彼女は黒い天使様
生まれてこの方8年。ずっとずっとこの景色を見て来たんだ。この味気ない空間の中で、母が買ってくれる本が世界を広げてくれた。
春も、夏も、秋も、冬も……すべてこの窓枠からしか伺えない。僕は昔から体が弱く、ずっと病院にいた。発作が起きれば苦しいし、泣くたくもなる。
本の世界はこんなにも色鮮やかなのに、僕の世界は狭いまま。母は年々弱っていく僕を見て肩を震わせ夜な夜な泣いている。僕は何の為に生まれ、何の為に生きているのだろう。僕を生んでくれた母に、何も返せない。
僕の細い腕にはいつも点滴。最近じゃ足に刺す事もあり、そっちは痛いから苦手だった。でも、少しでも生きて。という母の言葉にいつも僕は生かされている。
でも、年々、年々……僕の命が少なくなっている事に気付いた。自分の事は良く分かっている。最近血を吐く頻度も多いし、気を失っている事なんていつもの事だ。
ああ、あの枯れ木の葉っぱが落ちたら僕の命はないのでしょう。……そういう小説も読んだ事あるな。死ぬ事が怖いって言うのは分かる。この今の考えだって、もう出来なくなるって事なんだろう。
ただ、それは人間だから……生きているモノには絶対に訪れるモノだから。そう割り切らないとやっていけない。
僕の死を受け入れられないのは母の方だと思う。泣いて泣いて、いつも悲しそうにしてる。僕が発作を起こして気を失った後、目が覚めたら何時も震えた手で僕の手を握っている。
優しい母だった。僕が死ねば解放されるのだろうか。それとも、悲しみで壊れてしまうのだろうか。母が苦しむ姿を見たくない。
ふと、真夜中に目が覚めた。真夏の夜でも、病院は適温に保たれている。そうじゃないと、体力のない者達はあの世へ誘われる。それはもう、簡単に、かんたんに。たぶん、僕も、そう。
いつの間にか、酸素マスクをつけられていた。寝ている間に発作でも起こったのか。もう、いつの発作で死ぬか分からない。死がいつも僕の隣にいて、闇が近づいてくる。
母が涙を滲ませてベッドの傍で寝ていた。これは日常茶飯事。母は前より痩せたと思う。僕のせいで、苦労させているんだと思う。楽にさせたいとは思うのに、僕が目を覚ますと笑って喜ぶから。まだあっちに行けない。
カチリ。
そこに、少女がいた。黒い髪、黒いスーツ、黒い瞳の真っ黒な少女。歳は、僕と同じくらいに見える。黒い服とは対照的な白い肌。冷え切った、何も映していない黒い瞳。その少女は、銀色の懐中時計を持っていた。
先程のカチリという音は、懐中時計を閉じた音なのだろう。
リィン。
軽い鈴の音が鳴った。そうすると、小さな手帳が現れた。
驚いた。マジックを生で見られるなんて。テレビで何回か見た事ある。何もない所からハトが出てきたり、手からお金が消えたり。こんな小さいのに、立派なマジシャンだ。羨ましい。
僕も、生まれて来たなら、もっと色んな事がしたかったのに。
「―――予定通り進行中」
無機質な声が病室に響き、手帳を片手でパタンと閉じる。声に感情が篭っておらず、まるで機械が喋っているようだ……と思った。
先程と同じ鈴の音が鳴り、手帳が消える。
そこで、ようやく少女と目が合った。少女は驚いたように目を見開く。
「―――っと。そう、か。こいつが黄泉前の、運命論者の話のヤツか。ふぅん」
少女は僕に近づき、しげしげと眺めてくる。そこに先程までの無機質さはなく、興味津々で僕を見つめてくる姿は年相応に幼く見える。綺麗な顔が僕に近づいて、ドキドキしてしまう。母以外で僕に近づいてくる人なんて、看護師のおばちゃんと、先生くらいだ。こんな、同い年の女の子に近づかれた事なんてなかったから、緊張する。
つんつん。
「へぇ!触れるんだ!へぇ……」
僕の腕を触って、はしゃいでいる。何がそんなに楽しいのだろう。でも、こんなに楽しそうにしている少女を見て悪い気はしない。僕を見つめてくる目は、いつも痛ましげで、可哀相な子を見る目だから。遠くで、僕を眺めるだけの、知らない人達。上から目線の同情。別に、最近は気にならなくなったよ。
本当に全く気にならないと言えばウソだけど、僕が悲しめば母は泣くから。
2年前に言った言葉は今でも頭に染み込んでる。
『どうして僕を産んだりしたの!!』
僕の声量じゃ大した声は出ていない。隣の部屋の人間が聞き取れない程度の小さな声だ。でも、母にとってその言葉は最大で。母の罪悪感がモロに伝わって来た。「ごめんね、ごめんね」と繰り返す母の
小さな肩をみて、そこで僕はやっと言ってはいけない言葉だったのだと理解した。誰よりも僕を想ってくれている人に、とんでもない事を言った。
「あー、自己紹介がまだだったね。私はセリナ。ピカピカ死神新入生」
ニコーっと笑う姿は、とても可愛かったが、零れた言葉はとんでもなかった。こういうの、知ってる。ちゅうにびょうって奴だな。まだ中学2年生にもなってないけど、立派にちゅうにびょうだ。アニメの中の人に憧れる年頃なのだろう。よくある、よくある。
「ありり?なに?その可哀相な子を見る目は……さ・て・は!信じてないヤツかー!やだなぁ、もー!死神なんてあんたと隣り合わせみたいなもんなのに、どうして信じないかなー!?」
……成程確かに。僕はあちら側に片足突っ込んでいる。いつ死んでも可笑しくないけど、なるべくならもっと生きたいと願っていた。
そっか、僕、死ぬのか……それは納得だけど。でも、こんなに明るいのが死神だなんて信じたくないかな。
さっきまでは確かに死神っぽかっくてかっこよかったけど。
「むむ、見てなさい。我が扇!」
違う。発音が違う。奥義ね。扇じゃ仰ぐだけだから。
「扇」を発動させた少女。
先程の銀時計が今度は大きな鎌へと変わる。成程確かに。これは死神っぽい。ふふん、と自慢げに胸を逸らす少女。
ヒュンと手馴れた動きでそれを扱う。そして、母の首にピタリと止めた。その行動にひやりと冷や汗が流れた。だが、少女の行動を止める術など僕にはない。声もロクに出せないまま、少女の動きを見ている事しか出来ない。
少女は母へと大きく振りかぶり、そのまま母の首へと―――斬り込んだ。
「―――っ!?」
何をするんだ!と、叫びたかったが、蚊がなく様な音しか出なかった。身動きも、全然できなかった。
母へと振り下ろされた鎌は、スルリと通り抜け、血も何も出ないままだった。通り抜けた。まるで魔法みたいだと思った。
母は何も気づかずにすやすやと寝息を立てている。
「管理以外だとちゃーんと通り抜けるよーふふん、どう?」
少女は驚いた僕など目もくれず、自慢げに胸を逸らしている。
僕の反応が全くない事に気付いたのか、不満そうに唇を尖らせる。
「むーん。無反応なんて悔しいなー」
いや、驚いてるよ。未だかつてない位驚いている。死神っていうのも信じる位には。
「ああ……テンション上がっちゃったけど、死にかけだったね」
納得したように何度も頷く。そして、明るさが鳴りを潜める。先程と同じように、何も映さない冷たい瞳。
ゾクリと震えた。これが僕の命を取っていく人。いや、人ではないのか。死神セリナ。とても幼く、綺麗な少女。
「―、――い?」
「ん?なになに?」
僕の掠れた声が聞き取れなかったのか、またこちらに近づいてくる。また瞳に光が戻っている事から、この少女はおしゃべりが好きなのだろうと推測する。
僕は命を削りながら同じ言葉を吐き出した。
「い、たい?」
「……多少」
「そか」
やっぱ、そうだよね。あんなでかい鎌で斬れるんだもんなぁ。うん、ちゃんと覚悟決めたよ。僕の反応を見て、セリナが慌てる。
「や、多少より、もっと痛いと思う。かな?怖がらせたくなくてちょっと過小評価しちゃったけど。前の人なんて凄い大きい声出して痛がってたんだよ。別に怖がらせたかったんじゃなくて、嘘つきたくなかっただけなんだけど。ああでもでも!これ言わない方が怖くなくて済むのにぃ!」
全部声に出てた。何かに葛藤するように悶えている。
その姿が何だか可愛くて、こんな可愛い子を死ぬ前に見れて本当に良かったなって思った。痛い思いなんて、いつもしてるし、どうってことない。大声だって、もう出ないし。今更逃げようにも、足が動かないし。それに、死神はどこにでも追いかけてきそうだし、どうしようもない。
「……笑えるんだね」
少女が、驚いたように僕を見つめてくる。僕は今笑っていた?……でも、そうかも。こんなに楽しい事ってなかったし。今世界は確実に変わった。味気ない白い箱の世界にポツリと黒い影が落ちた。でも、その黒い死神は底抜けに明るくて、正直者で、ちょっぴり間抜けさん。
凄いな、死ぬ前にこんなに楽しい気分になれるなんて。死神って、今までの自分の気持ちさえ殺してくれるんだ。それって、まるで天使みたいだな、って思う。
それから、何日かは死ななかった。ドンドンと衰弱していったけど、不思議と苦しくなかった。毎日彼女は来てくれて、死神の事や、死後の世界、そしてこの世界の理を語って聞かせてくれた。全部知らない事ばっかりで、僕はいつも楽しく聞いた。
僕が楽しそうに笑っているのを母が見て、母も微笑んだ。死神のセリナが見える訳でもない。セリナの言葉が聞ける訳でもない。でも、僕の笑顔で母は笑った。
いつも悲しそうに謝ってくる母が、父の事を話すようになった。母の話が出てくると、セリナは決まって病室から出て行く。気を利かせてくれたんだと思う。
母は、幸せそうに笑って僕に話を聞かせてくれる。僕は笑って母の話を聞く……優しくて、幸せな時間だった。
そんな幸福の時間も長くは続かない。
少女は難しい顔で、懐中時計を睨みつけ、僕に告げた。
「そろそろ時間だよ」
と。まるで忌々しい仇でも睨みつけるように懐中時計を見つめているセリナ。死神の彼女は何を思い、何を見つめ、どうやって生きていくのだろう。色んな他の死神の話は聞かせて貰えたけど、彼女自身の事は何も教えて貰えなかった。
彼女の事、もっと知りたかったかもしれない。これは、所謂恋って奴なんだろうか。良く分からないけど、苦しそうに顔を歪めて鎌を握る彼女が、とても微笑ましく映る。胸の奥がじんわりあったかくて、居心地がいい。
ピピピピピッ!
心拍数が乱れて電子音が鳴り響く。その音で母がナースコール何度も押して、僕に縋ってくる。息が苦しい。ああ、もうすぐ死ぬんだな。でもこれだけは言っておかないと、死んだ後に後悔するから。
「母さん、産んでくれて有難う。僕は幸せだったよ」
霞む目でとらえたのは、驚いて目を見開く母。
その後ろで振り下ろされる鎌。
そして、涙を流す小さな死神の少女。
ねぇ、泣かないで。
僕は幸せなんだよ。
これ以上ないくらいだよ。
---有難う。黒い天使様。
僕はそっと瞼を閉じて、笑った―――。