表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/26

右から上へ、左から下へ

右から上へ、左から下へ


 キッド・ケーディック

 早水紀葎音 訳


     1


 研究所に入ると、右氏ミスター・ライトが右側からやってきた。

 いつものように飄々とした態度で顎髭を軽く触ると、しかめている方が凛々しい表情で、右側からチラリとわたしを見た。右上に撒き上がったカイゼル髭が、妙な好印象を与える。近世日本の知識階級――ソウセキ・ナツメ――に似ていなくもない形の髭だ。右目はわずかに右側により、左目(と言うのにかなりの困難を感じた!)もわずかに右側に寄っていた。粋な右色のネクタイをきりりと締め、シックな背広を権利を主張するかのように着こなしている。整然として調子の良い健康体の体躯が、本物の正義かつ保守的態度をくまなく表している。

「ご機嫌麗しゅう」

 と、わたしの右脇を通り抜けるとき、彼がわたしに声をかけた。まっすぐで上機嫌な声だった。軽く右氏に会釈すると、わたしは答えた。

「はい。右さまもお元気そうでなによりです」

 すると右氏も道理に乗っ取ったさわやかな笑みをわたしに返した。

 しばしの沈黙。

 しばらく経ってから、

「それでは」

 と、左にしか曲がれないはずの通路をどういう風にしてか右側に曲がって、右氏はわたしの視界から外れていった。

(ふうっ)

 わたしはため息を吐いた。

 現象そのものには慣れているとは言え、やはり肩が凝るのは隠せない。心なしか右肩がこったような気がしたが、それは考えすぎというものだろう。

 とにかく慣れるのは難しい。

 以前、出現したことがある歩く哲学や、歩く歴史にも閉口したものだが、歩く――というか生きている――純粋抽象概念には、やはり面食らってしまう。しかも、それがいつ止むのか見当もつかない状況にあっては……


     2


 計算機ディスプレイや各種計測機器が所狭しと置かれた『実体数学研究室』に入ると、上氏ミスター・アップが天井から顔を覗かせていた。

 時代をさかのぼった、やけに古風な出で立ちをしている。上氏は、話しはじめると際限なく大声を張り上げる。だから、わたしは彼に話しかけたりはしなかった。上氏の方も、なんとなく注目されるくらいで満足のようだ。とにかく目立つ存在ではあった。心なしか、段々大きくなっているような気がしたが、気のせいに違いない。その場で、最後に彼を見たとき、上氏は万歳をしていた。そしてその行為をやり尽くすと、上氏はすっと気配を消した。

「つまりですねエ」

 耳を研究室中央に向けると、同僚研究者が新米の研究者に議論をふっかけられていた。

「彼らの各部分についてはそれなりの形容を考えることができるのに、全体として彼らを思い浮かべるときどうしても。それ――彼らの表現する抽象概念――以外を思い描くことができないんですよ」

 それに答える古参の実体数学者の返答は、

「そりゃ、ま、そうだろう。……彼らが〈それそのもの〉なんだからな。ははは」

 と、素気ない。

「右氏だったら〈右〉だし、下氏だったら〈下〉だろう。もっとも左博士ドクター・レフトが相手だったら、ぶざまに過激な発言を誘発されることもありますけどね。はははは……ゲホッ」

 古参の研究者がそこで噎せ、飲んでいたお茶を口から吐き出しながら、目を白黒させた。

 さて、そろそろ頃合いだろうと見計らって、

「諸君、おはよう」

 と、わたしは彼らに声をかけた。

 ひと言、余計なことを言ってみたくなる。

「……きみたちも議論に飽きないね。ヒダリウチワの貴族みたいだ」

 すると――

「まあ、いらっしゃたんですか? ……おはようございます」

 赤嬢ミス・レッドが、血色の良い顔を見せて、わたしに挨拶した。

 健康的な赤銅色は北極焼けらしい。おてんばな大英帝国のお嬢さんである。どこが気に入ったのか、わたしにしつこく付きまとう。もっとも、そんな場合は服か帽子にでも『UCE』と書けば小さくなるし、また『ACT』と綴れば、わたしの口述から草稿を作ってくれるので、実は結構重宝していた(訳註 REDUCE および REDACT は、それぞれ〈縮小する〉〈草稿を作る〉の意)。


     3


 どんな物事でも、それが起こってしまうまで、ある種の不可解さがつきまとう。

 アインシュタインがE=mc^2(筆者註 2は上付き。^記号で代用した。以下、同じ)を導きだすまで、質量とエネルギーが遊離していたわけではもちろんないし、同じ一石氏が相対性理論を発表するまで、光は際限無いスピードで宇宙を駆け巡っていたわけでもない。自然に関するすべての秘密は隠されていただけで、存在していなかったわけではないのである。空想譚ならともかく、理論に合わせて宇宙の実相がおいそれと簡単に変化するはずがない。

〈純粋概念抽象体の実体化現象〉

 言葉で表現すればあまりにも明白なこの事象が勃発するまで、そのことを疑うものはひとりもいなかった。文字通り闊歩する抽象概念が目の前を当たり前に通り過ぎる世の中になる以前には……

 ことの発端は、いつものように戦争だった。二〇世紀初頭の量子力学以来抽象化に走っていた物理数学が、それを後押しした。これも、現れるまで誰も信じていなかった宇宙人が地球に攻めてきて、核兵器を含めた通常兵器がことごとく打ち破られたとき、学会から追放された異端科学者が、人里離れた洋館で、可愛い孫娘に与えた理論モデルが世界を救った、と書けば、正確さが損なわれる。事実、オルドリッジ博士の可愛い孫娘は通常の美的感覚に照らせば美人ではなく、しかも孫娘でさえなかったのだが、博士のロリータ趣味には、ここでは触れない。

 宇宙の究極構造を司るものは粒子ではなく線である、という理論が、一九六〇年代に流行ったことがある。けれども、さまざまな数学的困難を抱えたまま、その理論は崩壊した。一言でいえば、その理論を隙間なく埋めるためには〈次元〉が足りなかったのである。通常観測されている空間の三方向(前後、左右、上下)に加えて時間の全四次元では、その線(弦)の理論は虫喰い穴だらけになってしまったのだ。まっすぐ歩いているつもりが、いつのまにか後ろに向かっており、右に曲がったあと前に進み、その後、まわれ右して、前に進んでから左に曲がっても、元の位置に帰って来ることができなかった。それだけならまだしも、進んでいるつもりが、突如として巨大化して、そのまま帰ってこれなくなることもままあった。曰く、発散である。

 それはともかく、かのロリコン趣味のオルドリッジ博士と性的関係にあった孫ほどにも歳の離れた若い娘には、数学的才能があった。博士は、彼女が幼少の頃から、その事実に気づいており、さまざまな数学モデルをソフトとして彼女に与えた。彼女の数学能力はそのエクスタシーと一体化しており、感能のさなか、彼女はベッドを抜け出すとパーソナル・コンピューターに向かって、博士のくれたソフトの間違いを指摘した。

 それが後の遮蔽網バリア理論の礎となった。

 空間を曲げるにせよ、反転するにせよ、攻撃兵器は時空という媒体にのってやってくる。では、その時空そのものをバラバラにしてやったら、どうなるだろう?

 先に崩壊した線(弦)の理論は四次元時空では成立しなかったが、なんと六六二次元という架空の次元をつけ加えてやることによって、見事に理論的破綻が消えた。通常の人間なら、それをまやかしと呼ぶかもしれない。だが、かのオルドリッジ博士の可愛い愛人は、

『それこそ認識不足よ!』

 と博士に叫んだ。

『重要なのは、数学的〈美〉の方なのよ!』

 それは、かつて量子力学の創始に、プランクのhで名高いプランクが一学生の指摘によって、自分の見出した放射の不連続方程式の一部の項から1を引き、それが(そのときには理由は定かでなかったのだが……)等比数列の公式と同じになることを発見した事例とそっくり同じ〈きれいでなければ理論ではない〉認識の再現であった。

 かくして認識されていない事実を、現実の観測に優先させたところ、時空の皮を剥くことに成功した。

 すなわち、いままで隠れていた六六二次元を地球のまわりに噴出させたのである。面食らったのは、わざわざ遠い銀河の中心から太陽系片田舎の地球にまで攻撃にやってきた宇宙人の方で、自分たちのミサイルはおろか、宇宙船の進行方向さえ、計算することができなくなってしまったのである。

 いったいどう表現すれば、彼ら凶悪宇宙人の混乱を説明することができるだろう?

 たとえば、私たちは地球の重力のもと、上下、左右に移動することができる。その道が突如六六二方向になってしまった、と考えてみればいいかもしれない。上1、上2、右3、左4、右5、下6……、右1、左2、下3、上4、下5……などなど。それは迷宮なんてものではない。ごく少なく見積もっても、迷宮の二乗か三乗に値する。しかも、それぞれ独立した方向の中には、指数的もしくは対数的に変化する方向さえ存在したのだ!

 今日は一枚のコイン、明日は二枚のコイン、明後日は四枚、そして一六、二五六、六五五三六、四二九四九六七二九六…… 二乗づつ繰り返していっても、そんな巨大な数になるのである。ましてやそれが……

 そして階乗もあった!

 たとえば、よく知られたところでは、六九の階乗、すなわち六九×六八×六七×六六×六五×……三×二×一は一.七一一二二四五二四×10^98 にもなる。つまりおおよそ、一七0000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000というわけだ!

 隠れた時空――オルドリッジ博士のロリータは、それを〈折り紙構造〉と命名した――を利用した遮蔽網の効果によって、凶悪宇宙人を撃退することはできた。

 だが――

 解放された六六二次元の中には、とんでもないものまで含まれていたのであった!


    4


「最初にやってきたのが、確か〈悪魔〉だったな……」

 と、古参の実体数学者が新米数学者に解説した。

「すなわち総次元数六六六も、まるっきり意味がなかったわけじゃないってことだ」

 いって、彼は高らかに声を立てて笑った。

「そして、次には抽象概念の宝庫たる〈神〉がやってきたんでしたね」

 新米研究者が答えた。

「すなわち〈神〉こそ人間の姿を象って造られた存在だったからです」

「続いて、感覚、思考、愛憎、悲喜、音楽、美術がやってきた。……〈折り紙構造〉の重ね合わせの原理=山折り谷折りの原理に要請されて」

 古参の研究者が顎をしゃくる。

「共通の了解、すなわち常識、すなわちコモンセンス、すなわちセンス・オブ・コスモスってわけだね」

「別方向の〈時間〉がやって来たときには、びっくりしましたね」

「思考の連続曲面が、数学的には六六六次元に含まれていたとは気づかなかったよ」

「〈宗教虫〉が現れたときには、環境が破壊されました」

「まったくだ。……あいつらときたら何でもかんでも喰いやがる。増殖しか能のないセックスの塊だ! ……ま、それはともかく」

 と、古参の研究者が身を乗りだし、

「きみも、ここ〈王立抽象科学研究所〉に配属になったからには、何か新しい理論を持ってきたのだろう。この無軌道ともいえる抽象の噴出を食い止める理論をな」

 すると、それに答えて、

「ええ!」

 と、新米の実体数学者は答えた。

「思考の中に畳み込まれた抽象概念が、それが所属していた時空の解放によって実体化したわけですから、彼らを再び抽象の檻に封じ込めるには、彼ら全部をすべてにわたって記述できる言語を開発すればよいはずです。そうすれば、彼らを自由に制御することができます。……つまり〈バベルの言語〉を、この世に甦させれば」

「ほお。……だが、それは至難の技だな。それに」

 と、彼は、それまで黙って二人の会話を聞くともなく聞いていたわたしを見やり、

「そこにいる彼が、以前、その方向で研究していたんだよ。……もっとも思わぬ痛手を負うことになってしまったがな」

 彼が、

『なっ、そうだったな』

 と、わたしに水を向けるものだから、

「その通り」

 と、しかたなくわたしは答えた。

 ちょっと粋に襟を正して、

「すなわち〈不完全性定理〉の応用だったのだが……」

 ずずいずいとお茶を啜り、

「六六六次元のさらに上をいく大きな数で収束する理論から導いた言語体系で言葉を網上げてみたのさ。……だが、結果的には」

「結果的には?」

 と、新米研究者が身を乗りだして尋ねてくる。

「どうなったんですか?」

 くりくりとしたその目が、興味津々さを発散している。

「言葉が勝手に世界を織り上げはじめちまったんだよ。自分自身のためにね。われわれとは別の世界を……。だから、念のためにその言葉の中に組み込んでおいた自己消去プログラムを発動させて、あわてて消去したのだが……」

「言葉が自分自身のために世界を、ですって? そんなことが……」

「起ったんだよ。われわれのものとは違う過去でね。……だからきみは、その研究のことを知らなかった。違うかね?」

 わたしが尋ねると、新米研究者は胡散臭げな表情でわたしを睨んで、

「まさか! ご冗談でしょう」

 と疑うものだから、

「いやいや、これは冗談なんかではないのだ!」

 相手に真実を伝える口調で、わたしは答えた。

「タブーのない世の中を造るのだ、といって四文字言葉だらけの世界を造りかけていたんだ。まるで、あの、あ、いやいや……」

 ふっと遠くを見やり、

「いまも、どこかにその世界があるのだろう。わたしが消去プログラムを発動しなかった世界のことだ」

「〈多次元宇宙論〉ですか? それも、隠れた次元から誘発されるものではなく、まったく別の」

「その通り」

 と、わたしは答えた。

「宇宙なんてものは、質量と電磁波つまりプラスのエネルギーと、重力すなわちマイナスのエネルギーを積算すればゼロになるんだ。はじめがゼロなら、それがどれだけ数多くあったところで許容される」

 と、そのとき、研究室に激しい振動が起った。すさまじい揺れだった。まるで、そう、空間の全方向が地震波を伝えたような巨大なゆらぎであった!

「ちっ!」

 と、しばらくしてから、わたしは舌打ちした。

 服の埃を払って身なりを整えてから、「どうやら今度の方法も失敗してしまったようだな」

 赤嬢も含めて、その場にいた三人に振り返って、説明した。

「実はね、実験をしていたんだよ。ちょっと思いついたことがあってね。……われわれの頭の中にあった抽象が隠れた次元をパレットとして存在できたのだとしたら、それをわれわれの次元に固定してしまえば、必要がなくなった隠れた次元が消えてしまうのではないかと考えていたのさ」

「で、その結果が、いまの振動だったのですか?」

 机の影から、おっかなびっくり顔を覗かせると、新米研究者がわたしに尋ねた。

「おい、そうなのか? きみ」

 古参の研究者も、とっさに隠れたロッカーから出てくると、問いかけた。

「どうなんです?」

「どうなんだ?」

 そこで――

「つまり、それはちょっとした間違いだったんですな」

 と、落ち着き払ってわたしは答えた。

「彼らをわれわれの四次元に固定化するという発想まではよかったんです。……ですが」

「ですが?」

「ですが?」

 わたしは答えた。

「その反動を忘れていたのですよ。……つまり急速に残りの次元の圧迫がなくなったものだから、それまでその圧力に圧されて沈んでいたわれわれの世界が、表面を越えて浮かび昇ってしまったのですな。ちょうど、水の中の空気の泡がすっと上に上がってその表面を越えるときに破裂してしまうように……」

  Up for Right, Down to Left (1962:ANTI-TRADITION)

 

〔訳者あとがき〕

 無名SF作家、キッド・ケーディックの本邦初訳である。彼と似たような名前は聞いたことがあっても、彼の名前を知っているものは少ない。だが、それも当然といえる。ケーディックは、〈ほとんど〉アマチュアのSF作家だったからだ。生まれは一九三〇年で、死後十年経過しているところも、P・K・ディックと国事している。活動していたのも、ディックとほぼ同年代。おそらくケーディックはディックのファンだったのだろう。その名前が本名なのか、ペンネームなのか知らないが、英語には珍しい回文名前(Kcid K-dick と綴る)からすれば、本名とは思われない(蛇足だが、K・W・ジーターの「ドクター・アダー」にも、ディックをモデルにしたキッドというキャラクターが出てくる)

 初出は「アンチ・トラディション」というファンジンで、一九六二年五月の発行。編集者のリック・ピータースンの詳細は不明。ケーディックの作品を教えてくれた文通者とは、ディック関連の情報誌で知り会った。彼がファンジンのコレクターでもあったことから、この翻訳作業がはじまった。

 正直に感想を述べれば、現代宇宙論最先端の〈超ひも理論〉を先取りしたアイデアはすばらしいが、展開がお粗末である。ケーディックがプロになれなかったのも無理はない(短篇集が一冊出ているらしいが、未確認)。けれども、惜しい作家だったこともやぶさかではない。なんとか頑張って、生きているうちにぼくたちの目に触れて欲しかった異色作家である。

 と、ここまでの文を書いたのが書いたのが一九九一年のこと、SF創作誌〈セカンテラ〉追悼号に掲載された。その後、ひょんな偶然からケーディックの習作が二編、訳者の許に届けられた。先の「アンチ・トラディション」が崩壊して、出るあてのなくなった原稿を、当時編集を補佐していたアブネル・トンプソンが保管していたのだ。それが巡り巡って、ある古書を探していた訳者の許に届けられた。もっとも内容は、前作に増して酷い! まあ、アイデアそのものは買えなくないこともないのだが……


アイデアまでがなんて遠い! またはブラックホールと平行宇宙に関する一考察


「地球の質量を6×10^27gとすると、うん、だいたいセンチメートルのオーダーになるな」

『なにが?』

「地球のシュバルツシルド半径(物体がブラックホールになる半径のこと)がさ。疑うんなら、rg=2GM/c^2 に代入して、自分で計算してみるといい。G(重力定数)は6.7×10^-8(cm/g・sec)、c(光速)は秒速三〇万キロメートルだぜ」

『それが、どうしたんだって?』

「質量が十億トン、そうだな、その辺の山程度だったとすると、半径はだいたい10^-13 センチになる。こいつは、原子を構成している原子核の大きさの目安でもある」

『それで?』

「このあいだ、荷電真空の話をしなかったっけ。……憶えてない?」

『例のディラックの〈相対論的〉電子の運動方程式に端を発しているあれだろ』

「そうそう、そのあれ。あれが常識的には何もないからっぽの空間と考えられていた真空の概念をガラリと塗りかえたんだ。……復習してみなさいよ」

『えーと、たしか量子場の理論だったよな。真空の新しい定義は、エヘン、エネルギーから直接粒子と反粒子(相手の粒子と正反対の電(色、弱)荷を持つ粒子のこと)を対創成する場、とかいうんだよな。真空の〈ゆらぎ〉のために、まったく自発的に粒子(と半粒子)が創成される。ハイゼンベルグの――』

「ドイツ人物理学者!」

『ドイツ人物理学者ハイゼンベルグの不確定性関係(註1)によって、時間とエネルギーの値はある不確定の関係にあって』

「充分に時間が短ければ、いくらでもエネルギーの大きな、つまり質量の大きな(E=mc^2 によってね)」

『粒子を創り出すことができる』

「うん、だいたい良いみたいだな。合格点を上げよう。……つまり非常に短い時間ならば、エネルギー保存則が破れても良いという、お上からのお達しなわけだ。もっとも、そのごくごく短時間ということのために、これらの粒子は直接観測にかかることがないので、通常の実在粒子と区別されて〈仮想粒子〉という名が冠せられているけれども…… 現れるとほとんど同時に消滅してしまうわけだからね」

『で、それがどうしたって?』

「ここで、さっきの微小ブラックホールのお出ましとなる。……つまり粒子が休むことなく対創成している真空中に、その大きさのブラックホールがあったとしてみなよ。ブラックホールのすぐ近くで粒子が対創成して、その対創成の前に、もし片一方の粒子がブラックホールに飲み込まれたとしたら? 残りの粒子は、ホラ、いやでも実在しちまうことになるだろう。相方が消えちまうんだからね。こいつは、見方をかえればブラックホールが粒子を放出しているってこと、すなわち熱輻射しているってことになるんだな。これの普通の熱輻射との違いは、物体から放出されるのが電磁波(光量子)ではなく、他種の粒子ということだけだ。で、実際にその温度を計算すると、10^-13 センチでは、絶対温度で千二百億度くらいになるな。これはエネルギー換算だと約六百万キロワットになって、大型原子力発電所六基の出力になるって、きみの前いた方の世界で一九七四年にホーキング(註2)が計算しているはずだよ。逆にいえば、太陽くらいの大きさのブラックホール(~2×10^33g)は非常に冷たい、千万分の一度くらいってことになる」

『それで?』

「ウン、熱いお湯はじき冷めるだろう。孤立系のエントロピーが増大するようにね。それと同じで、真空中に置かれたブラックホールはどんどん熱を発生して、すなわち熱くなっていって、と同時に表面積(エントロピーと逆比例する)を小さくしていって、最後には、ジュッ、蒸発してしまうんだ。そして、その蒸発の際発生するエネルギーは、一メガトンの水爆一千万個にも匹敵する。さて……」

『おいおい、まだ続くのかい? そろそろ位相がずれてきたよ』

「あきめなさい、終わるまで」

『……んなこといったって!』

「さて、自然界というものは実に対称的に創造されている。まあ実際には、もともと対称的だったものが、その自発的な対称性の破れ(註3)のために、さまざまな有り様で存在してこの世界に至った、というのが正しいいい方なんだろうがね。……さて、自然には大きくいって三つの場(粒子)によって構成されている。ひとつは力の場で、重力、電磁力、強い力、弱い力の四種があって、それらのあいだの関係はゲージ原理(註4)(局所位相ゲージ変換に対する普遍性)によって統一されている」

『例の電子のばねモデルのことだろ。電子を波動と考えてその一部をよじっても、時空の方がそれに合わせてよじれてくれるので結局、ばねはよじれなかったことになる(註5)。ある一点でそれを見たときにはね。つまり物理法則はその手の変換に対しては不変であるっていうやつだね』

「そう、そのやつさ。よく憶えてたな。……で、二つ目が物質場というやつで、これには先のゲージ原理のような支配的な原理はない。少なくとも、現在のところはね。三つ目がヒッグス場(註6)という耳慣れないやつで、こいつは真空の相を、つまり自然を多種多様にした、もともとの対称性の破れ方を決める場なんだ」

『うーむ、話が見えない』

「そうかな」

『ああ、困ったことに、まったくね!』

「そうか、じゃあ先を急ぐとしよう。……力の場、物質の場の粒子はそれぞれ、ボソン(註7)、フェルミオン(註8)と呼ばれている。その名はそれぞれの従う統計的性質に由来しているのだけど、まあそれは良しとしよう。自然はもともとは対称的であったということを何度か強調してきたのだけれども、それがより大きな対称性、つまりボソンとフェルミオンの入れ換えに対しても成立して欲しい、物理法則が不変であって欲しいと願うのは、やっぱり人情だろうな。そして、その要請から作られたのが超対称性の理論で、これはすこしきつい条件を付けると一般相対整理論を含む多次元時空の理論になるんだ」

『4+n次元空間のことかな?』

「少し違うんだけど、まあ、いいか! ……だが当然のように、以前の世界で観測されたのは、その複数次元のうち四つだけだった。で、これを説明するのに自発的コンパクト化(註9)というアイデアを使ったんだ。つまり残りの次元は非常に小さな閉じたプランク長さ(註10)程度の空間にストンと収まってしまったものと考えた。これは、原理的には丸い食卓に座っている人の左右に対称的に置かれた手拭き(ナプキン)の取り方と同じで、もしはじめに誰かが右手側の手拭きを取ったとすれば、残りの人も自分の右手側の手拭きを取らざる得なくなる(註11)というのと同じなんだ。そうしないと混乱が起こるからな」

『ふうん、それで?』

「ところが、時空というやつをそのプランク長さの精度で眺めてやると、これが、さっきいった真空中の粒子よろしくブラックホールが休むことなく生成・消滅を繰り返している泡みたいに見えるんだ(註12)。そして完全な真空中のブラックホールとは、実はワームホールを表していて――」

『ユーリカ! わかった! そいつが次元を解放したっていいたいんだな。で、その起爆エネルギーがブラックホールの蒸発だって!』

「大当たり! ……と、痛えな。人の身体のなか踏まないでくれよ。内臓がよじれちまう!」

『あ、ごめん。こっちの次元確率が広がっちゃって、じつはぼくがいまどこにいるのか、さっぱりわからないんだ!』

 お後がよろしいようで……


1 W.K.Heisenberg's uncertainty principle (relation) or indeterminancy principle (relation) T=(h/2π)c^3/8πκ GM) ~ 10^27(g/M) h/2π=1.05×10^-27(erg・sec) κ(ボルツマン定数)=1.38×10^-16(erg/K)

2 S.W.Hawking

3 spontaneous breakdown of symmmetry

4 gauge principle

5 という要請を物理方程式に課すことになるので、ゲージ原理と呼ばれる。

6 Higgs field

7 boson

8 felmion

9 spontaneous compactification

10 Plank length: lp=√(h/2π)G/c^3=1.6×10^-33(cm)

11 A.Salamによる「対称性の自発的破れ」に対する比喩

12 space-time farm 時空の泡 J.Wheeler,S.W.Hawkingが提唱


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ