちたのだもの。
看護婦さんは、急いで病院の院長先生を呼んだわ。院長先生は、何人もの優れたお医者を、優れたお医者は、もっと優れたお医者様を…… 詳しく検査をした結果、その子の病気は、これまで世界に知られていないものだと判断されて、国がお金を出して、その子の身体を徹底的に調べてみることになったの。
都会の大きな病院に運ばれて、身体に機械を取りつけられたわ。十も二十も。小さなものから、国立大学の総合情報処理コンピューターとも連絡のとれる、部屋の半分くらいを占める管理用コンピューターにまで接続されたわ。
でも、男の子は死んではいない。
もし身体が腐って、どうにもならなくなっても、国が、さっき話した薬の作用でこの子がおかしくなったのだと疑っていなかったら、この子のお父さんとお母さんは、きっと、可愛いこの坊やをそのままにして、腐らせるにまかせたかもしれないわ。
それでも、この子はまだ死んではいない! 生きているんだわ」
女の人は椅子から離れると、ツカツカと窓に近づいて、ころげるように窓を開け放ちました。冷たい、触れたものを思わず身震いさせる風がビュウと部屋に入り込み、部屋に広がり、ネコのまわりをとりかこみました。ネコはテーブルを蹴り、女の人の肩に跳び移ると、その両腕のなかに逃げ込みました。ちょうど、女の人の左胸に当たったネコの耳は、トクトクと脈打つ、女の人の心臓の音を聞くことができました。何が起こっても決して驚かないというように、女の人の心臓は規則正しく脈を打ち続け、ネコの心を和ませてくれました。空の中ほどから、目を、霧のたなびく空と街の境界線上に向けて、女の人は目をつむり、また話しはじめました。
「看護婦さんには娘がいたわ。四つだったか、五つだったか、身体がガリガリの頼りない娘。泣き虫で、村の男の子によく泣かされていたわ。雨が降れば、消えていく雨粒たちのことを思い、農薬を撒く季節には、死んでいくさまざまな虫たちのことを考えて、夜も眠れなくなるような、食は細かったけど、出されたものは無理してでも食べるような、そんな子だったわね。
その子には――下町に暮らす人々の織りなす愉快な物語だったわね――お気に入りの童話があって、母親の看護婦さんが自分からお願いして、病気で弱った男の子に付き添って、都会の大きな病院に移ることになったとき、当時のその子にしては頭ぐらいの大きさだった、その大好きな本一冊を胸に抱いて、母親の小指につかまりながら、いっしょに都会までやってきたの。
そういえば、その本のなかには、こねこちゃん、あなたみたいなこねこが出てきたわね。ネズミを追いかけ、ちょこまかこと町の間じゅうを走りまわっていたのだけれど、ある日、怖ろしい音が聞こえてきたと思ったら、あっという間に、大型トラックに跳ね飛ばされてしまった。それから先、こねこがどうなったかは、本のどこにも書かれていない」
女の人はコトバを区切りました。母親譲りのやさしい目を開くと、ネコのことを見つめました。
(こねこちゃん、あなたはきっと、その〈こねこ〉なのね。あなたが、わたしが話をするたびに小さくうなずくのは、きっと、人間のコトバがわかるからなんでしょう? あのお話は人間のコトバで書かれたものだから、たとえネコでも、人間のコトバを理解することができるのね)
ネコもうすうす勘づいていました。頭がズキズキと痛んだあの怖ろしい音は、きっと、大型トラックの爆走する音でしょうし、誰にでもあるはずの心の汚れを、横町の人々から感じられなかったのは、あの人たちが操られた、お話のなかで演技をする人たちだったからかもしれません。
(だれ、が、なぜ?)
ネコにはまだ、いくつかの戸惑いがありました。
誰が、何のために、この不思議な金属とプラスチックの街に、ネコを連れ込んだのでしょう? すると――
「わたしは、その看護婦の娘なのだわ!」
女の人はいいました。
「わたしは、男の子が可哀想でしかたがなかった。
わたしの身体が腐っていなかったから? わたしがベッドに縛りつけられていなかったから? わたしは、男の子とは違うから? ……そんなことではなしに、わたしは、ただ、男の子が可哀想でしかたがなかった。
わたしは小さくって、お金もあんまり持っていなかったけれど、おこづかいをもらうとお花を買って、よく男の子の病室に遊びにいったものよ。枯れた花は取りかえて、古くなった水は新しくして、男の子の目にきれいなもの、美しいものだけを見せようとしたの。あの子も、わたしにだけは、いたずらな心の眼を延ばそうとはしなかった。わたしの中にだって、もちろん汚いものがあるわ。普通の女の人よりもっと盛り上がった、いやな臭いのぷんぷんする醜い山があるでしょう。男の子は、それを見たくなかったのね。見れば、またがっかりしてしまうから、特別な人はいないのだって、何度も繰り返してえぐられた心の傷を、より一層深くしてしまうばかりだから…… あの子は眼をつむってくれたんだわ。無理やりにだろうけど、わたしを特別扱いにしてくれたのね」
女の人の顔が少し曇りました。
「何年も経って、わたしも、一人前の娘になったわ。働くこともできる。子供を産むことだってできる。お友達もたくさんできて、毎日毎日が夢のように楽しかった。それなのに、たまに花束を抱えて男の子の病室を尋ねると、男の子はまだもとのまま。いつまでも男の子。男の子だってことは少しも変わらずに、取りつけられる機械の数だけが増えていった。
はじめ、男の子の心のなかには、村や森があったのよ。それが病気で荒れて、身体に取りつけられる機械の数が増えるたびごとに、村にはビルが建ち、車が一台も通らない道路が走り、森から引き抜かれて植わっていた自然の木も、男の子の目が一枚のレンズに取りかえられたとき、すべてプラスチックに変わってしまった。男の子は、だんだん人間ではないものになっていったわ。まるで、生きものでさえないように....。
ある日、わたしに向けてくれた男の子の笑い声は、まるで、金属と捨てられたまがいもののようだった。はじめから機械として作られたロボットの暖かさもなく、かといって、気味が悪い形をしたイキモノ特有の存在感もなく、まるで、顕微鏡で拡大されたウィルス像のように、見たくもない声だった。
わたしが来たのに気がつくと、男の子は、
アール! アール!
って、雑音だらけの電気の発信音で、わたしを喜んでくれた。そのときのことは、わたしの頭から、ひとときだって離れはしない。
夜、誰もいない、機械のぶうんと低く唸る音しかしないはずの男の子の部屋にいたわたしを泥棒を勘違いして、見まわりの人が頭を叩きつけたのは、そのすぐあとのことだったと思うわ。
目の前が急に暗くなって、遠くから人の諍う声が聞こえてきたような気がする。パタンと足許の床が抜けて、いきなり暗い闇から地面に叩きつけられると、そこはまばゆい光の溢れた、波の静かな入り江だったわ。そこから先は、どこまでも果てない海が広がっていたの。人はいつもは自分の陸地のまんなかにいるものだから、その先に海が待っているのを知らないわ。わたしも自分の目で見るまでは信じられなかった。入り江のかたすみ、まだら岩のかげには、いまにも壊れそうな一艘の船があって、わたしは迷わずその船に乗った。その船こそは、男の子がわたしの陸地の淵にまで漕ぎ寄せてくれたものに違いないと確信したから……
男の子はひとりぽっちよ。いま行ってあげなかったら、男の子は、いつまでも、ひとりぽっちのままなのだわ。
船は、わたしを乗せるとひとりでに動きだして、この街にへと導いてくれた。
……そう、もうわかったでしょう!
ここは男の子の陸地、心の表側に建てられた、男の子の街なのだわ」
女の人はネコを強く抱きしめました。女の人の冷たい息を吹きかけられて、ネコは、女の人がここに来て、だんだんと身体を冷たくしていったのだとわかりました。
「この街に着いて、わたしは男の子を探したわ。わたしの心のなかで、わたしが、わたしの姿をしていたように、この街のなかでは、男の子はきっと、もとの生まれたままの男の子の姿をしているに違いないと思ったから。わたしは探した。そこいらじゅうを探しまわったわ。……誰も見つけられなかった。
わたしが街のなかでうろうろしていると、このビルへと矢印を向けた立て札が、いく本も見つかったわ。わたしは立て札に沿ってビルに入り、こねこちゃんと同じように階段をかけ上がって、この部屋に着いたの。あのドアを少し開け放しにしてあるのは、最初にドアが少し開け放しで、そこから洩れた光が、わたしをここに導いてくれたからなのよ。
いつか、ひょっこりと、あの子がやってきてくれるかもしれないでしょう?」
それから女の人は正面のテレビに目を向けました。
「あのテレビには、これまで男の子が見てきたものが映るわ。音はしない。街の移り変わりとか、若い時分のわたしのお母さんが出てくることもあるのよ。でも気まぐれだから、たまにしか映ってくれない」
女の人はツカツカと歩くと、ベッドに腰をおろしました。ネコはすぐに移動して、膝の上で丸くなっています。
「来たときからこのまま。少しも変わってはいない。ホコリさえたたない。出ていくこともできない。
わたしは本当にここに男の子がいるのかどうかを信じられなくなって、階段を降りていったこともあるのよ。どんどん降りていくと、下に、わずかに開け放しのドアから明かりの洩れている部屋があって、入ってみると、そこはここだったわ!
自分から望んできたはずなのに、わたしは、ひとりで淋しくてしかたがなかった。ひとり言をつぶやいたり、壁やビルに向かって話しかけて、淋しさをまぎらわしていたわ。自分に嘘をついたり、わざと怖い夢を見ようとしたり、わたしの淋しさが、わたしを押しつぶしてしまいそうに、どうにも耐えられなくなった今日、こねこちゃん、あなたが来たのよ!」
女の人はネコの背中をさすりました。ネコには、
(なぜ、と、だれ?)
が、わかったような気がしました。淋しがっていた女の人。それより淋しがっていたはずの男の子。ここは男の子の街。男の子が淋しがる女の人のもとに、自分も、その昔小さかった女の人もよく知っていたお話に出てきたネコを寄せて、女の人に、ここに留まってもらいたいと望んだのでしょう。
ネコは、女の人をいとおしいと思いました。
女の人の顔をじっと見つめました。
澄んだ瞳の奥には、凪の小波のようにゆれる、ひそやかな悲しみが隠れているように見えました。
(わたしは、ここを出ていきたい。でも、そんなことをしたら、男の子を、またひとりぽっちにしてしまうことになる。ここで一等淋しがっているのは、わたし、じゃない! ひとりも友だちを持つことができなかった男の子の方だわ)
女の人の美しい目は、ネコにそう語っているように思われました。そのとき――
(だれ、は、たてもの、このへや、このビル!)
ネコに直感が訪れました。
ヒゲにピーンときたのです。
女の人を閉じ込めたこのビル全体が、すなわち、男の子の心になかに現れた男の子そのものではないかと、ネコには思えたのです。
ネコは耳を澄ましました。身体じゅうをヒゲにして、どんな物音も逃さないように身構えました。ネコの神経に触れて、ビルが小きざみにゆれています。そして何かの流れが、ネコには感じられました。女の人の身体から少しづつ抜けだした暖かさがネコのすぐ横を通り、このビルの壁に吸い込まれていくのがわかりました。
ネコがここに来てからでさえ、女の人の身体は冷え続け、それこそ氷のように冷たくなっているのです。もしこのまま、女の人がここにい続けたなら、女の人の輝く生命のエネルギーのすべてが、男の子に汲み尽くされてしまうかもしれません。女の人の母親、すなわち、男の子にとってもやさしい人であった看護婦さんが、心を半分切り取られるような思いを味あわなくてはいけなくなってしまうのです。おそらく心の外の世界では、女の人はベッドに横たえられ、目をつむったまま、死んだように見動きさえせず眠り続けているのでしょう。
女の人をここに閉じ込めた男の子のわがままが、女の人を死に追いやろうとしていたのでした。男の子がなんとかして女の人から隠そうとした自分自身の心の汚い部分、醜い部分が、男の子の望むはずのない悪魔の力を揮っていたのでした。
ミャーゴ!
ネコは鋭い声で、建物に向かって吼え立てました。
ミャーゴ ミャーゴ ミャーゴ ミャーゴ
ネコの鳴き声は部屋を震わせ、街を震わせ、冷えきった空気を引き裂いて、弾丸のように空に突き当たりました。
ピシリ!
見ると、空には罅割れが走っていました。
ネコはさらに鳴き声を張り上げます。
ピシリ ピシリ ピシリ ピシリ ピシリ ピシリ
空に広がった割れ目は避け目となり、からまりながら全天を覆いつくして、パラパラと大小のコンクリートのかけらが崩れ落ちてきました。
ピシリ ピシリピシリピシリ ピシリ ピシリピシリ
バラバラバラバラ バラバラ バラバラバラ バラ
いく筋にも伸び、絡みあった避け目が砕け、数かぎりないかけらが街に降り注ぎました。風が荒れ狂います。引き裂かれたような悲鳴が、そこいらじゅうに溢れました。ぽっかりと開いた避け目の向こうには、さらに沈んだ夕焼けの空が、そしてその空には、女の人の目から隠された一本の黒い虹がありました。
バラバラバラ バラバラバラ バラバラ バラバラ
バラバラ バラバラ バラバラ バラバラバラ
バラバラバラ バラバラバラバラ バラバラ
バラバラ バラバラ バラバラ バラバラ バラバラ
バラバラバラ バラバラバラ バラ バラバラ
バラバラ バラバラバラバラ バラバラ バラバラ
霧に煙った淵だけを残して、見せかけの空のドームがすべて崩れ落ちると、今度は建物が、まるで暑い夏の日のねんどのように、ドロドロと融けはじめました。
「いったい、いったい何が起こったの!
ひとりぽっちの男の子、あなたは、わたしに何を隠そうとしたの?
あの黒い虹が、あなたの小山なのね。
あなたは隠すことなんてなかったのに……
恥ずかしがることなんてなかったのに……
あなたに汚いところがあるとわかったって、わたしがあなたを好きだってことには変わりないわ!
そう、いまわたしには、はっきりとわかる。
わたしは、あなたを可哀想だと思ったのじゃないわ。
あなたを本当に好きだったのよ!」
女の人がそう叫んだとき、あたりを震わせていた響きも、風の唸りもピタリと止んで、空は晴れ、納まりゆくチリとホコリの向こうから、黒い虹が、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり、と大地に近づいて降りはじめました。虹の片側は、はるかな海へと延びて、もう片側は、ネコと女の人のいる建物の窓へと向かっています。動きながら、虹はその色を変え、きらっと一瞬黄金色に輝くと、建物の窓から海へと向かう一本の白い道になりました。
「あなたは、わたしに行けというのね。わたしに、わたしの時間に戻りなさいと……」
ボクハヒトリデハナイ!
ボクハカクスモノガナイ
ボクハナクスモノガナイ
「あなたの心から出ていったら、わたしは裏切るかもしれないわよ! それでもいいの」
答はありませんでした。
女の人の最後のコトバが、くわんくわんと瓦礫の山に、消えてしまった偽りの世界に響きわたりました。
女の人は涙ぐみました。
「しかたがないわね。……こねこちゃん、さっ、行きましょう」
振り返った女の人が見たものは、どろどろに融けたねんどの塊でした。見る見るその姿は空気のなかに薄れていき、差し伸べた女の人の手の中には、真珠のような、涙のひと粒だけが残りました。
* * *
女の人は前を見つめます。
海に向かって歩きはじめました。
はるかかなたに、ちっぽけな船が見えています。海は凪ぎ、風は涼しく頬を撫でつけています。天空には、まがいものではない太陽が輝き、女の人の身体を熱く焦がしました。
歩く女の人の姿は、見つめる遠くの眼にとっては、人形にしか見えませんでした。
(了)
[参考資料]
一.P・K・ディック著、小尾芙佐訳「火星のタイム・スリップ」早川書房
二.K・G・ユング著、江野専次郎訳「こころの構造」日本教文社
三.K・ヴォネガット著、浅倉久志「プレイヤー・ピアノ」早川書房(特に三十二節)
四.立原えりか「お姫さまをたべた大男」青土社「小さな人の寸法は?」所収