月の章
月は古来より神秘的な意味合いを持つ。ギリシャ神話の月の女神はセレネ。セレネは3つの名を持ち、3つの顔を持っていた。月が満ちてかける様に、今日はどの顔で見ているのであろうか?
第一夜
ひとつじゃない
本当の心そんなものいらない
君がいるこの時間が私の全て
二つの心は君の証明
I hug it forever, and do not grieve
Idelete a past, and believe in now
ステージを終えても、エリカは水を飲まない。
熱しきった体が、冷めていくのが嫌だった。
ソファに座った途端に汗が噴出していった。
「今日のステージどうだった?」
噴出す汗が心地よくて、ステージ終わりのエリカはいつも笑顔だった。
「うん。良かったよ。」
そう言うと、タオルをエリカに渡した。
「お腹空いたでしょ?大好きなサラダ用意してあるよ。」
リュックから出された弁当箱には、色鮮やかなサラダがあった。
「わあ、美味しそうだね。ありがとう。」
エリカは汗を拭くのも忘れ、サラダを口に運んだ。
「今日は特別仕様よ。唐辛子入りドレッシングにキノコのサラダ。」
余程お腹空いていたのか、一心不乱に食べていた。
「おいしい。唐辛子が効いているね。」
そう言いながら、辛い物好きのエリカは、フォークを止めずに食べている。
エリカをじっと見つめた。そして、汗まみれの背中を拭いてあげた。
「汗拭かなきゃね。汗を…」
ステージ終わりの控え室。エリカはマネージャーすら近づけない。
二人だけ…そう誰も近づけない。
月は古来幾つもの顔を持つものの例えに使われる。
月の女神は幾つも顔を持ち、幾つも名前を持っていた。
…私達にはお似合いね…その氷の微笑みに気づかないエリカはサラダを食べ終え、
空腹をその月が満たしていった。
「今日のことは内緒よ。マネージャーうるさいから。」
空腹を満たしたエリカは満面の笑みを浮かべた。
身体は唐辛子効果も加わり、熱く赤みを帯びていた。
汗はいつも以上に噴出し、滴り落ちていた。
…さようなら、理佳…
幸太郎はソワソワしていた。
所轄から、異例の大抜擢。警視庁捜査一課初出勤の日である。
世間を騒がせた連続幼児誘拐事件の解決は、イケメン刑事をマスコミはヒーローに仕立て上げた。不祥事続きの警視庁上層部は、彼を起用することでイメージ向上を目指したのだ。
もちろん幸太郎の活躍無しには解決出来なかった事件ではあるが、その活躍は偶然の産物であった。
「押忍。河辺幸太郎巡査部長頑張ります。」
警視庁を見上げ、気合を入れた。
「おはよう。気合十分ね。」
急の声に振り返ると温かな微笑みが彼を見ていた。
「おっおはようございます。河辺幸太郎巡査部長です。今日から捜査一課配属となりましたっ。」
あまりの大声に周囲のざわめきを誘った。しかし、微笑みの主は動じずにいた。
「知っているわよ。犯人投げ飛ばして、全治3ヶ月の重傷にしたヒーロー君。」
そう連続幼児誘拐事件の犯人、野添修治は今まだ警察病院のベッドの上である。
「いや、あれは不可抗力と言うか…勢いあまってと言うか…」
しどろもどろに答える幸太郎の口を遮って。
「ここは庁舎内ではないのよ。相手が誰か分からず何でも答えるべきではないわ。気をつけなさい。」
ふと微笑みは消え、目の前を通り過ぎた。
「知っています。広瀬恵理警部。」
幸太郎のその声に、恵理は驚いて立ち止まった。
「アメリカハーバード大学で犯罪心理学を学び、帰国後キャリア合格、警視庁に、その後再度渡米し二年間FBIで研修、プロファイリングを習得し帰国、犯罪心理捜査官として捜査一課に配属…」
「もういいわ。随分詳しいのね。」
幸太郎の声を遮る様に恵理が言った。
「お互いの事知っている様だから、コンビ組むのは問題ないようね。」
恵理はそう言うと、足早に庁内へ入っていった。
「コンビ?へっ僕と?」
突然の返答に呆然と立ち尽くす幸太郎だった。
「四月八日朝、東新宿署管内で男性の刺殺体が発見された。東新宿署に特別捜査本部を設置することになった。広瀬警部と河辺巡査部長は捜査本部に合流するように。」
小島管理官の声が室内に響いた。警視庁捜査一課管理官小島高志警視正。出世コースから外れ、捜査一課管理官に着任して3ヶ月、河辺を転属させたのも起死回生を狙った判断であった。
キャリア組の小島にとって事件解決など二の次、まず自分の出世の道を切り開くことが最重要課題である。マスコミに注目される幸太郎を手の内に入れることも、女性犯罪心理捜査官の広瀬を使うことも出世の為であった。
「押忍、行って参ります。」
幸太郎が気合十分に言うと
「その『押忍』はやめてくれない?」
と呆れ顔で恵理が言った。
それを見ていた小島が二人の所へ来て、
「コンビは違う感性があってこそ成り立つ、いいコンビの誕生だな。」
と笑いながら言った。
恵理はこの小島の笑いを見るといつも吐き気がするのだった。
四月八日午前十時。新宿区新宿2丁目のスナック「シャングリラ」で男性の刺殺体が発見された。
スナックにおしぼり回収に来た業者が、ソファに横たわる男性の刺殺体を発見。
男性は室井茂晴三十五歳この店の店長であった。鑑識によると死亡推定時刻は四月八日午前二時から四時の間、背後から刃物で刺された事による出血死であった。傷は五ヶ所心臓まで到達する深さの傷もあった。凶器は発見されなかった。
店は所謂男性相手の店で、半年前に開店し、室井には『彼氏』がいたことがわかっている。その『彼氏』は宮川栄治三十五歳で、中野にある美容院に勤める美容師であった。
宮川はその日の朝から行方不明になっている。
「ということです。なんか広瀬警部の出る幕無さそうですね。」
そう言うと幸太郎は手帳を閉じた。
「宮川が犯人とでも言いたいの?情報が足りないわね。」
幸太郎の閉じた手帳を指差し、そして付け加えた。
「犯行現場からは室井と違うB型の血液が発見されている。それも大量にね。宮川の血液型はB型。失踪している宮川の血液型と見るのが妥当ね。」
「宮川が室井と争って出来た傷による出血じゃないですか?」
幸太郎のその言葉に恵理が呆れ顔で
「背後から五ヶ所も刺されている人物が、相手にそんな出血させる傷を負わせることが出来て?逆も同じ、そんな出血している人物が五ヶ所も相手を刺して、逃げる事出来るかしら?」
その言葉に幸太郎は、尊敬の眼差しで恵理を見つめた。
そんな幸太郎に対して恵理が怒った声で言った。
「で、なんで私が運転しているの?」
「あっ気づきました?運転苦手なんです。」
幸太郎は手帳を上着のポケットに入れながら、首を窄めた。
「よっヒーローの御到着だね。」
秋月が幸太郎の肩を叩いた。
「あっ秋月先輩。お久しぶりです。」
幸太郎は敬礼しながら言った。
秋月は幸太郎の世田谷署時代の先輩であった。
「こちらは本庁の広瀬警部です。」
幸太郎が恵理を紹介した。それを聞いて秋月も敬礼しながら、
「東新宿署捜査一課の秋月浩二です。宜しく御願い致します。」
恵理は温かな笑顔で敬礼を返すと
「警視庁捜査一課の広瀬恵理です。こちらこそ宜しく御願い致します。」
そう言って捜査本部のある室内に入っていった。
「えらい美人だな。あれが有名なプロファイラーか?」
秋月は敬礼したまま、恵理の後姿を見ていた。
「そうなんですよ。天は二物を与えるんですね。」
「でも、アメリカ帰りって高飛車な女なんじゃないの?」
と幸太郎のほうに向きかえり秋月は言った。
「それが案外可愛らしい感じですよ。特にあの笑顔が堪らない。」
そのにやけた幸太郎の頭を叩いて
「そんな顔していると見透かされるぞ。」と秋月は言って室内に入った。
幸太郎も顔を擦り、にやけをとってから後に続いた。
室内では十名程の捜査員が待機していた。捜査本部と言っても犠牲者一人の殺人事件としては初動ではこの程度である。
そこへ東新宿署捜査一課長を引き連れた小島が現れた。
「なんで管理官まで来るんですか?」
幸太郎はびっくりして小声で言った。
「マスコミが飛びつきそうな事件には必ず首突っ込むのよ。それにこの事件には『爆弾』があるからね。」
恵理が思わせぶりにそう答えた。
確かに今朝からワイドショーはこのニュースを取り上げていた。
マスコミが取り上げる事件は所轄主導であってもこの様に、所轄の捜査一課長を引き連れて入場するのが、小島の常であった。
どっかのドラマでみた様な管理官入場シーンに呆れ顔の恵理に対して、
「爆弾?何ですか?」
「さあ、捜査会議始まるわよ。」
幸太郎の問いを遮って恵理が言った。
「あっ、よし、頑張るぞ。」
と気合を出す幸太郎であった。
東新宿署の捜査一課長から紹介された小島はすくっと立ち上がり。
「この小島が乗り出すからには事件の解決は時間の問題だ。」
と笑いながら言い放った。
その声を聞いて吐きそうになる恵理であった。
恵理は犯行現場のスナックで目を瞑っていた。恵理がプロファイリングをする時はいつもそうであった。資料の内容はすでに頭に入っている。犯行現場の光景とその匂いを感じながら、犯人を思い描くのだった。
「犯人は男性ですね。結構大柄な奴でしょうね。」
幸太郎はスナックのカウンター席に座って言った。しかし、恵理は全く反応しなかった。
「ここから傷ついた宮川を運んだとすればかなりの力ですね。目撃者はなし。いくら深夜でもこの辺は人がいなくなることはないですからね。隠して運んだとすれば車ですかね?」
幸太郎の声は全く恵理には届いていなかった。
「でも、なんで宮川だけ運んだんだ?」
秋月が幸太郎に言った。秋月がこの二人の案内役を買って出たのはもちろん、恵理目当てだった。
「室井は背後から殺せたけど、宮川とはそうはいかなかったとか、宮川の体に証拠が残るのを恐れて運んだんじゃないかな?」
幸太郎は秋月相手に身振りを示して言った。
「おっさすがは期待のホープだね。でも、それほどの争いしていたら近くの店で気づくんじゃない?」
秋月の言う通り、このスナックは雑居ビルの一階で、一階にはこの店の他に三店舗あり、犯行時間にはまだ人がいたのだ。もちろん誰も悲鳴や物音に気づいた者はいない。ビルの目の前にはホストクラブもあり、犯行時間はまだ営業していた。
「二人を物音立てずに誰にも気づかせないで殺すなんてできるのかな?ゲイでも男は男だぜ。」
秋月の言う通り、全く目撃者なしというところが捜査を行き詰らせていた。
犯行時間、その他の三店舗のうち、一店舗では三人の客と二人の店員。一店舗では一人の客と一人の店員。一店舗では店員二人のみ。九人このフロアにいたことになる。しかし、誰一人争う音は聞いていない。
「最後に帰った客は一時頃ですよね。」
幸太郎は手帳を開いて聞いた。
「ああ、その時には宮川はまだ店にいなかったそうだよ。」
秋月がそう答えると幸太郎は手帳を閉じて思いついた。
「その最後の客が嘘言っているんじゃないですか?宮川はもうその時店にいて、隙をついて室井を刺し、宮川も手にかけた。そして、宮川とともに店から消えた。」
秋月は呆れ顔で幸太郎を見て、
「よく本庁上がれたもんだな。マル秘資料見てないのか。最後の客は本庁の捜査二課長だよ。」
秋月の言葉に、恵理が言った『爆弾』の意味を理解し、言葉を失くした。
そう最後の客は警視庁捜査二課長の宗田純一朗警視正であった。
スナック「シャングリラ」の店員吉村純の証言で判明したことで、この事実は公表されていない。吉村と宗田二人でこの店を出たということだった。宗田は小島の後輩で、本来出世コースの捜査二課長を小島が就任する筈であったが、ある警察官僚ОBの政治家の怒りを買った為、宗田が就任したのだ。
呆然とする幸太郎を我に帰したのは恵理の一言であった。
「帰るわよ。」
ただ一言を残し、店から出る恵理の横顔はまるで別人の様に冷たいものだった。我に帰った幸太郎と秋月は恵理の後を追った。
本部に戻る車中、一切恵理は言葉を発しなかった。幸太郎の問いにも答えず、ただ冷たい表情のままであった。運転する秋月はその恵理の姿を見て、不思議な感覚にとらわれていた。
…彼女は何をあそこで見たんだろう…
本部では恵理の報告を小島が待っていた。
待っていた小島に恵理がプロファイリングの結果を伝えた。
「犯人は三十代女性…」
その恵理の言葉に本部内はざわめいた。女性の犯行というプロファイリングを誰も想像していなかった。
第二夜
「女性は持ち物から喜多見理佳三十五歳と思われます。発見されたのは午前十一時チェックアウトの時間を過ぎたのに電話に出ないのを不審に思ったホテルの従業員が入室し、発見。発見時室内にはこの女性しかいなかったとのことです。」
滝田は手帳を広げ、眠そうに話を聞く上司の花井に続けて報告した。
「チェックインしたのは昨夜十二時二十分。特に異常はなかったそうです。死因は不明。外傷は見当たらないとのことです。」
「随分暑いなこの部屋。この季節に随分寒がりだな。」
花井は死体の足を触り、続けてつぶやいた。
「こんなに濡れてこれは汗か?ダイエットでもしていたのか。」
「発見時室内には暖房が入っていたそうです。」
滝田は再び手帳に目を落としそう付け加えた。
「連れの男は誰も見ていないのか?」
「はい。チェックインしたのは女性のほうだったようです。」
花井の問いにすばやく滝田は答えた。
「女がチェックイン?なんでわかったんだ?」
花井がそう聞くと傍で立っていた女性が割って入った。
「手しか見てないけどあれは女の手だよ。鍵を渡した時見えたんだ。あと『ありがとう』って声も聞こえた。女の声だったよ。」
「あっ、第一発見者の従業員です。昨夜も鍵を渡したのは彼女だそうです。」
怪訝そうに女性の顔を見る花井に滝田が言った。
「あっそう。じゃ来た時は元気だったわけだ。解剖の結果を待つか。」
花井はそう言って暑い部屋から出ようとすると鑑識のざわつきに足を止めた。
「なんだ?なんかあったのか?」
花井の問いに鑑識の一人が口を開いた。
「エリカです。この女性歌手のエリカですよ。」
あまり芸能界に興味の無い花井ですら名前を知っていた。
「エリカってあのエリカか?」
「僕CD持っています。」
くだらない滝田の報告はもう、耳に入っていなかった。
「面倒なことになりそうだ。」
定年間際の花井はベッドで横たわる女性の横顔を見つめた。
「犯人は三十代女性…」
その第一声に本部内はざわめいた。
ゲイのスナックで男性二名が殺されたと思われる事件の加害者が女性とは誰も思っていなかった。その被害者が一名行方不明となれば、幸太郎が思った様に力強い男性像が浮かぶのが普通であろう。
恵理はそのざわめきをよそに続けた。
「高学歴で知識の高い人物だと思われます。社会でもそれなりの地位を獲得している人物で、独身であるものと思われます。」
「何故そんなプロファイリングがでてくる。」
小島は恵理の言葉に重ねて言った。
秘かに宗田犯行説浮上を望んでいた小島にとって納得できるものではなかった。
「もちろんこのプロファイリングは仮定の話です。被害者の刺し傷は背中に五ヶ所。ただしどの刺し傷も心臓を貫くまでには至っておりません。近くから刺したものでなければ、さすがに被害者も犯人側を振り向くでしょうが、前からの傷はありません。ということはかなり近くから連続して刺したと思われます。近くから刺した場合、被害者の体型からすると心臓を貫いてしまうでしょうが、傷は貫いておりません。」
「非力な女性の犯行だと?」
小島の問いに恵理は話を続けた。
「はい。仮定ですが。被害者が悲鳴を上げていないところからすると、第一の傷は左胸郭上口に突き刺さる傷だと思われます。この傷によって被害者は声も出せなくなった。普通は心臓を目指して刺すものでしょうが、的確にそこを刺しているのは、密かに犯行を行う為だと思われます。その為、ある程度高度の知識がある人物と推定できます。」
本部内の誰もが声を出さなくなっていた。
「鑑識からも第一の傷は胸郭上口の傷との報告があります。」
秋月が援護射撃を出した。
恵理は温かな笑顔で秋月を見た。秋月も会釈を返した。
「現場に残された飲み物はシャトーベトリュス1986かなり高級なワインです。あの『シャングリラ』というスナックには不似合いな飲み物。犯人が持ち込んだものではないかと思われます。犯人と被害者は知り合いであったのでしょう。かなり礼儀正しい人物だったという室井が背中を向けるというのは目上の人物とは思えません。彼とそう変わりない年齢の人物だと思われます。あとの推理は統計学の様なものです。」
話終えるとそっと椅子に腰を下ろした。
意外なプロファイリングに捜査員誰もが声を出せずにいた。
小島も同じく、資料に目を落とし、じっと黙っていた。
「宮川はどうなったんです?」
幸太郎が沈黙を破った。小島はその声に目を上げ、そうだと言わんばかりに恵理を見つめた。
すくっと再び恵理は立ち上がると、
「宮川はこの現場で殺されてはいません。」
その返答に再び捜査員はざわめいた。
死亡に値する量の血液が現場にあったのだ。不思議に思うのは当たり前である。
小島も少々呆れ顔になって言った。
「じゃあ、あの血液は誰のものなんだ?」
その小島の問いに迷いなく恵理は答えた。
「宮川のものでしょう。しかし、現場には宮川はいなかった。現場には指紋がほとんど無かった。それまで営業していた店に指紋が無いとは思えません。犯人が消していったと思われます。指紋を消す作業は普通に掃除するより大変です。あの多量の血液がスナックの床を覆っている中で消したとは思えません。」
「確かに血液の跡は床全体にあったな。」
秋月はつぶやいた。
「どういうことなんだ?」
小島が痺れを切らし、声を上げた。
「犯人が血液を撒いたんです。床に。」
その言葉に誰しも言葉を失った。
「すみません。今全力で探しています。夕方のステージには間に合わせます。」
角谷は携帯にびっしり汗をつけて、謝っていた。
エリカがいなくなるのは珍しいことではない。地方のコンサートでは特に要注意していた。だが、今回は少々違っていた。コンサート会場からいなくなったのだ。
福岡コンサートは二回予定していた。北九州市と福岡市の二回。今日は福岡市でのコンサートの予定であった。移動時間を含めるともう時間がない。角谷は焦っていた。
昨夜から事務所のスタッフと一緒に探しているが、全く見つからない。コンサート会場からの足取りも掴めなかった。事務所の社長の怒りもピークに達していた。電話で30分も怒られていたのだから、たまったものじゃないだろう。
新興タレント事務所にとって、エリカの様なアーティストは命であった。傷つけることも、失うことも許されない。エリカを失えば、会社も終わりそんな存在なのだ。
「だから、専属の付き人付けろって言ったのに…十九、二十歳じゃないんだ。そんなずっと見ていられるかって。」
と頭を抱えた。その時コンサートスタッフが角谷のところに駆け込んできた。
「角谷さん、車で出て行ったそうですよ。ファンの子が見ていたそうです。」
「誰とだ?エリカは運転できない。誰が連れ出した。」
角谷の怒りもピークに達していた。一人で出て行ったのならまだしも、誰かが一緒というのはマスコミに嗅ぎつけられたらと思うと…
「車は黒のスポーツカーだそうです。」
「うーん。知らんな。誰だ?」
角谷にとって誰と出ようともう関係なかった。とにかく、福岡でのコンサートに間に合い、ばれなければそれで良かった。その時、角谷の携帯が再び鳴った。
「うわっ、また事務所だ。社長だろう。長くなるからとにかく探していろ。」
そうコンサートスタッフに告げると深呼吸してから、電話をとった。
電話は社長ではなかった。事務の女の子からであった。
安堵の次に角谷は、地獄に落ちる感覚を始めて味わった。
立っていられないという感覚を始めて感じたのだ。
部屋を出ようとしていたコンサートスタッフが角谷を支えたが、携帯を持っている力はもうなかった。携帯だけが床に落ち、携帯からは女性の声だけが聞こえていた。
「どうしたんです?角谷さん?」
スタッフの問いに角谷は一言呟いた。
「エリカが死んだ。」
西小倉署にはすでにエリカの遺体が着いていた。
「司法解剖の準備は出来ているな。」
花井は口に銜えた煙草に気づかず、もう一本の煙草を取り出そうとしていた。
「すぐ解剖に入るそうです。あっ煙草。」
滝田の声に花井は、取り出した煙草をもう一度箱に戻し、滝田を睨んだ。
「マスコミが来るぞ。入り口から入れさせるなよ。その事務所からはまだ、誰も来ないのか?」
花井は不機嫌に言った。
「マネージャーがもうすぐ来るそうです。」
「解剖終わるまではマスコミに何もしゃべらせるな。」
そう言うと煙草を灰皿に落とし、窓の外に目を移した。
窓の外では、今到着した角谷が他のマスコミに取り囲まれる瞬間であった。
「なんでこんなに情報漏れるの早いんだ。」
花井はまた不機嫌になった。
恵理の言葉に誰しもが言葉を失った。
「勿論、推測ではありますが、私が現場で感じた全てです。」
恵理のプロファイリングは今まで、99.9%の確立であった。
残り0.1%はただ、犯人の趣味を間違えた事。
ある通り魔事件で、競輪場近くで犯行が集中していることを見つけ、ギャンブル好きと判断したが、犯人はただ、自転車好きで競輪場に自転車を観に来ていただけだった。
それ以外は全て的中していた。勿論その他の事件は完璧なプロファイリングであった為、捜査はプロファイリングに基づき、行われるようになっていた。その為彼女は警視庁内でこのように呼ばれるようになっていた。
『サイコ・プロファイラー』
小島は彼女のプロファイリングを信じるしかなかった。
「よし、被害者周辺とまだ見つからない宮川周辺でプロファイリングの女性を探せ。」
小島の号令をもとに、捜査員は一斉に立ち上がった。
ただし、小島は内心では、何とか宗田に事件の疑いがかからないかと望んでいた。
その光景を隅で見つめる人間がいた。
首席監察官 安藤洋介警視監であった。
第三夜
恵理が捜査現場に向かうのは最初の一、二回ぐらい。それ以外は捜査の進捗に合わせて、小島に助言するだけであった。それはプロファイリングの結果に自信があるからではあったが、現場に行き犯人の姿が自分の中に入ってくる、その感覚が嫌いだったからであった。勿論初めは彼女を現場に向かわせていた小島も、今は恵理のプロファイリングを信頼し、彼女のわがままを許していた。しかし、今回は恵理の中に何か引っかかるものがあった。彼女は珍しく幸太郎、秋月とともに、捜査に向かおうとしていた。
恵理と捜査を共にするのが初めての幸太郎と秋月にとっては、別に変わったことではなかったが、小島は恵理のその行動が不思議であった。
「車出してきますのでここで待っていてください。」
秋月はそう言うと、署の車庫に向かった。
「管理官から宮川を調べるように言われてますけど、まずどこからあたります?」
幸太郎は、本庁での本格的な捜査に若干緊張しているようであった。
「どこからがいいと思う?」
恵理が笑顔でそう聞くと
「やはり中野の宮川の美容院ですかね?」
自信なさそうに幸太郎は答えた。
「そうね。まずはそこからね。」
恵理は、スナック従業員、吉村純の尋問を本来したかったのだが、『爆弾』は小島が担当するようだった。
小島が宗田課長を追いやるネタを誰かに渡すわけもなく、また、まだ宗田課長犯行説を諦めていないのが恵理にもわかっていた。
宗田課長の犯行が立証されなくても、宗田課長の弱みをにぎれる切り札は小島の手にあった。
「私も捜査に同行させてもらえないかな?」
不意のその声に恵理と幸太郎が振り向くと、そこには安藤監察官の姿があった。
監察官が捜査に同行することはほとんどない。警察内部を調べる監察官が姿を見せることは、現場の捜査官にとって恐怖極まりないことであった。捜査に問題がある場合、捜査官の資質に問題がある場合、捜査官に不正が疑われる場合に現れる監察官は、現場に違う緊張感を与えるのだった。疑われるだけで出世に響き、捜査を外されたり、数日後急に異動を命ぜられることも珍しいことではなかった。まして、切れ者監察官、『鬼の安藤』と様々な異名のつく安藤首席監察官の登場は、捜査一課に転属初日の幸太郎には、魂を凍らせるに値するものであった。
「何か私のプロファイリングに不審でも?」
恵理は、幸太郎と相反して強気の姿勢で答えた。
「いや。知っての通りこの事件には、宗田警視正が関わっていると聞く、犯人でないのは広瀬警部のプロファイリングを信じるとしても、関わり方次第では、見過ごすわけにはいかないのですよ。」
幸太郎には、とても紳士的に答える安藤は不気味にさえ思えた。
「何故私達の捜査に同行を?」
ますます強気の恵理の言葉に幸太郎の魂の氷はますます硬くなり、二人の会話に入ることは出来なかった。
「心配することはないですよ。ただ、広瀬警部は現場に滅多にでないと聞いています。その君がプロファイリングを終えても捜査現場に出ようとするのだから、何か感じているのではないかなとそう思ったわけです。」
安藤の皮肉とも思えるその答えにさすがの恵理も、すぐに返答できなかった。
秋月の乗る覆面車が三人の前に入ってきた。
安藤の姿を見た秋月は、三人の目の前に車を着けるとすぐに車から降りてきた。
「お疲れ様です。東新宿署捜査課、秋月浩二警部補です。」
秋月のその敬礼は実に見事であった。その姿を見た幸太郎は、自分がまだ挨拶すらしていないことに気づいた。しかし、恵理はその間を与えてくれなかった。
「わかりました。捜査に出ていなかったのは事実です。そのことで処分されても仕方ないと思っています。」
開き直りとも思える恵理の返答を聞いて、会話の内容を知らない秋月は、敬礼したままの状態で固まってしまった。
「ははは。君は本当に興味深い方ですね。心配することではないですよ。トップの誰しもが君の功績を認め、期待していますよ。」
安藤は笑顔で答えた。警察組織のトップの位置にいる彼の言葉は、まさしく警察組織全体の言葉に等しかった。
「その広瀬警部の捜査の中で、私は真実を見極めたいと思っています。」
安藤は笑顔ではなく、真剣な表情で語った。さすが百戦錬磨の監察官である。その言葉は恵理の心にも響いた。
「わかりました。宜しく御願いします。」
恵理は静かに言うと、くるりと回り秋月に声をかけた。
「行きましょう。まずは中野ね。」
その言葉で魔法を解かれた秋月は、車のドアを開けた。
「皆さん。宜しく御願いします。安藤です。君は…」
安藤は凍ったままの幸太郎を見た。
「ああ、あの誘拐事件のヒーロー君だね。宜しく御願いしますね。緊張するのもわからなくもないが、挨拶は基本だよ。宜しくね。」
安藤はそう言うと、車に乗り込んだ。
その言葉に真っ赤になり、氷が解けた幸太郎は敬礼しながら、
「しっ失礼致しますた。かっ河辺、幸太郎じゅんしゃ部長でしゅ。あっいや。あの…」
幸太郎の出世はこれ以上ないだろう。氷は半解けのようであった。
そんな幸太郎を見てくすくす笑う恵理と秋月であった。
マスコミにモミクシャにされた角谷は、放心状態であった。事務所からの連絡では、社長も西小倉署からの連絡の後、倒れたということだった。
小倉に通る紫川の見える捜査課の応接室で一人、川の流れを見つめていた。
窓にはひらりと季節はずれの雪が舞いだしていた。この四月に雪が降る。それも北九州で、日本の四季もおかしくなっていた。今日から北陸、新潟地方では大雪になるらしい。「雪か。エリカが暖房かけてたのはこのせいか。」
エリカの発見状況は聞いていた。今年の芸能界最大のスキャンダルになることは確定であろう。しかし、角谷にはそんなことどうでもよかった。もう彼女の歌が聴けないそれがつらかった。角谷はエリカの近くの最大のファンだったのだ。
捜査課内のテレビの前では、二時のワイドショーが始まり、捜査課の捜査員達がそのワイドショーに映る自分の署の玄関前での中継に集中していた。花井は自分のデスクでボールペンの先を噛みながら、イライラしていた。鑑識からの解剖結果はまだでていない。その上、芸能レポーターが署の周りを埋め尽くしていた。以前マスコミに痛い思いをしたことのある花井にとって、マスコミは害虫そのものであった。
ワイドショーは勝手な理論で推理をめぐらせ、それを垂れ流しにする。観ている人はそれを真実と思い込む。今回も同様で、エリカは男女関係の縺れで殺害されたとか、仕事のことで悩んでいたとか、警察も知らない噂をあたかも真実のように報道していた。
花井はふと手を止め、テレビのほうを見た。そのわけのわからないテレビの流す噂の中に、気になるコメントを見つけたのだ。レポーターのコメントだった。
『黒いスポーツカーで、女性と会場を出て行くのをファンが見ていたようです。』
黒いスポーツカーは角谷から話を聞いていた。女性?ホテルで発見された状況から、誰しも同行者は男性と思い込んでいた。相手が女性だったとなると、チェックインをエリカがしたという目撃証言も、その真実が違ってくる可能性もある。
「滝田、このテレビ局に確認しろ。その目撃情報の信憑性調べろ。」
花井は、突然大きな声で指示をした。
滝田は遅い昼食のカップラーメンをその場に置き去りにして、駆け出して行った。
それからまもなく花井のもとに、解剖所見が届いた。その内容に花井は、驚きを隠せなかった。
司法解剖所見
死因 脱水症状悪化による急性心筋梗塞による心不全。
心陰影の拡大、肺のうっ血像、胸水の貯留などの特徴的な所見を認めます。
嘔吐を数回していたと思われ、胃の残留内容物は皆無ではあるが、口腔内よりイルージンSという発光性有毒物質がわずかではあるが発見されている。また、同じく口腔内に残留していたカプサイシンによると思われる胃壁の損傷が若干見受けられる。イルージンSの作用によりカプサイシンの殺菌作用よりもその脱水作用が強くなり、極度の脱水症状が急性心筋梗塞を発症させたものと思われる。また、検体自身に心臓弁の異常が以前よりあったと思われ、心不全を悪化させた要因であると思われる。尚、イルージンSはツキヨタケという有毒きのこに多く含まれるものであり、ツキヨタケは極度の脱水症状、嘔吐等の症状を発症させるシイタケに似た有毒きのこ類である。ただし、それを摂取しているかは残留内容物が少なく不明。その他検体に外的損傷は見受けられない。死亡推定時刻は四月十日午前六時頃。死後検体全体に水をかけられた形跡がある。
長々とつづられた所見書にはエリカの遺体の写真とともにこの様な文面が記入してあった。病死とも食中毒事故とも毒殺とも思われる内容に、花井は頭を抱えた。
「ツキヨタケ?なんだそれ。脱水症?心筋梗塞?」
頭を掻き毟り、所見書をテーブルに投げ出した。
「面倒なことになりそうだ」
中野の宮川の美容室では恵理と幸太郎がスタッフの話を聞いていた。
この美容室は雑誌にも登場する有名店で、多くの芸能人も足しげく通う店であった。
オーナー店長の宮川も数多くの有名人を顧客に持っていた。宮川の消息がわからなくなったのは四月七日の夕方、一日出勤して来ず、連絡取れないことに心配したスタッフが近くにある宮川の自宅を訪ねている。その翌日、スナック「シャングリラ」で室井の死体と宮川のものと思われる大量の血液が発見された。
安藤と秋月は車中に残り、二人の報告を待っていた。
店を出ようとしたとき入り口でスタッフと揉めている二人の女性がいた。
「あっあれ、今人気の源氏姉妹ですよ。」
幸太郎は目の前の有名人に興奮していた。
源氏姉妹とは、源氏智子・源氏祐子の姉妹モデルで、かの光源氏コーポレーションの会長源氏寛成の令嬢。本当のセレブモデルであった。その美貌で各ファッション誌を飾り、羨望を集める有名人が目の前にいた。
「なんでオーナーいないの?今からお葬式行くのにヘアをメイクしていただかないと行けないわ。ねぇ祐子さん。」
「そうですわ。エリカさんが亡くなったのよ。エリカさんは私達のショーで歌っていただいた大切な方よ。行かないわけにはいかないですわ。ねぇ。お姉様。」
…エリカが死んだ?エリカってあのエリカが?…
エリカファンの幸太郎は衝撃を受けた。
…全部のCD持っている。今は福岡でコンサートのはずだが…
放心状態で立ち止まる幸太郎を横目に恵理が冷たい表情で彼女たちのそばに行った。
「すみません。宮川オーナーとはお知り合いですか?」
急に声をかけられ二人合わせて恵理を見て、怪訝な顔をした。
「あっ。すみません。警視庁の広瀬と申します。宮川さんが行方不明なもので調べているんですが。」
恵理は警察の身分証票を開いて見せた。
「あら、宮川さんが行方不明?困ったわ。あの方のヘアのメイクがないと困ってしまうわ。ねぇ祐子さん。」
「仕方ないですわ。別の方にヘアのメイクをしていただく事に致しましょうよ。お姉様。」
「そうですわね。祐子さん。田中、違う優秀な方紹介して頂戴。田中。田中。」
その声に黒ずくめの男が二人の傍に近づき、
「畏まりました。お嬢様。それでは麻布に参りましょう。」
そう言うと智子の手を取り、店から三人は出て行った。
その光景に唖然として声をかけることすら忘れる恵理であった。
そして、その後ろで大木のごとく微動だにせず、放心状態を続ける幸太郎の姿があった。
第四夜
ツキヨタケの中毒のよる脱水症状で急性心筋梗塞。
目撃情報でわかった黒いスポーツカーの女性。
死体に水をかけるという不可解な行為。
自殺ではないことがわかる以外、捜査に進展はなかった。
人気アーティストが殺されるという事件にマスコミが警察に詰め寄り、花井のボールペンの先は見るに耐えない姿になっていた。
エリカの活動拠点は勿論東京ということで、県警は警視庁に捜査協力を要請した。
角谷ら当日いた関係者の中に疑わしき人物を発見できず、また、人気アーティストという交際範囲の広さから、対象の女性を見つけることは難航するかと思われた。
しかし、エリカの経歴・交際関係を探るうちに、意外な事実が判明した。
それは警視庁からの報告であった。
小島は宗田の関係する「シャングリラ」刺殺事件に付ききりの為、福岡県警からの捜査協力要請を捜査共助課に任せていた。
ちなみに、捜査共助課とは、警視庁の捜査一課のある刑事部に所属し、主に道府県警との捜査協力及び指名手配犯の情報管理・捜査を行う部署である。
刑事部内にはその他捜査内容に応じて、担当課が配置されており、捜査一課は殺人、強盗、強姦などの強行犯の捜査また、他課で対応できない事案の捜査を主とし、恵理や幸太郎が属する部署。花形的存在部署。存在を極秘とされ、配属と同時に経歴を抹消される特殊捜査隊(SIT)もここに属すると言われている。しかし、捜査内容の複雑さからキャリア組(国家公務員一種試験合格者)の在職率は低く、幸太郎の様に所轄で成果をあげた捜査員が多くを占める。
捜査二課が選挙違反、詐欺、知能犯罪の捜査を主とし、選挙違反等政治家と関わる事の多い部署であり、その為、ここの課長職は出世の最短コースと言われ、キャリア組が最も多い部署である。現在では、ハイテク犯罪総合センターと連携し、コンピューター犯罪の捜査も担当している。
捜査三課は、窃盗、スリ等の盗難犯罪の捜査を行い、各課の中で事案が多く忙しい割には目立たない部署である。
鑑識課は各課と連携し、鑑識業務を行い、科学捜査研究所とともに犯罪の証拠認定及びその保持を主な業務とする。警察犬の管理もここで行う。
機動捜査隊は重要事案の初動捜査を行い、部隊は三隊に分かれ、第三機動捜査隊には前記の特殊捜査隊(SIT)が拠点としている。
科学捜査研究所は、前記の通り鑑識課と連携し、科学捜査を行う部署である。本来プロファイリングを行う恵理の様な犯罪心理捜査官はここに所属するのが常であるが、恵理は小島管理官の要望により、捜査一課に配属されている。
捜査四課は現在廃止となり、組織犯罪対策部として独立、その名の通り、暴力団対策及び銃器・薬物の対策・検挙を主な業務とし、その為、在職者情報の管理が徹底され、在職が極秘となる場合が多い。
福岡県警から捜査協力依頼を受けた捜査共助課課長、原公三は捜査情報を福岡県警に送信した。そこには、意外な事実が書かれていた。そして、事件は急速に動き出した。
警視庁からの捜査情報
被害者エリカこと喜多見理佳なる人物の住民登録並びに戸籍は存在しておりません。
所属芸能事務所から報告の被害者の経歴を調べたところ、一切事実ではない事が判明しました。また、所得に関する納税履歴も全く存在せず、所属芸能事務所も関わった脱税があったものと思われます。この件に関しては東京国税局に調査依頼を行っております。
また、被害者の周辺においてインターネットを悪用した犯罪グループとの交流があることが判明致しました。その犯罪グループの捜査は当庁捜査二課にて内偵中の為、ここでの詳細はお伝えできませんが、その中に黒いフェアレディZに乗る女性の存在があることが分かっております。その女性は『セレネ』という名で呼ばれており、詳細については前記の当庁捜査二課捜査案件に関する為、ここでのご報告致しかねます。本日当庁捜査二課課長宗田純一朗警視正ほか捜査員が福岡に参りますので、ご確認頂きます様宜しく御願い致します。 警視庁捜査共助課課長 警視 原 公三
この報告は管理官である小島にも連絡されているが、小島はまだ、目を通していなかった。スナック「シャングリラ」刺殺事件の関係者である宗田警視正が、極秘に別の捜査を担当していることは、警察のトップしか知らないことであった。
県警本部長からこの文面を渡された花井は頭を掻き毟り、本部長の前であるというのに、
「面倒なことになりやがった。本当に。」
と呟いた。
「顔直しなさい。安藤監察官にまた言われるわよ。」
大ファンである人気アーティストエリカの死を知り、呆然とする幸太郎に恵理はきつく言った。その言葉に幸太郎は我に帰った。
宮川の美容院では、特筆すべき情報は得られなかった。知り得た事は、事件前日から行方が分からないということだけだった。
車に戻ると、秋月だけで、安藤監察官の姿はなかった。
「お疲れ様でした。どうでした?」
秋月は明るく恵理に声をかけた。恵理と幸太郎は身振りで空振りであることを伝えた。
「安藤監察官は?」
恵理の質問に秋月は、携帯がなり、すぐ戻ると言い、車を離れたことを伝えた。
「なんか嫌ですね。内緒が多くて。こっちがどきどきしちゃいます。」
秋月はおどけて言った。
しばらくして、安藤が戻ってきた。そして、意外な指示を出した。
「空振りかな?それでは今から羽田空港に向かってく頂けますか?」
三人はその指示に驚いた。三人の気持ちを代表して恵理が言った。
「羽田空港?まさか旅行に行くわけでもないでしょうに何故ですか?」
「小島管理官には私から言ってあります。広瀬警部と河辺巡査部長には、今すぐ北九州に飛んでいただきます。指示は北九州にて別途行いますので。」
「きっ北九州?」
幸太郎は叫んだ。恵理には何か裏で動いている事が分かった。
「わかりました。行きましょう。」
恵理の素直な回答に、安藤は驚いた表情をした。
恵理と幸太郎はそのまま北九州へ飛び立った。
寂しそうに見送る秋月の横で、安藤は不敵な笑顔を見せた。
小島は東新宿署の取調室にいた。目の前には、スナック「シャングリラ」の従業員で、宗田捜査二課長と事件の直前に店を出た吉村純がいた。
「いいかげん話したらどうだ?君と宗田の間には何があるんだ?」
「…」
完全黙秘を続ける吉村に小島は痺れを切らしていた。しかし、容疑者ではない吉村に対してこれ以上、強引な取調べを出来るわけもなく、任意の取調べに素直に付き合う吉村と宗田の事件関与もしくわ宗田の警察官として不適切な行為の証言を得たい小島の忍耐戦となっていた。
吉村が「シャングリラ」に勤めたのは昨年の九月頃。
宗田が「シャングリラ」に現れるようになったのは、今年に入ってからとの情報を得ていた。
その頃から、宗田と吉村が一緒にいるところが何度も目撃されていた。
この件について、宗田サイドからの返答はなく、警視庁トップからも特に指示はなかった。その為、小島は吉村をどうしても落としたかった。
「いいかげんにしろ。」
小島は激しく吉村に掴みかかった。吉村は不敵に笑い、つぶやいた。
「無駄な時間だよ。後悔するよ。」
小島は殴りかかりたい衝動を精一杯抑えた。その時、捜査員が小島に伝言を伝えた。
安藤監察官からの連絡であった。
安藤は恵理と幸太郎の二名を、北九州市で発生した殺人事件の捜査協力に派遣すること。
吉村に対する捜査を一切中止すること。そして、この件は警察庁刑事局長からの通達であること。この三点だけを伝えた。勿論、小島は理由を求めたが、安藤から語られることはなかった。
小島は吉村を帰宅させた。
小島が自分の知らないところで事が進んでいることに気づくのは、捜査共助課から福岡県警への捜査情報提供についての報告書を見てからであった。
安藤が恵理に指示したのは、北九州市の福岡県警西小倉署の花井警部補を訪ねること。そこから先は、警視庁から先に行っている捜査員の指示に従うこと。以上であった。
「何考えているんですかね?安藤監察官。北九州ってエリカが殺害された場所ですよね?まさか僕のエリカ好きがわかってなんてことあるわけないし…。そのまま異動なんてことないですよね?」
幸太郎は機内で落ち着かなかった。しかし、恵理は目を瞑ったままじっとしていた。まるで眠っているかのように。
「よく寝れるなぁ。」
幸太郎は呟いた。
恵理と幸太郎が北九州への飛行機に乗っている頃、福岡県警若戸署が、第七管区海上保安部の協力のもと、北九州市の若松港にて、転落したと思われる自動車の引き揚げ作業が行われていた。四月十日の早朝、車が猛スピードで港に落ちたとの報告があった為である。捜索作業はすぐに開始されたが、なかなか発見されなかった。ようやく夕方になり、車を発見、車内には男性一名の遺体が確認された。
引き揚げられた車は黒いフェアレディZであった。
その後、男性の遺体は持ち物から、東京で行方不明になっている宮川栄治のものであることが判明した。
西小倉署では、到着した警視庁捜査二課課長、宗田純一朗警視正の姿があった。
「お久しぶりです。花井さん。」
明るく宗田は敬礼した。
「二度と会いたくない奴には会ってしまうもんだな。やっこさんは元気かい?」
花井はデスクでボールペンを噛んでいた。
多くの人の長い一日が終わろうとしていた。