親愛なるR・Cへ
一九八五年八月二〇日、イタリア・フェルミ研究所の宇宙観測レーダーが、先進波(時間を未来から過去に伝播する電磁波のこと)らしきものの存在をキャッチした。研究所関係者はいまのところコメントを避けているが、一部学者筋によると、その発見は現在の宇宙論に大きな変革をもたらすという。もっとも、そのニュースを伝え聞いた大半の学識者は、おそらくそれは誤報であろうと……
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親愛なるR・Cへ。
きみはいつだって常識家で質実剛健な性格だったから、これからぼくの話すことを気狂いじみていると批判するかもしれないな。でもまあ、そんなに長くは続けないつもりだから、じっと腰を落ち着けて聞いて欲しいと思う。石の上に座って辛抱するのはきみの大得意だったじゃないか。これは嫌味じゃないよ。ぼくは昔から本当にきみのそういうところに憧れていたんだ。人から嫌なことをいわれてもそれにじっと耐える。しかもそんなときでもきみの顔には笑みが絶えなくて、苦々しい心の内などおくびにも外に出したことがない。内容もないくせに向こうっ気ばかりが強いぼくとは、まるで正反対の性格なんだ。そしてそんなきみの長所を、見る人は昔からちゃんと見ていたというわけだね。T(もう五年も会ってないな)が、ぼくよりきみを選んだのも、たぶんそれが最大の決め手となったんじゃ、……いやいや人の、きみの奥さんについて話すのはよそう。はなから彼女はぼくなんか相手にしてはいなかったのだから…… 本当だよ。こちら側のTは、たぶんぼくが鈍感で気がつかなかっただけで、初めからきみに惚れていたんだと思う。いや、これは決して負け惜しみなんかじゃないんだ。未練でもない。少なくともこちら側のTについては……
前置きが長くなってしまった。もう時間もあまりないし、そろそろ本論に入ろうかと思う。
ジョージ・ガモフが火の玉宇宙論を唱えたのは一九四〇年代のことだった。
ほら、もうきみは心でいやな顔をしたんじゃないかい? きみは高校生のころからぼくにはあけすけだったからな。生物学者のぼくがなんで宇宙論の話をするのか、腑に落ちないんだろう。でもまあ、もうしばらく黙って聞いていておくれよ。
ガモフの唱えたビッグバン宇宙開闢論は、ハッブルの赤方偏移と(後になって存在が確認された)宇宙に一様の三Kの背景輻射を説明できることが有力な武器となって、当時隆盛を極めていたボンディ、ゴールド、ホイルらの定常宇宙論をじわじわと片隅に追いやっていった。一九六五年、ベル研究所のウィルソンたちが行った例の電波(背景輻射)の観測で、その優劣はほとんど決定的になったんだ。
ビッグバン宇宙論という宇宙の進化論が、ぼくたちにひとつはっきりと認識させた物理学上のイメージは、時間の矢という概念だった。数多くの物理方程式に対称的に表れる時間に方向性がついたというわけだね。時間は宇宙時ゼロという途方もない大昔から始まって、未来永劫に流れ続ける。まるで一本の矢のようにだ。
さて、ビッグバン宇宙論の発展によって瀕死の重傷を負った定常宇宙論だったが、それでも手を変え品を変え、それらは今日まで連綿と生き延びている。振動宇宙論という考え方を知っているだろう。もしぼくたちの宇宙が有限、つまり閉じた宇宙であったとすれば、宇宙は初め膨張し、やがて無限大の大きさに達すると、今度は逆に収縮を始めるというあの考え方だ。宇宙の隠れた質量、例えばニュートリノや暗黒物質が、その収縮可能性の鍵になっているという。
普通、人々はこの振動宇宙理論をビッグバン宇宙論のヴァリエーションのひとつと見なしているかもしれないが、実はそれは間違いなんだ。宇宙の構造・進化は長い時間、広い空間に渡っての平均で見れば不変であるというのが定常宇宙論の主張なのだから、振動宇宙という考えは、血統からいって正しく定常宇宙論に属するんだよ。でもゴールドの考えた振動宇宙は、まだ理想的すぎる。つまり彼によると、この宇宙は半分の映画フィルムの喩えで足りるんだ。物質がぎゅっと詰まった時間ゼロから始まって、物質濃度がもっとも希薄になったところで終わる映画フィルムさ。あとはそれを逆まわしにすれば、一サイクルの宇宙は完了する。でも、これではあんまり救いがなさすぎる。これでは、ぼくは賭けに出られない。
おっと、エントロピーの話をするのを忘れていた。
エントロピーというのは、きみも知ってのとおり、物事の乱雑さの度合いのことだが、これはなにか特別の働きかけがない限り、時間に伴って止むことなく増大する。何者にも阻止することのできない厳然たる事実なんだ。熱力学の第二法則。もちろん、これはぼくたち生物にも適応される。しかもそれは外面的な運動のみならず、ぼくたちの内面、つまり意識にさえ適応されるんだ。
例えば脳のどんな生化学反応がぼくたちの意識と対応しているのか、それはいまもって大きな謎だが、その生化学反応だって細胞レベル、分子・原子レベルで見れば、もちろんエントロピーの法則に従っているだろう。とすればだよ、その集積体としての意識の感じる時間はエントロピー増大の方向と一致するじゃないか!(ここでは一応きみの専門のゲシュタルト認識だとか、ホログラフィーパラダイムだとかは無視することにしよう)。ゴールドの振動宇宙では、だから収縮期には意識も逆転する。ぼくたちは宇宙のどちら側にいようとも、時間が正の方向に流れる宇宙、すなわち膨張宇宙しか感じることができないんだ!。
でもまだ駄目さ。
さっきも指摘したように、ゴールドの振動宇宙は、半分の映画フィルムなんだ。鏡の向こうにいるのは、同じ自分さ。
ここでスティーブン・ホーキングが救いの手を差し伸べてくれる。そう、あの有名な車椅子に乗った天才物理学者のことだ。ぼくは彼と、一九八四年に他界したポール・ディラックが、個人的には二十世紀最大の物理学者だと思っているよ。そのホーキング教授が、量子物理の立場から、先のゴールドの理論を更新したんだ。
ゆらぎって言葉は、もちろん知っているよな。通りのいい名前では、不確定性関係ともいえる。この関係によると、例えばまったく同じ状態から宇宙が出発したとして、かつ終状態まで同じものだと仮定しても、その経過中の状態は、必ずしも同じものである必要がないんだ。どんな変更も可能なんだよ! これは前の映画フィルムの比喩でいえば、フィルムの前半分と後半分はほとんど同じなのだが、完全に一致してはいないということに当たる。わかるかい? 宇宙劇場にかける映画フィルムは、丸々一本いるのさ。
ぼくはそこに賭けたんだ!
いつだったか、同じ大学の宇宙論者と歓談をしていたとき、ぼくは突然、宇宙の構造が生物細胞に似ているなと感じたことがある。光の速さや、たった四つの次元で間仕切りされた巨大な細胞。もっとも、そのときのそれは単なる思いつきにすぎなかったが、その日遅く家に帰ったぼくの前にその証拠の方が現われたんだ!
ブラックホールとホワイトホールを出入り口とする時空のトンネルをワームホールというだろう。つまり時空の虫喰い穴のことだ。あいつがやってきたとき、ぼくはそれを思いだして、思わず声を立てて笑ってしまったよ。そう、あいつらは虫なんだ。ホーキング・ゴールドの振動宇宙で、その膨張期と収縮期を喰い繋いで穴をあける。そのことをぼくは、ついこの間全世界を大騒ぎさせた先進波観測のニュースと結びつけて悟ったのさ。
うん、もちろんきみのいいたいことは良くわかる。向う側の宇宙に地球が存在するかどうか、無論まったくわからないよ。ましてや、そこに彼女がいる確率なんて正直なところ無限大分の一かもしれないものな。でも、ぼくはその勝つあてのない賭けに乗ることを、もう決めてしまったんだ。だから、行かせておくれ!
あいつが呼んでいる。もちろん気のせいには違いないが、「大丈夫。なんとかなるって」、そんなふうにあいつがぼくを励ましてくれているように聞こえるんだ。
じゃあな!
愚かなるロマンチストのM・Fより
二伸(後に発見された磁気録音より)
準古典近似(時空を古典的に保ったままで、物質の相対論的量子効果を考察するモデル)で生じるミンコフスキー時空の生成・消滅は、もしかするとあいつが本当に起こしているのかもしれないな。というより、あいつが時空の生成・消滅演算子そのものなのだというべきか……
(現代は「無限大分の一」。訳者)