ジェニファ
「あれは、わたしのものだ!」
ようやく話がまとまりかけた矢先、散逸技術士頭目のライホがふざけたことを口走るものだから、わたしの腸が煮えくり返る。
「どうして、そうでないといえる。わたしが世界中を巡り、最適な基本周波数、含有周波数、音量、周期性、音源の方向などを素材として収集し、的確なリズム、格好のメロディー、表現としての和音、厳粛な数理美を放つハーモニー、それらを複数の作曲家たちを用いて構築させ、さらに、やはり世界中から厳選した幾人もの最高の奏者に最麗の楽器を与えて奏でさせ、刈り入れ、編み込み、それを纏えるまでに大切に育てたのだ! それをお前はわたしのものではないというのか?」
憤慨のあまり息が上がってしまう。それでも怒りは収まらない。わたしが憎悪の眼差しでライホの顔を睨みつける。けれどもライホはわたしのその仕種に動じることなく、悲しみ溢れる表情をその瞳に宿しつつ、こう告げる。
「ですが、バイロットさま。……お探しのお召し物はすでに野生化しているものと察せられます。あなたさまにこんなことを申し上げねばならぬことを誠に心苦しく感じます。ですが、ここ古都アンタイルの街にもスラム街区がございます。世界中の何処の街にも町にも村にも集落にも、比較できる大きさこそは違いましょうが、それらはあると申さねばなりませぬ。それは人間生活における露な原理、隠し得ぬ真理、更にすべての生きとし生けるものを統べる基本法則でもございます。よってこればかりは、いかなる技術もしくは技を操る者、わたくしどものような多少は技に長けた者であろうとも、如何ともし難い真実なのでございます。もっとも実を申せば、ほんの数時間、もしくは場合によっては数日間程度、そのような状態を街に維持させることは可能かもしれません。わたくしどもの仲間の中でも、とりわけ優れた技を有する者を複数人揃え、ええ、ええ、ペンタグラムを形作る必要がございますので、最低の場合五士がおりますれば、実現不可能ではないと申せましょう。ですがバイロットさま、それはやはり戻ってきてしまうのでございます。どんなに力ある技者たちが、幾人集おうと必ず戻ってきてしまうのでございます。確かに、それは一度無限の闇、その最果てからも消え去ってしまうのでございます。更には流れる時間の一滴の中からさえも完全に消滅してしまうのでございます。確かにそうなのではございます。が、それといえども完璧に消え去り、かつ消しやられたはずのスラムという構造体は、たとえそれ自身が同じ形で戻らなかったといたしましても、やがては多くの時を経ずして街の中に戻ってきてしまうのでございます。 いえ、いえ、いえ、そういう物言いをいたしましては、決め付けてしまいましては、聊か正確さを欠いてしまいましょうか? 発生する? そうですな、発生する! そう申した方がより的確な表現なのかもしれません。すなわちバイロットさま、それはバランスなのでございます。もちろんあなたさまは、そのようなことは百も承知のことでございましょう。ですが、それは真実なのだと敢えて申し上げなければなりません。わたくしどもにどうにかこなせますのは、それらのバランスを一時的にアンバランスさせることだけなのでございます。確かにそこには散逸構造的ゆらぎの増大を効果的に利用した技がございます。それは元々振動周期する化学時計のようなリミットサイクル構造をその周期ごとに加速して増大させる方法なのでございます。が、この場でその詳細を申し上げても仕方ありますまい。バイロットさまも無論、お聞き及びになられていることでございましょう。ええ、その通りでございます。ムーア理論の発展系でございます。ああ、すなわち、わたくしめがここで申し上げたいこと、ごくごく掻い摘んで要点のみを短かく申し上げさせていただきたいことは、わたくしどもブリュッセラーに出来ますのが実に小さな、本当に些細なきっかけを創り出すことだけでしかないと云う事実なのでございます。無論、きっかけは与えます。それがなければ何も生じはいたしませぬ。が、それを膨らませ増幅させるのは、他ならぬ自然の力なのでございます。さようなわけでございますから、バイロットさま、一度スラム街区に持ち去られてしまわれたあなたさまのお召し物は、もうすでに理性を欠いておられる可能性が高いのでございます。大変心苦しいことではございますが、これは間違いのない正しい指摘なのでございます。よって、あなたさまのお召し物がわたくしどもの多少の力添えにより首尾よくご発見およびご確保された場合におきましても、そのう、なんと申しましょうか、お召し物――ジェニファさま――は、バイロットさま、あなたさまをご認識になられない可能性があると云うことなのでございます。それが先程、あなたさまの激昂を招いてしまいました言葉の正確な意味なのでございます。いえ、いえ、いえ……。しかし可能性と申しますよりは、やはりほぼ間違いなく、と言を修正した方がよろしいのでございましょうか? わたくしどもの経験を、ここは信じていただかなければなりません。申し訳ないことでございます。何より残念なことでございます。けれどもバイロットさま、それはこの世のあり方なのでございます。どう足掻こうと如何ともし難いことなのでございます」
そこまでを一気に捲くし立てるとライホは、それまで物怖じせずに見返していたわたしの憎悪の眼差しから一時的に目を逸らし、やがてどうにも事は動かすことはできないのだと云う諦めにも似た表情を浮かべ、次のように付け加える。
「それがこの世のあり方なのでございます、バイロットさま」
ブリュッセラーのその悲しげな顔付きを目の当たりにし、わたしの胸の中に渦巻いていた怒りが急速にその熱を失っていく。矛先がなくなり、萎えてしまったと云った方が良いかもしれない。すると次には己の心の迷宮からどうにか外界に――実在世界という迷宮の中に――放つまいと耐え忍んでいた尽きることない喪失感が急速に膨らみはじめてしまう。 それを止めることなどできはしない。それを感じてしまうのが人の心だ。アリアを伴い、荒れ狂う。わたしのかけがいのないジェニファが、わたしに纏われ、わたしだけに向かって詠唱した、あの翡翠のようなアリア。『オンブラ・マイ・フ』の香りがある。『復讐の炎は地獄のように我が心に燃え』も薄く基底部に漂っている。時には『ハバネラ』のように舞い、時には『ああ、そはかの人か』のように誇り高く、また時には『誰も寝てはならぬ』のように男性的な声音さえも漂わせ……。わたしは自身の感情が疲弊してゆくのを感じている。が、どうにか精神を強靭に保ち、云わねばならぬ、伝えねばならぬことをライホに告げる。
「まだ二日だ。それしか経っておらぬのだ! ライホよ、早く探すのだ! 見つけてくれ。確保してくれ。解放してくれ。最愛の美を纏わせてくれ。わたしの身に上に纏わせてくれ。わたしの全身に早くその歌声と旋律を呼び戻してくれ……。ああ、わたしには信じられない。そんな短時間に急速にそれが消えてしまうとは? それが失われてしまうとは……。 歳月というものは、それほど虚しいものなのか? それほど無用なものなのか? それほど意味ないものなのか? ああ、あの七年間は何だったのだ? いったい何であったというのか? おお、更にそれに先立つ約二十年の研究期間は……。ライホよ! わたしとジェニファはまだお互いを真に理解するほどの年月を共にしていないのだ。作曲から編み込みまでに丸七年間がかかっている。が、それでも世紀の奇跡! 世界の何処に行こうが、果てまで行こうが、そのような短期間であれほどの作品を完成させたものなど誰もおらぬ。少なくとも、わたしは寡聞にして知らぬ。確かに、キャンベル卿ヴィニーの倍音は素晴らしい。ハンセン卿のゲイリーは――わたしにはその趣味はないが――見事な骨格のリズムとしなやかな筋肉の美しさを放つ転調を有している。またエルムグレン卿の愛称ヴィヴィアン――本名は誰も知らぬと云うが――の気高きハーモニーの美も、もちろん比較する音列はないだろう。が、わたしにとって、いや全世界においても、ジェニファの可憐な音列の多くは想像を絶するのだ! まだ一週間と経っていない。彼女をはじめて身に纏い、彼女の旋律を、音を、和音を、歌声を、すべてを耳と全身の肌と感覚器官で感じてから七日も経っていないのだ。それに社交界への正式デビューもまだ果たしておらぬ。翡翠のように麗しいわたしのジェニファを知るものは、お前を含めたほんの一握りの人々に過ぎぬのだ。ライホよ、お前にも聞こえるだろう! ジェニファ社交界デビューの場において疑いなく耳にできるであろう絶賛の嵐を! 鳴り響くであろう喝采と叫び声を……。 そうなのだ。それは想像ではない。真実ではまだ実現しておらぬが、必然なのだ。時の成り行きの偶然の入り込む余地ない結末なのだ。だが、ああ、それが失われてしまったというのか? ライホよ! お前は、そんな残酷な、推論すら許さぬ事態を真実だと強調し、この哀れに老いさらばえた老人に無残にも告げるのか? 金なら、いくらでもやろう! いや、そればかりではない。地位もやろう、名誉もやろう。あれを除いたわたしのすべてをお前にやろう。お前たちブリュッセラーにくれてやろう! が、ライホよ、頼む! この通りだ。頭を下げよう。いくらでも頭を垂れよう。土下座もしよう。土の中にさえ埋もれよう。が、この惨憺たる解決のない嘆きのまま、惨めに老醜を晒すこのわたしを癒えぬ喪失のまま幕引きさせないでくれ! お願いだ! あれを、ジェニファを、必ず探し出してくれ! 頼める相手は、ライホよ、お前だけなのだ。こんな屈辱的な願い事は、ブリュッセラーの中でも最高の技を持つお前たちオリアンティ一派以外には頼めぬこと。頼む、頼む、頼む、頼む! 早く、早く、早く、早く……。わたしのあれを、ジェニファを、わたしの許に連れ帰してはくれぬだろうか?」
わたしの底の見えぬ嘆き、海よりも深い喪失感は、確実にライホにも浸透していったようだ。わたしは細くて小柄な彼の身体が深い藍色のローブを揺らし、その波動を辺りに発散させてゆく有様を目撃する。悲しみは飛散し、形をなし、量子へと換わる。……と、そのまま辺りの空気の中に溶け込んで行く。わたしはその動きを目で追いながら、無数の神が刻印された石畳を、その先の街中に立つ焦茶色のアーチ・オブ・アモットを眺め、さらにその先のトットマン時計台、さらに遠くに顔を覗かせるゲルストナーの尖塔を眺める。 反対側は見たくもない。そこにスラム街区があるからだ。どうしても目を背けてしまう。向ける気になど、なれるはずがない。わたしには信じられない。いや、より正確にこの気持ちを伝えるならば、信じたくない。その区にいるジェニファなど、まるでわたしの望みではないからだ。この世に存在する卿の称号を有する誰が、それを望むというのか? もちろんスラム街区内は地獄ではない。言葉の正確な意味での悪魔も堕天使も棲んでいない。いるのは――少なくとも姿形は我我と同じ――人間だ。が、それこそが却ってわたしの悲しみを増長させる残酷な事実! まさか、そんなことが起ころうとは? いったいどんな辱めを、あれは受けているのであろう? わたしには思い浮かべられぬ。想像すら、することができぬ。わずかでさえも、そのようなことを……。が、しかし……。わたしの想いは何時しか、わたしの中で無限循環する螺旋カノンを奏ではじめていたようだ。ふと吾を取り戻すとライホのこんな言葉が耳の中で形作られる。
「悲しみ、さらに加えまして喪失の、なんと怖ろしいことでございましょう。切ないことでございましょう。バイロットさま。あなたさまの、そのお気持ちをお察しいたします。わたくしどもにわずかでも、そのお気持ちを跳ね返すことができますならば、どれだけ嬉しゅうことでございましょうか? ……ですが、バイロットさま。全力は尽くしておるのでございます。今この瞬間にも探索は実行されておるのです。わたくしどもの力量は、バイロットさまも、もちろんご理解されていることと存じます。古都アンタイルにはスラムと呼ばれる街区が少なく見積もって三ヶ所ございます。その一つであるこの地、退廃と麻薬の巣窟であるコッツェン街区を突き止めましたのは、あなたさまからご連絡をいただき、わずか四時間後のことでございます。加えて申し述べさせていただければ、このような迅速さは、おそらく他流派のブリュッセラーたちにはございますまい。これは本当のことにございます。ああ、ああ、しかしご無論、バイロットさまは、そのような事実は当然ご存知でございましょう。それゆえ数あるブリュッセラーの中から、いの一番に、他ならぬわたくしどもオリアンティ協会にご一報戴けたのでございますから……。そのようなご信頼を戴いておるわたくしどもでございます。全力を尽くさぬはずがございましょうか? こうして、お召し物、ジェニファさまをご心配なさっているあなたさまとお話をさせていただいている間にも、わたくしめの右脳には共鳴波がいくつも届いておるのです。ジェニファさまの囚われておられるご番地、ご丁目の特定は進んでいるのでございます。ですがバイロットさま。コッツェン街区は大層広い地域でございます。まったくもって狭くはございません。事実、アンタイルの他のスラム街区と比較いたしましても最大です。隣接する新興都市のマレリーや、アンタイル同様旧市街が数多く残されてはおりますものの工業地帯でもあるカザンや、現代建築における外国人功労者の名を冠せられた元アングリア市であったところのヤマナカ市等に在するすべてのスラム街と比べましても格段に大きな街区でございます。それが事実であると申せざるを得ないのでございます。ですが、バイロットさま。いくら広い地域と申しましても、古都アンタイルそのものと比べれば、二十分の一にございます。高々、その程度の広さしかございません。元より残念なことに現在のところ非常に手間取っておりますが、もうじきに、さよう、あと数時間か、長くとも、遅くとも一日後には、ジェニファさまの居所が掴めるのではないかと愚考いたします」
ライホの最後の言葉に先程向かう矛先を失い一旦収まったはずのわたしの怒りが胸中で再び爆発する。
「なんと申した、ライホよ! まだ数時間も、その果てには、この先まだ一日もの長きにわたり、わたしにこの辛苦を強要せよ、と申すのか! わたしの胸は既に張り裂けている。張り裂けた隙間より、どくどくと血が流れ出ている。流れ出た血は、まるで暴かれた墓場の土のように数多の愚者の塊よりも救いなくどす黒く変色している。その痛みを、ライホよ、お前は感じることができぬのか? 優れたブリュッセラーには他人の感情を理解する能力が欠けていると申すのか? それこそがブリュッセラーが技を獲得するための代償だとでも申し開くか? 現実はただあるがままに暗く淀み、月のない真夜中の湖面のように何物でもない虚無の神の如く反射し続ける。ゆえに、わたしはあれにジェニファ(JENNiFER)の名を与えたのだ。あれはわたしの孤高を、求めた最麗の思想を、言葉ではない言葉、揺れ動き響き合う直接的な情動、幼き頃の愛に溢れ何不自由なく満ち足りて過ごした日々に方向付けられた郷愁を、ささやかながらも正当化するために編まれたものなのだ。浮かんでは沈む疲弊した現実世界の中に死にゆく存在は棲まねばならぬ。好むと好まざるとにかかわらず起居しなければならぬ。そこに慰めを求めて何が悪い! しかもその慰めはわたしばかりでなく、あれが、ジェニファが、社交界に認められた暁には、選ばれた尊き人々の大半さえもが共有することができる性質を備えたはずのものだったのだ。 それが、どうだ! 誰があれを盗んだのかわたしは知らぬ。心当たりもない。況してや何を狙って起こされた行為なのか見当もつかぬ。スラム街区に住まう哀れな者どもに知り合いはない。いるはずもない。唯一繋がりがあるとすれば、それはお前たちブリュッセラー一派、そしてライホ、お前自身であろう! お前たちは上流階級のみならず、下級市民、さらにはまったき下賎な者どもとも、技者としての必要から付き合いがあると風の便りに聞いておる。そのような広い見識を持つお前らが何故、このわたしの奈落を覗くよりも凄まじく胸に巣喰った喪失を感じることができぬのだ! せめて理性で想像することくらいできぬのか?」
わたしがそこまで詰め寄ったときのことだ。わたしの怒りの表情を変わらぬ悲しげな眼差しで覗き返していたライホの眼がコリウスの花の色にも似た紫色に煌く。
ついで――
「わかりましたぞ、バイロットさま!」
遂にライホが、威厳はあるが勝ち誇った様子などまったくない堂々とした声音でそう告げる。
「突き止めましたぞ、ジェニファさまの居所を! わたくしどもの仲間が、もうその家に踏み込んでおります。右脳に次々と情報が送られてまいります。映像もたったいま共鳴いたしました。ジェニファさまはご無事でございます。まったくご無事でございます。そのお姿にも、まったく変わったところはございません。いかなる欠損も、お見受けできません。それに、ああ、お疲れのご様子もございません」
「おお、おお、おお……」
わたしには、ただそれだけしか口にすることができない。
「無事であったのか! おお、それは良かった。何よりのことだ。でかしたぞ、ライホ! おお、何よりの朗報だ!」
「けれどもバイロット様。犯人どもはアジトにはおりませんでした。蛻の殻にございました。何らかの商談をまとめに外へ出て行ったのか、あるいはわたくしどもの動きを事前に察知し卑怯にも逃げ去ったか、それすら未だわかりかねます」
「いや、いや、いや、でかしたぞ、ライホよ! よくやった。さすがにアンタイルで最も優れたブリュッセラー協会の長だ、頭目だ! いや、いや、いや、今、それは良い。狼藉者は放っておけ。逃走するがままにさせておけ! 放っておいても、やがて彼奴らの居所は知れるであろう。このアンタイルの官憲を甘く見てはいかんぞ。その能力を侮ってはならぬ。うーむ、彼奴らが取り押さえられた暁には地獄を覗く刑を与えてやる。死ぬまでに一月以上の苦しみを、この悪行に関わった全員の者たちに味合わせてやろう!」
「もう数ブロック先のところまでジェニファさまをお連れ致しました。わたくしどもがご用意いたしました質素で清潔な衣装箱の中に丁寧に折り入れられ、ただ今、ご輸送されているところでございます。もう間もなくのことでございます。バイロットさま。もう間もなく、あなたさまの目前にジェニファさまがお姿を現しますでしょう。まったくもって、もうすぐそこまでいらっしゃっておられるのです。……ですが、バイロットさま。しかし……」
ライホのその先の言葉をわたしの耳は聞いていない。何故なら、小柄なブリュッセラー頭目がたった今描写した通りの質素な衣装箱が遂にわたしの許まで運ばれて来たからだ。 わたしの眼から嬉し涙が溢れ出はじめる。見栄も外聞もない。地位も名誉もない。わたしはただ嬉しさのあまり涙を流し、嗚咽する。やがて衣装箱がわたしの手許に差し出される。ケースを受け取るや否や、わたしがその蓋を開く。
するとそこには――
ジェニファがいる。変わり果てたわたしのジェニファが……。身に纏わなくとも、わたしにはそれがはっきりとわかる。たとえどんなにその音量が小さくとも聞き違えることなどありえようか? 確かに彼女の外観に変化はない。編み目も同じならば、旋律自体変わりもない。が、あろうことか、まさかの事態が生じている。夢にも見ぬことが起こっている。ああ、彼女の指揮者はもうわたしではないのだ! 瞬時彼女の旋律を耳にし、わたしはすぐさま、それを悟る。わたしはジェニファに対する特権的な地位を剥奪されたのだ。信じられぬことに、何処の誰とも知れぬ、更には顔も姿形もわからぬ何者かに……。 かつてわたしの所有物であった、おお、愛しきジェニファが、今ではわたしではない、考えるだにおぞましい身も知らぬ誰かに向け、恋の音色をその全身から放射させていたのだから……。
JENNiFA:Justfy Echoing Nonexistant Nostalgia in Floating Exhausted Reality !
木霊する非在の郷愁を浮遊する疲弊現実内に正当化せよ!
JENNIfA:Jade Emanates Naked New Itself for Ecstatic Rake.
翡翠(別意:あばずれ女)は有頂天の放蕩者に剥き出しの新たな自己を放射する。
(了)
[ジェニファ]梗概
その世界で名高い音楽パトロンであるバイロット卿が自身で世界を巡り、素材として最適な基本周波数、含有周波数、音量、周期性、音源の方向などを収集し、的確なリズム、格好のメロディー、表現としての和音、厳粛な数理美を放つハーモニー、それらを複数の作曲家たちを用いて構築させ、さらに、やはり世界中から厳選した幾人もの最高の奏者に最麗の楽器を与えて奏でさせ、刈り入れ、編み込み、それを纏えるまでして大切に育て挙げた音楽召し物『ジェニファ』。その彼女が何者かにさらわれる。悲嘆に暮れるバイロット卿は、散逸構造的ゆらぎの増大を利用した一種の魔法技を用いる一連の散逸技術士の中から頭目ライホ率いるオリアンティ一派を呼び寄せ、その奪回を命じる。軒並みならぬ能力を駆使し早速ジェニファ捜索を開始するライホ一派だが、なかなか行方を突き止められない。ライホがバイロット卿に説明するに、それはジェニファがスラム街に連れ去られたからだという。
が、そこに朗報! ついにジェニファの居所を突き止めたとライホが告げる。が、姿変わらずバイロット卿の元に帰還したジェニファの瞳は既にバイロット卿を見つめてはいない。バイロット卿のジェニファは顔も姿形もわからぬ何者かに恋してしまったのだから……。
JENNIfA:Jade Emanates Naked New Itself for Ecstatic Rake
翡翠(別意:あばずれ女)は有頂天の放蕩者に剥き出しの新たな自己を放射する
(了)