鉄血のメイド団
【鉄血のメイド団】第1期 第1〜12話
第1話「二十歳の大富豪と、鉄血のメイドたち」
世界には、国家とも渡り合える「影の組織」がある。
その名は――《クリムゾン・エプロン》。
表向きは、超富裕層向けの高級家政婦派遣会社。しかしその実態は、世界最強と謳われる武闘派メイド集団だ。
そのボスが、橘 嵐── 二十歳。
「……また書類が増えてる」
広大なオフィスの窓際ソファに深く沈み込み、嵐はうんざり顔でデスクの山を眺めた。高さ三メートルを超える積み上げられた書類の塔が、かすかに傾いている。
「嵐様、先週から放置されているものだけで三千二百件ございます」
低く、よく通る声。振り向けば、書架の前に立つ女性が一人。
黒のメイド服。腰に細剣。銀縁の眼鏡。
冷たい灰色の瞳が、嵐をまっすぐに見ている。
「……霧島、また数えたの」
「数えるのも職務のうちです」
霧島 葵、二十三歳。《クリムゾン・エプロン》筆頭メイド、通称「一番槍」。剣術の実力は特殊部隊のそれを軽く凌ぐ。そして嵐の副官として、この組織のほぼすべてを取り仕切っている。
「はい、万年筆」
「いや、ペンより先にコーヒーが欲しい」
「すでに淹れてあります。デスクの右端、冷める前にどうぞ」
嵐は立ち上がり、デスクへ向かった。白磁のカップ。湯気が細く上がっている。一口飲む。
「……うまい」
「ありがとうございます。今朝のご機嫌を予測して、深煎りにしました」
嵐は苦笑した。この女には、どこまでも敵わない。
《クリムゾン・エプロン》には現在、百名を超えるメイドが在籍する。全員が高度な戦闘訓練を受けた実戦要員であり、格闘・射撃・情報収集・暗殺──何でもこなす。
嵐がこの組織を継いだのは十八歳のとき。先代ボス、つまり祖父が急逝し、遺言に従い全権を委ねられた。「馬鹿者が組織を動かすと世界が面白くなる」というのが祖父の言い訳だった。
面白いどころか、毎日がカオスだ。
「嵐様。本日十四時、バルカン商会との交渉があります。相手は武装四名を連れてくる見込みです」
「メイドは何人つける?」
「三名で十分かと。ルナ、サクラ、私の三人を」
「霧島まで出るの? オーバーキルじゃない?」
「あなたが近くにいると私が落ち着かないので」
嵐は眼鏡の奥の灰色の瞳を見た。そこに感情の揺らぎはない。ただ、その言葉だけが静かに落ちた。
「……それ、どういう意味?」
「職務上の意味です。深読みしないでください」
霧島は踵を返し、すたすたと廊下へ消えた。
嵐はカップを持ったまま、しばらく呆然とその背を見送った。
――二十歳のボスと、年上のメイドたち。
この組織の、騒がしい日常が始まる。
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第2話「ラッキーな事故と、怒れる筆頭メイド」
朝の訓練場。
嵐は廊下を歩きながら書類を読んでいた。悪い癖だ、と霧島に何度言われたか知れない。だが、訓練中のメイドたちを見ながら仕事をこなすのが、なんとなく嵐の朝のルーティンになっていた。
そのとき、前方の扉が勢いよく開いた。
「あっ──!」
飛び出してきたのは、明るい茶色の長髪を振り乱した女性。訓練着のシャツが首元まではだけ、手にタオルを持っている。
嵐の書類が宙に舞い、二人は正面衝突した。
――ドン。
「いってぇ……!」
嵐が廊下に仰向けに倒れる。その上に、女性が覆い被さるかたちで着地した。
距離、ゼロ。
嵐の顔の真上に、長い茶髪がカーテンのように垂れ下がる。訓練着の胸元が大きく開き、柔らかな感触が嵐の胸に──
「────っ!!」
女性が弾かれたように立ち上がった。顔が真っ赤だ。
「すっ、すみません嵐様ぁっ!! 事故です、完全に事故で──!」
月城 ルナ(つきしろ るな)、二十一歳。《クリムゾン・エプロン》第三席。格闘術が専門で、嵐が入団以来もっとも親しく話しかけてくる賑やかなメイドだ。
「……ルナ、落ち着いて。俺は大丈夫だから」
嵐が起き上がろうとした瞬間。
「何をしているのですか」
廊下の奥から、氷のような声が届いた。
霧島 葵が、腕を組んで立っている。眼鏡の奥の目が、細く、細く、細くなっている。
「あの、葵さん、これは──」
「見ればわかります。嵐様の上に乗っていたのが」
「ち、違います! ドアが開いて──!」
「ルナ」
霧島は一歩前に出た。
「訓練中に扉を蹴破って廊下に飛び出す際は、『前方確認』が基本です。それができないなら訓練時間を倍にしましょうか」
「ひぃっ!! しません、します! 確認します!!」
霧島はルナから視線を嵐へ移した。ゆっくり。
「嵐様、お怪我は」
「ない。むしろ……柔らかくて、ちょっと──」
「余計な感想は必要ありません」
ぴしゃり。
嵐は口を閉じた。霧島が床に散らばった書類を拾い始める。その横顔が、ほんのわずか、耳まで赤い。
ルナが嵐の耳元に小声で囁いた。
「……葵さん、嵐様のこと心配してるんですよ。あの顔は照れてる顔です」
「どう見ても怒ってるけど」
「それが照れてる顔なんです」
嵐は霧島の赤い耳を見て、そっと口角を上げた。
筆頭メイドは気づいていない。それとも、気づいていて無視しているのか。
どちらにしても──かわいいな、と嵐は思った。口には出さないが。
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第3話「温泉突入作戦と、混浴の惨劇」
《クリムゾン・エプロン》の年次作戦報告会は、なぜか毎年温泉旅館で開催される。
これは先代ボスの謎こだわりであり、嵐はまだ廃止する気力を持てずにいた。
「では嵐様、本日は作戦報告の前に、温泉でリフレッシュをどうぞ」
旅館の仲居姿に扮した霧島が、すました顔で言った。
「ありがとう。じゃあ一風呂──」
「男湯は東棟です」
「わかってる」
嵐は東棟へ向かった。
ところが。
「……あれ」
暖簾が、ない。
入り口に暖簾がなく、代わりに「改装中」の紙が貼ってある。引き返そうとしたとき、背後の引き戸がすっと開いた。湯気が廊下に溢れ出てくる。
「あ──本日は男湯が工事中で、混浴になっているそうで──」
と案内してきた旅館スタッフの声と共に、嵐は足を踏み込んでしまっていた。
湯気の中に、人影。
「……は?」
「────っっ!!!!」
声が三つ重なった。
湯船に浸かっていたのは、ルナと、もう一人──桐谷 サクラ(きりたに さくら)、二十歳。諜報専門の静かなメイドで、普段はほぼ無表情だ。その彼女が、今は目を見開いて、肩まで湯に潜っている。
「でっ、出てください!!」
「出ます!! 今すぐ出ます!!」
嵐は全力で踵を返した。が、湯気で滑る。
──ズッ。
盛大にこけた。タイルに顔から着地。
「嵐様……?」 ルナが恐る恐る声をかける。
「大丈夫……骨は折れてない……」
廊下から、冷たい声が届いた。
「何の騒ぎですか」
霧島だった。状況を一瞬で把握したらしく、こめかみに指を当てて、静かに、深く、息を吸った。
「嵐様」
「俺は悪くない」
「説明を」
「暖簾がなかった」
「…………」
沈黙が続いた。長い沈黙だった。
湯の中からサクラが静かに言った。
「霧島先輩。本当に、嵐様は何もしていません。ただ転んだだけです」
「……そうですね。嵐様が意図してこのような状況を作り出す知性はございません」
「褒めてる? 馬鹿にしてる?」
「どちらでもございません。事実の確認です」
霧島はきびすを返した。その耳が、また赤い。
嵐はタイルに額をつけたまま、天井を見た。
これは誰も悪くないのに、なぜか俺だけが申し訳ない気持ちになっている。
人生は理不尽だ。
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第4話「新人メイド・リリアの洗礼」
春の新人研修の季節がやってきた。
今年の新人は三名。中でも嵐が注目したのは、金髪碧眼の外国人メイドだった。
「リリア・フォン・シュタイン、二十歳でございます。ドイツ出身、格闘術と狙撃を得意としております。どうぞよろしく、ボス殿」
ぺこり、と頭を下げる。日本語は流暢だが、妙にかたい。
「よろしく。緊張しなくていいよ」
「緊張はしておりません。ただ、ボスが予想より若くて驚いているだけです」
「……率直だね」
「ドイツ人ですので」
霧島がリリアの隣に立った。
「リリア、本日より私が直接指導します。ついてきなさい」
「はい、先輩!」
リリアは元気よく敬礼し、霧島の後に続いた。
問題が起きたのは午後の実戦訓練だった。
嵐が視察しているところへ、リリアが駆け込んできた。顔が真っ赤で、全速力で走っている。
「ボ、ボス殿!! 緊急事態です!!」
「どうした?」
「シャワー室で、着替え中に錠が壊れていて、後から入ってきた男性スタッフと──」
「それは大変だったね。怪我は──」
「怪我はありませんが、プライドが傷つきました!!」
リリアは両拳を固め、涙目で訴えた。
「ドイツでは、このような粗相は決闘で解決します!!」
「ここは日本なので、決闘はやめよう」
「では賠償です!!」
「それも穏やかにやろう」
霧島が後から歩いてきた。事情を聞き、一言。
「設備の点検を怠った管理責任者を明日付けで始末書提出とします。リリア、あなたは今後、施錠を二重確認すること」
「は、はい先輩!」
「ボス」と霧島は嵐を見た。「本件の記録は私が処理します。あなたはそのまま何もしないでください」
「……俺は何もしてないけど?」
「いつも何かしているのであなたのことが心配なのです」
「それは心配ってより監視では?」
「職務上の区別はありません」
嵐は苦笑した。
その夜、リリアは嵐の執務室に来た。
「ボス殿、本日はご迷惑をおかけしました」
「いや、全然。慣れないうちはいろいろあるよ」
しばらく沈黙。それからリリアが小さく言った。
「……この組織、好きになれそうです」
「うん?」
「皆が、本当に嵐様を大切にしているのがわかります。そういう場所は、強い」
嵐は窓の外を見た。訓練場に灯りがついている。深夜まで自主練をしているメイドがいるらしい。
「……そうだね」と嵐は静かに言った。「俺も、好きだよ、この場所が」
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第5話「霧島葵の休日と、気づいてしまったこと」
月に一度、組織全員に「完全オフ」の日が与えられる。嵐のルールだ。
霧島葵は休日が苦手だった。
特にやることがない。本を読む。茶を淹れる。剣の手入れをする。気づけば正午になっている。
街に出てみるかと思い立ち、私服に着替えて外へ出た。いつものメイド服でないと、自分が別人のような気がする。白いブラウスに紺のスカート。眼鏡は外した。
商店街を歩いていると、見覚えのある後ろ姿があった。
「嵐様?」
振り向いた嵐が、目を丸くした。
「……霧島? 眼鏡ないと全然わからなかった」
「休日ですので。あなたこそ、何をしているのですか」
「本屋。霧島は?」
「……同じく」
なぜか二人で本屋に入ることになった。
嵐は冒険小説のコーナーへ。霧島は語学書のコーナーへ。適当に別れたはずが、三十分後に同じ棚の前で鉢合わせた。
「……嵐様も、歴史書をお読みに?」
「うん。特に戦略系が好きで」
霧島はわずかに目を細めた。
「先代も、同じ棚ばかり見ていました」
「祖父のこと、知ってるの?」
「私が入団したのは十八歳のころです。先代には二年ほどお仕えしました」
珍しく、霧島の声が柔らかくなった。
「厳しい方でしたが、組織のことを家族のように思っていた。だから皆がついてきた」
嵐は棚の背表紙を眺めながら、静かに聞いた。
「俺は、どう見える?」
「……どう、とは」
「祖父と比べて」
霧島はしばらく黙っていた。
「比べていません」と彼女はやがて言った。「あなたはあなたです。先代とは違う、別の何かになろうとしている。それが何かは、私にもまだわかりません」
「それって、否定?」
「評価を保留しているだけです」
けれど霧島の口元が、かすかに緩んでいた。嵐はそれに気づいたが、言わなかった。
二人は同じレジに並んだ。同じ本を持って。
どちらも、それには気づかないふりをした。
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第6話「浴室の罠と、四人の修羅場」
《クリムゾン・エプロン》本部は、旧財閥の大屋敷を改装したものだ。廊下が入り組み、部屋の位置関係が複雑で、入団したばかりのメイドはよく迷う。
嵐もたまに迷う。
「……あれ、俺の部屋どっちだっけ」
深夜零時を過ぎていた。執務を終えた嵐が浴室を使おうと廊下を歩いていると、突き当たりの扉が目に入った。
「ここだったかな」
ノックする。返事がない。開ける。
「──って、ここ、女性用浴室??」
広い浴室。湯気。そして。
「きゃっ!!」
湯から飛び上がったのは桐谷サクラだった。普段は無表情なのに、今は顔を真っ赤にして湯の中に潜り込んでいる。
「す、すみません!! 扉に表示が──」
「表示は廊下の角を曲がった先にあります……っ!」
「そんなわかりにくい場所に──」
そこへ扉がまた開いた。
「サクラ~、シャンプー貸して──あ」
月城ルナが顔を出す。嵐を見る。嵐を見る。もう一度よく見る。
「────うぁぁぁぁっ!!!」
「違うルナ、聞いて──」
さらに扉が開く。
「騒がしいですが何事──」
リリアだった。素早く状況を把握し、小声でドイツ語を何か呟いた。おそらく悪口だ。
四人が浴室の扉口で凍りついているところへ。
廊下の奥から、静かな足音。
「嵐様」
霧島だった。入浴着姿だった。タオルを肩にかけ、眼鏡なしで、長い黒髪を下ろしている。普段と全く異なる姿に、嵐は一瞬言葉を失った。
霧島は扉の外に立つ嵐を見て、浴室の中の三人を見て。静かに言った。
「嵐様、男性用浴室は北棟です」
「……知ってる」
「ではなぜここに」
「迷った」
「…………」
長い沈黙。
「今夜は私が案内します。ついてきてください」
霧島は嵐の腕を掴み、廊下を歩き始めた。その手が、かすかに、震えていた。
「霧島……手、震えてる」
「寒いだけです」
「真夏なのに?」
「体質です」
嵐は何も言わなかった。ただ、引かれる手の温もりを、少しだけ大切に思った。
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第7話「依頼人の罠と、戦うメイドたち」
依頼の内容は、「重要書類の護衛」だった。
依頼人は南米の実業家、カルロス・ベガ。書類を三都市に分散して輸送するため、各ルートに護衛を要請してきた。
「第一ルートはルナとサクラ。第二はリリアと斑目コンビ。第三は──」
「私が担当します」と霧島が言った。
「単独?」
「問題ありません」
「霧島を一人には──」
「嵐様も同行されますか」霧島は嵐を見た。「もし同行されるなら、戦力的には申し分ありません。問題は、あなたが戦いの最中に危険に晒されることです」
「俺だって戦える」
「知っています。しかし私が守ることに集中できなくなる。それが問題です」
嵐は黙った。霧島がこういう言い方をするのは珍しい。
「……わかった。一人で行って」
「ありがとうございます」
作戦は順調に進んでいた──最初の一時間は。
第三ルート、高速道路上。霧島の乗る車が突然包囲された。
「依頼人が罠だったか」
霧島は静かに呟き、後部座席の書類鞄を膝の上に置いた。車の窓から見える追走車が三台。搭乗人員は推定十二名。
霧島は細剣を抜いた。
車が路肩に停車させられる。追走者たちが降りてくる。先頭の男が、高圧的に言った。
「書類を渡せ。おとなしくしていれば──」
霧島は扉を蹴開け、一瞬で先頭の男の懐に入った。
あとは──三分だった。
十二名が、三分で全員を制圧された。霧島は細剣を鞘に収め、乱れた髪を一本指で耳にかけた。
本部に通信が入った。
「霧島から。第三ルート、完了しました。書類は無事です」
嵐は受信機を耳に当てたまま、息を吐いた。
「……怪我は?」
「かすり傷一つ」
「よかった」
「……嵐様」
「うん?」
「声が、心配そうでしたよ」
霧島の声が、わずかに笑っていた。嵐はそれを聞いて、複雑な顔になった。
「……当たり前だろ」
「ええ、そうですね。ありがとうございます」
通信が切れた。
嵐は窓の外、夜の街を眺めた。
霧島葵が帰ってくる。それだけで、夜が少し明るく感じた。
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第8話「ルナ、泣く」
月城ルナが泣いているのを最初に発見したのは、サクラだった。
深夜の訓練場。一人で打ち込みを続けているルナの頬を、涙が伝っている。
サクラは黙って隣に座った。しばらく待ってから、静かに聞いた。
「話せる?」
ルナは拳で目を拭い、力なく笑った。
「……サクラって、こういうとき優しいよね」
「優しいわけじゃなくて、無言が苦手なだけ」
「嘘だ」
ルナは膝を抱えた。
「今日、外部研修で会った人に言われたの。『女が戦闘員なんて見世物だ』って」
サクラは何も言わなかった。
「わかってるよ、気にする必要ないって。馬鹿にしてくる奴なんて、いつだっているって。でも」
ルナの声が、詰まった。
「私、本気でここの仕事が好きで。皆のこと守りたくて。嵐様のこと……守りたくて、ちゃんと強くなろうって頑張ってきたのに。それを笑われたら、何か」
廊下に足音。
嵐が訓練場に入ってきた。深夜の見回りのルーティンらしく、手にコーヒーカップを持っている。二人を見て、立ち止まった。
「……どうした?」
ルナは慌てて立ち上がろうとした。嵐が先に床に座った。
「俺も混ぜて」
ルナは固まった。
「嵐様が床に座るの……」
「俺の屋敷だから好きなとこに座る権利がある。で、何があった?」
ルナは、また泣きそうになった。でも今度は、さっきと違う種類の涙だった。
嵐は話を最後まで聞いた。コーヒーを少し分けてやって、それから静かに言った。
「その人は間違ってる。でも、君が悔しいのも正しい。どっちも本当のことだよ」
「……嵐様は、私たちのこと、ちゃんと戦士だと思ってる?」
「思ってる。一番強い仲間たちだと思ってる」
ルナは下唇を噛んだ。
「……もう一回、言ってください」
「一番強い仲間たちだ」
今度こそルナは泣いた。盛大に。嵐のシャツに顔を埋めて、子どもみたいに泣いた。サクラが静かにタオルを差し出した。
嵐は何も言わず、ルナの背中に手を当てていた。
廊下の端で、霧島が壁に寄りかかって目を閉じていた。その口元は、かすかに、やわらかかった。
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第9話「サクラの秘密の趣味」
桐谷サクラは無口だ。
感情があるのかどうか疑わしいほど表情が動かない。戦場では冷静沈着、指示は端的、報告は完結。《クリムゾン・エプロン》の諜報部門で最高評価を得ているメイドだ。
そのサクラが、休日に「手芸」をしていることを、嵐は偶然知った。
屋敷の縁側。サクラが膝の上に小さな布を広げ、細い針を動かしている。刺繍だ。
「……サクラ、それ趣味?」
サクラはぴたりと止まった。振り向かずに言った。
「見なかったことにしてください」
「なんで? かわいいじゃん」
「……かわいい、は要りません」
サクラがようやく振り向いた。顔に表情はない。でも耳が少し赤い。
「組織では、クールな諜報員として振る舞っています。手芸は、それと整合しません」
「誰がそんなこと言った?」
「言った人はいません。でも」サクラは刺繍を見た。「私が、そう思っています」
嵐は縁側の端に腰を下ろした。
「見せて」
サクラは少し迷ってから、布を差し出した。
刺繍には花と、小さな剣が描かれていた。繊細で、丁寧で、とてもきれいだった。
「上手いね」
「……ありがとうございます」
サクラの声が、いつもより少し低かった。
「誰かにあげたりするの?」
「いつかは。まだ、誰に渡せばいいかわからないので」
嵐はその言葉の意味を考えた。
「俺にくれてもいいよ、いつか」
サクラが固まった。長い沈黙。
「……嵐様は、刺繍に興味があるのですか」
「ない。でも、サクラが作ったものなら」
「……それは」
サクラはまた前を向き、針を動かした。その横顔が、ほんのかすかに、ほとんどわからないくらいに、ほほえんでいた。
夕方、ルナがサクラの部屋を覗いて、刺繍の新作が始まっているのに気づいた。
今度は花だけでなく、もう一本、剣が増えていた。
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第10話「リリアの決意と、銃声の夜」
リリア・フォン・シュタインは、《クリムゾン・エプロン》に来る前のことをあまり話さない。
ドイツの名家出身。若くして家を出た。それだけが知られている。
その夜、嵐はリリアの練習射撃に付き合っていた。地下の射撃場。百発撃って百発、中心を外さない。
「上手いね」
「当然です。これが私の存在意義ですから」
リリアは次の弾倉を装填しながら言った。
「ボス殿、聞いてもいいですか」
「何でも」
「あなたは、この組織に何を求めていますか」
嵐はしばらく考えた。
「強さ、かな。でも、そのための強さじゃなくて、守るための強さ。そこにいる皆が笑えるための強さ」
リリアは照準を覗き、引き金を引いた。
──パン。
「……ドイツにいたころ、私は強くあれと育てられました。弱さは恥だと。感情を見せるなと」
「それで、ここに来た?」
「逃げてきた、に近い。それが恥ずかしくて、だから誰にも言いませんでした」
リリアは銃を下ろし、嵐を見た。
「でも、ここの人たちを見ていると。ルナさんが泣いて、葵先輩が心配して、サクラさんが刺繍を作って。誰も弱くなっていない。むしろ、強くなっている」
「そうだね」
「私は今まで、感情と強さは矛盾すると思っていました。でも、違うのかもしれない」
嵐はリリアの横に立ち、彼女が持つ銃を見た。
「リリア、君は今、ここにいる理由を見つけた?」
リリアは少し考えて、素直に言った。
「はい。守りたい人が、できました」
嵐が顔を上げると、リリアがまっすぐ嵐を見ていた。頬が少し赤い。
「……ボス殿のことを守りたいのです。それが私の、新しい存在意義です」
嵐は何も言えなかった。
リリアはまた照準を覗いた。
今度の百発も、全弾、中心を外さなかった。
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第11話「霧島葵、倒れる」
霧島葵が倒れた。
それを発見したのは嵐だった。
早朝、執務室に入ったら、霧島がソファで眠っていた。正確には、眠っているのではなく、体の力が抜けて倒れていた。書類が床に散らばっている。
「霧島!?」
嵐がすぐに駆け寄る。額に触れる。熱い。
「……嵐様」霧島がうっすら目を開けた。「お早いですね」
「倒れてるのに報告が先じゃない! 熱、何度ある?」
「計っていません。少し頭が重い程度で──」
「少しじゃないよ、この熱は」
嵐はルナを呼び、霧島を寝室に移させた。医務担当のメイドが「三十八度六分」と告げた。
霧島は休むことを拒んだ。
「本日は午前中に三件の交渉が──」
「全部俺が出る」
「嵐様一人では──」
「俺はボスだよ。ちゃんとやれる」
「それが信用できないから私が──」
「葵」
嵐が初めて名前で呼んだ。
霧島が固まった。嵐も少し驚いた顔をしたが、続けた。
「今日は休んで。俺のことは信用してくれなくていいから、自分の体を信用してあげて」
霧島は白い天井を見た。
「……私は、あなたの前で弱いところを見せたくないのです」
「知ってる」
「みっともない」
「知ってる。でも今はみっともなくていい」
霧島はゆっくり目を閉じた。長い睫毛が静かに降りる。
「……一日だけ」
「うん」
「明日には戻ります」
「わかった」
嵐は霧島の手をそっと布団の中に入れてやった。
その日の交渉三件は、嵐が全て一人でこなした。後で霧島が確認したら、出来は完璧だった。
霧島はそれを見て、初めて、心の底から笑った。一人で、誰にも見せないように。
嵐様は、ちゃんとボスになっている。
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第12話「第一期決戦──鉄血の誓い」
敵は「影の連盟」と名乗る組織だった。
《クリムゾン・エプロン》の情報網を掌握し、構成員の個人情報を入手。人質を取り、組織の解散を要求してきた。
嵐は全員を集めた。
「逃げたい人は逃げていい。これは命の問題だから」
誰も動かなかった。
「嵐様が逃げないなら、私たちも逃げません」
ルナが言った。全員がうなずいた。
霧島が作戦を展開した。本部制圧部隊・陽動部隊・後方支援部隊の三手に分け、敵の本拠地を三方から叩く。
嵐は霧島の隣に立った。
「霧島、俺も行く」
「……わかりました。私の隣にいてください」
夜が明ける前に、作戦が始まった。
リリアの狙撃が哨戒員を無力化。ルナの部隊が正面突破。サクラが内部の情報を抜き、扉の電子ロックを全解除。
嵐と霧島は中枢へ向かった。
最後の扉の前で、敵のリーダーが拳銃を嵐に向けた。
動く間もない距離。
霧島が身を挺した。銃弾が彼女の肩を掠める。
「葵!!」
霧島はよろめかず、その勢いのまま敵のリーダーに肘打ちを叩き込んだ。一撃で昏倒。
静寂。
嵐が霧島の肩を掴んだ。傷口を確認する。掠り傷だが、血が出ている。
「なんで身を盾にするんだ!」
「職務です」
「俺が傷つくより、君が傷つく方が嫌だ」
「……それはボスとして、おかしい発言です」
「ボスとしての発言じゃない」
霧島が嵐を見た。
「……嵐様」
「後で話す。今は傷の手当てが先」
霧島は小さく、静かに言った。
「……はい」
夜明け。《クリムゾン・エプロン》は敵組織を完全制圧した。
屋敷に帰り着いたとき、ルナが嵐に飛びついた。サクラが静かに隣に来た。リリアが敬礼した。
嵐は霧島を見た。霧島は嵐を見た。
何も言わなかった。でも、それで十分だった。
二十歳のボスと、年上のメイドたち。
鉄血の誓いで結ばれた、この組織の物語は──まだ続く。
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【鉄血のメイド団】第1期 第13〜24話
第13話「おかえりと、ただいまの距離」
《クリムゾン・エプロン》が影の連盟を制圧してから一週間。
本部は嵐の珍しい命令で、全員に三日間の完全休暇が与えられた。
「傷が癒えるまで休んでいい。これは命令」
そう言った嵐本人が、初日から執務室に篭もっていた。
「嵐様、休んでいないではないですか」
霧島が執務室の扉を開けた。肩の傷はもう動きに支障がないと主治医が判断したが、包帯はまだ巻かれている。
「俺は大丈夫。書類が溜まってる」
「私の分まで処理しようとしているのでは」
「……別に」
霧島は嵐の前のソファに座った。珍しい。いつもは立ったまま会話する。
「嵐様」
「うん?」
「決戦の夜、言いかけたことがあったはずです」
嵐は書類から目を上げた。
「……覚えてた?」
「私はあなたの言葉を全部覚えています。それが職務です」
「職務で覚えてるの?」
「……職務も、あります」
霧島は目をそらした。窓の外、訓練場が見える。
「ボスとして、と言ったあなたが、次にボスとしてではないと言いました。私のことが、傷つくのが嫌だと」
「うん」
「それは」霧島の声が、わずかに細くなった。「どういう意味で、言ったのですか」
嵐は少し考えた。考える必要はなかったが、正確に言いたかった。
「言葉通りの意味。君が俺を守ろうとしてくれることは嬉しい。でも、君が傷つくのは──俺には耐えられない。それは部下への気持ちじゃない、もっと個人的な気持ちだよ」
霧島が嵐を見た。
「……今それを、言うのですか」
「ちゃんと伝えたかった。あのとき言えなかったから」
霧島は長い間、何も言わなかった。窓の外を見ていた。やがて静かに言った。
「……私も、あなたが傷つくのは嫌です。それは職務上の気持ちではない、と最近気づきました」
「そう」
「それ以上は、まだ、言えません」
「わかった。急がなくていい」
霧島は立ち上がった。嵐の机の上にお茶を置いた。それだけのことが、今日はどこか特別に見えた。
「休憩してください。書類は私が戻ってから手伝います」
扉が閉まった。
嵐はお茶を飲んだ。葵が淹れたお茶は、いつも少しだけ、甘い。
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第14話「新たな依頼と、スパイ疑惑のドタバタ」
新しい依頼が来た。依頼人は「モナコの富豪令嬢」。内容は「パーティーへの護衛同行」。
問題は、そのパーティーが「仮装舞踏会」であることだった。
「メイド服で行けばいいのでは」とルナが言った。
「それは仮装にならない」と霧島が返した。
「仮装する必要が?」とサクラが言った。
最終的な方針は「メイドたちは一般ゲストに扮し、護衛であることを隠す」。つまり全員が私服になる。
嵐が広間に行くと、四人が待っていた。
ルナは花柄のワンピース。サクラは落ち着いたグレーのドレス。リリアは軍服風のジャケットとスカート。
そして霧島は──
「……葵さん、私服初めて見ました」とルナが言った。
霧島は紺のロングドレス。眼鏡なし。黒髪を編み上げている。普段の張り詰めた雰囲気が、どこか柔らかく見えた。
「何か問題が?」
「ないですないです! すごく綺麗です!」
嵐が入ってきて、四人に目をやった。霧島で止まった。
「……葵、似合ってる」
「嵐様こそ、タキシードが様になっています」
二人が同時に言って、どちらも少し黙った。
パーティーは華やかだった。が、三時間目に問題が起きた。
会場内に「組織の関係者がスパイ行為をしている」という情報が流れ、警備が強化された。疑いの目が、嵐たちに向いた。
「何か怪しいものを持っていますか?」と警備員。
嵐の後ろに立つルナが、こっそり嵐のスーツの裾を引いた。
「嵐様、サクラさんが盗聴器を三個持ってます」
「それは職務上必要なもの……」サクラが静かに言う。
「普通の人は盗聴器を三個持ちません」
霧島が前に出た。
「夫の持ち物です。彼はその、聴覚に問題があって、補聴器を複数持ち歩く必要があるのです」
「夫?」と嵐。
霧島が嵐の腕を掴んだ。警備員に向けて、流暢なフランス語で説明を始めた。警備員は納得して立ち去った。
沈黙。
「……今、俺が夫になった?」と嵐。
「緊急の偽装です」
「葵が俺の妻になった?」
「その話は忘れてください」
「忘れられない」
「忘れなさい」
ルナが口に手を当てて肩を震わせていた。サクラが静かに目をそらした。リリアがドイツ語で何か呟いた。
霧島の耳が、またしても赤かった。
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第15話「サクラの作戦と、一対一の夜」
「情報漏洩の可能性がある」という報告が上がった。
組織内に、外部に情報を流している人間がいるかもしれない。サクラが入手した断片的な証拠が示す、薄い可能性。
サクラは単独で動いた。
本部内の通信記録、行動記録、接触履歴。三日かけて全データを洗い出し、嵐の執務室で報告した。
「結論は、シロです」
「誰も疑わしくない?」
「疑わしい挙動をしている人はいます。ただ全員、別の理由がある。プライベートな理由が」
サクラは資料を閉じた。
「嵐様に言うべきか迷いましたが、あなたが知るべきことだと判断しました」
「ありがとう。教えてくれて」
サクラは頷き、立ち上がろうとした。嵐が聞いた。
「サクラは、疑わなかった?」
「何を」
「俺のことも疑う対象に入る。組織のトップが情報を売ることだってある」
サクラは少し間を置いた。
「……入れませんでした。あなたは疑いの対象に」
「なんで?」
「嵐様がここを壊したいなら、もっと早く壊せた。でもそうしなかった。それが答えです」
嵐はしばらく黙った。
「俺のこと、信用してくれてるんだね」
「はい」
「サクラ、俺にも刺繍、頼んでいい?」
サクラが嵐を見た。
「あの話、覚えていたのですか」
「覚えてる。サクラが作ったものが欲しいって、あのとき言った」
「……嵐様の好きな花はありますか」
「桐の花」
サクラは静かにメモを取った。
「わかりました。次の休日に始めます」
嵐は立ち上がり、窓の外を見た。夜の庭に灯りがついている。
「サクラ」
「はい」
「ありがとう。三日間、一人でやってくれて」
「……それが私の仕事です」
「仕事だけじゃないと思うけど」
サクラはすぐに返事をしなかった。少し経ってから、窓の外を見たまま、小さく言った。
「……そうかもしれません」
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第16話「ルナの大失態と、全力の謝罪」
月城ルナが大失態を犯した。
重要な外交文書を、誤ってシュレッダーにかけた。
「────!!! 葵さんにバレたら死ぬ!!!」
ルナは広間を走り回った。破片を集めた。テープで貼り合わせようとした。無理だった。
リリアに相談した。
「正直に報告するべきです」
「死ぬのが嫌なの!!」
「死にません。先輩はそこまで非情ではありません」
「葵さんを知らないから言えるんだよ……!!」
サクラに相談した。
「嵐様に先に言う。霧島先輩に伝えてもらう方がダメージが小さい」
「天才だ!!」
作戦通り、嵐に泣きついた。
「嵐様ぁぁ……助けてください……文書をシュレッダーに……」
嵐は書類仕事の手を止め、ルナの話を聞いた。
「……それ、いつの文書?」
「え……先週の、南部連絡便の──」
「あ、それ俺がデータ保存してある。印刷し直せば大丈夫だよ」
ルナが固まった。
「……え」
「原本は必要ないやつだった。大丈夫」
ルナは崩れ落ちた。
「……三時間、走り回ってました……」
「そうか。疲れたね」
その夜、ルナは霧島に自分から報告に行った。
「あの、葵さん。私、今日失敗して──」
「知っています」と霧島は言った。「嵐様から報告がありました」
「え」
「あなたが正直に申告しようとしていたことも、聞きました。原本は不要でしたが、あなたが慌てて謝罪を考えた行動そのものは、正しかった」
ルナは頭を下げた。
「ごめんなさい」
「次から気をつけなさい。以上です」
霧島が部屋を出ようとして、扉の前で一度止まった。振り向かずに言った。
「ルナ」
「はい」
「……慌てて謝りに来ようとしたのは、この組織を大切にしているからです。それは、いいことです」
それだけ言って、霧島は廊下に消えた。
ルナは廊下でしゃがみ込んで、こっそり泣いた。今度は嬉しくて。
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第17話「嵐の誕生日と、全員からの贈り物」
橘嵐の二十一歳の誕生日が、静かにやってきた。
嵐自身は覚えていなかった。覚えていたのは霧島だった。もちろん。
「本日、嵐様の誕生日です」と朝に告げた。
「あ、そうだった」
「……自分の誕生日を忘れるのですか」
「おめでとうとか言ってくれるの?」
「おめでとうございます。これでいいですか」
「もっと温かみを込めてほしい」
霧島はわずかに息を吸った。
「……おめでとうございます、嵐様。今年も、よい一年を」
声が、いつもより少し柔らかかった。嵐は「ありがとう」と言って、少し嬉しそうにした。
夜、食堂に全員集合という召集がかかった。
ルナが手作りのケーキを持ってきた。飾りがやや崩れているが、本人は満面の笑みだ。
「頑張って作りました!! 味は保証します!!」
リリアがワインとドイツのチョコレートを持ってきた。
「本国から取り寄せました。ご笑納ください、ボス殿」
サクラが小さな包みを差し出した。
「開けていいですか」と嵐。
「どうぞ」
包みの中には、刺繍のハンカチ。桐の花が、細い糸で丁寧に描かれていた。
「……きれいだ」
「嵐様が覚えていてくれていたので、急いで作りました」
「急いで、これが作れるの?」
「集中すれば三日で」
霧島が最後に封筒を渡した。
「中を見てください」
中には一枚の紙。《クリムゾン・エプロン》全構成員百十二名の署名が、びっしりと並んでいた。
「全員からのメッセージが一言ずつ、裏に」
嵐は裏を見た。百十二の、それぞれの言葉。「守ります」「ついていきます」「馬鹿ボス万歳」「来年もよろしく」「嵐様が嵐様でよかった」──
嵐はしばらく、紙から目を上げられなかった。
ルナが心配そうに覗き込んだ。
「……泣いてる?」
「泣いてない」
「目、赤いですが」とリリア。
「砂が入った」
「……嵐様」と霧島が静かに言った。「今年もよろしくお願いします」
「うん」と嵐は言った。声が少し震えていた。「よろしくお願いします、みんな」
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第18話「深夜の訓練と、二人だけの時間」
嵐が深夜の訓練場に来たのは、珍しいことではない。
ただし今夜は、霧島が先にいた。
「遅くまで」と嵐は言った。
「週に一度、一人で素振りをするのが習慣です」と霧島は答えた。「来ますか?」
嵐は壁際の木刀を手に取り、霧島の隣に立った。
二人で並んで、素振りをした。特に会話はない。
三十分が過ぎたころ、霧島がふと口を開いた。
「嵐様は、この先どうなりたいですか」
「どうなりたい、か」嵐は木刀を止めた。「組織を大きくしたいわけじゃない。今いる人たちが、ずっといられる場所にしたい」
「それは、経営者としては非効率な考え方です」
「知ってる。でも俺は経営者より先に、ここの皆と一緒にいたい人間だから」
霧島は何も言わなかった。また素振りを始めた。嵐も続けた。
五十回目で、霧島の木刀が滑った。ほんの少し、手首が痛むらしい。
「貸して」
嵐が霧島の手を取り、手首の角度を確認した。
「ここ、少し炎症がある。今日はここまでにしたら」
霧島は嵐の手を見た。嵐が霧島の手首を持っている。
「……離してください」
「離す前に、ちゃんと確認」
「医者ではないでしょう」
「毎週ここで素振りして、毎週同じ手首を酷使してるの、知ってたから」
霧島が少し固まった。
「知っていたのですか」
「知ってた。黙ってたのは、止めたら怒るだろうから」
霧島はゆっくり息を吐いた。
「……余計なお世話です」
「そうだね」嵐は手を離した。「でも気になるから」
二人は訓練場を出た。廊下を並んで歩く。霧島の右手が、嵐のすぐ隣にある。
「嵐様」
「うん」
「……来週も、一緒に素振りをしてもいいですか」
嵐は笑った。
「もちろん。毎週一緒にやる」
霧島は前を向いたまま、ほんのかすかに口元をゆるめた。
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第19話「リリア、撃たれる」
依頼は、ある国家機関の要人護衛。リリアが前衛を担当した。
作戦中盤、狙撃手の存在を察知した。リリア自身が狙撃手だからわかる、照準が向いている感覚。
向いているのは、護衛対象ではなく、嵐だった。
リリアは考えなかった。動いた。
銃声。
弾は、リリアの左腕を貫通した。
「リリア!!」
嵐が駆け寄った。リリアは腕を押さえ、膝をついた。しかし倒れなかった。
「……狙撃手の位置、東棟三階左から二つ目の窓です」と報告した。
「そんなのどうでもいい、今は──」
「どうでも良くありません」リリアは顔を上げた。「嵐様を守ることが私の存在意義です。まず任務の報告が先です」
嵐は言葉が出なかった。
「その後に、手当てをお願いします」とリリアは続けた。「痛いので」
後方から霧島が東棟に走った。十分後、狙撃手は確保された。
リリアの傷は貫通傷で、幸い骨には当たっていなかった。医務室で手当てを受けながら、リリアは嵐を見た。
「嵐様、顔が青いです」
「当たり前だろ。君が撃たれたんだ」
「私は大丈夫です。ドイツ人は頑丈なので」
「頑丈の問題じゃない」
嵐はリリアの手を握った。
「ありがとう、助けてくれて。でも二度と、自分を盾にしないでほしい」
「……それは難しい要求です。あなたが危ないと思ったら、体が先に動きますので」
「わかった。じゃあ俺が危なくならないようにする」
「それはもっと難しいです」とリリアは言い、薄く笑った。初めて見る、力の抜けた笑顔だった。
「リリア、笑ったの初めて見た」
「笑うことはあります。葵先輩には見せませんが」
「俺には見せてくれるの?」
「嵐様には、少しだけ」
リリアは目を細め、また笑った。今度はもう少し長く。
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第20話「先代の遺言と、嵐の涙」
祖父の三回忌に、弁護士から一通の封書が届いた。
「先代より、嵐様が組織を三年間維持した場合に開封するよう指示されたものです」
嵐は一人で開けた。執務室で。
筆跡は荒々しく、でも確かに祖父のものだった。
──嵐へ。
お前がこれを読んでいるということは、三年続けたということだ。
馬鹿者が、よくやった。
俺がお前に組織を任せたのは、お前が二十歳で最も弱かったからだ。
強い奴は、もう何かを守っている。弱い奴こそ、何かを守ろうとする。
そのほうが、組織は強くなる。
葵のことを頼む。あの子は強がって、助けを求めない。お前が助けてやれ。
ルナは感情豊かで、傷つきやすい。笑わせてやれ。
サクラは孤独が好きだと思っているが、実は人が怖いだけだ。近くにいてやれ。
リリアは遅れてくるが、必ず来る。待ってやれ。
俺の自慢の孫よ。
お前はもう、ボスだ。
橘 蒼一郎
嵐は手紙を持ったまま、しばらく動けなかった。
廊下に出た。誰にも会いたくない気分だった。でも霧島と鉢合わせた。
霧島は嵐の顔を見て、一瞬で何かを察した。
「……誰かと話しますか」
「話すより」と嵐は言った。声が少し変だった。「隣にいてほしい」
霧島は何も聞かなかった。廊下の窓際に立ち、嵐の隣に並んだ。
庭に月が出ていた。
嵐はしばらく無言でそれを見ていた。霧島も黙っていた。
やがて嵐が静かに言った。
「じいさんが、君たちのことを頼むって書いてた」
「……そうですか」
「知ってた? 俺に任せたこと」
「先代から、あなたを支えるよう言われました。入団して一年目のころに」
「ずっと、俺のために動いてくれてたんだね」
「最初はそうでした」と霧島は言った。「でも今は違います」
「今は?」
「今はあなたのために動いている。先代の指示ではなく、私が、そうしたいから」
嵐は月を見た。霧島も月を見た。
どちらも何も言わなかった。でも、どちらも泣きそうだった。
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第21話「嵐様の寝顔と、朝のパニック」
それは、よくない偶然の連鎖だった。
嵐が執務室で寝落ちた。毛布をかけに来た霧島が、残り書類を片付けようとして、そのまま霧島も寝落ちた。
翌朝、最初に気づいたのはルナだった。
執務室の扉を開けると。
ソファで眠る嵐。その隣の椅子で、上半身を机に伏せて眠る霧島。二人の手が、机の上でかすかに触れていた。
ルナは。
静かに扉を閉めた。
廊下を歩き、サクラを見つけた。
「サクラさん、大変なことが」
「何」
「執務室で嵐様と葵さんが──」
「それ以上は言わないでください」とサクラが先に言った。「聞いてしまうと、関わらなければならなくなる」
「でも──」
「ルナ、聞きましたか」
「……聞いてないです」
「では忘れました」
リリアが廊下を歩いてきた。ルナが目で訴えた。リリアが目でわかったと返した。
全員で執務室の前で待機した。
三十分後、霧島が扉を開けた。いつも通りの表情で、いつも通りの服装で、眼鏡をかけている。
「おはようございます」
「「「おはようございます」」」
全員、普通の顔で言った。
霧島は全員を見渡した。何かを察したらしかった。眼鏡の奥の目が、細くなった。
「……何も見ていませんね」
「「「見ていません」」」
「よろしい」
霧島は廊下を歩き始めた。三歩目で少し立ち止まり、また歩き出した。
ルナがこっそり嵐に報告しに行った。嵐の反応は。
「……俺、何か見られた?」
「二人の手が触れていました」
「────」
嵐は枕に顔を埋めた。
「忘れてください」
「覚えています」
「ルナ」
「はい」
「大好きだよ」
「ありがとうございます嵐様!! でも覚えてます!!」
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第22話「最強の敵と、背中を預ける意味」
「神王会」という名の組織が動き始めた。
かつて《クリムゾン・エプロン》の創設に関わり、先代との因縁を持つ古い組織。先代が解散させたはずが、裏で息を潜め、今代のボスが若いこの機に動き出した。
情報によれば、幹部が嵐の暗殺を計画している。
霧島は作戦を立案した。ただし今回は違う点があった。
「嵐様、今回は私たちに全て任せてください」
「俺が動かない理由は?」
「あなたが動くと、私が守ることに集中できなくなります。それは以前も申し上げました」
「また同じ理由」
「同じ理由です。同じ理由で、今も有効です」
嵐は少し考えた。
「霧島、俺が怖い?」
「怖いとは」
「俺が傷つくのが、怖い?」
霧島は答えなかった。しばらく経ってから、静かに言った。
「……はい」
「そうか」と嵐は言った。「俺も、葵が傷つくのが怖い。だから俺も行く。一緒に動けば互いを守れる」
霧島は目を閉じた。
「……論理的ではありません」
「感情的な理由だから」
「……わかりました」
作戦は夜に始まった。
敵の幹部は、想定以上の実力者だった。霧島が正面で受け止め、嵐が側面から崩す。ルナとリリアが外郭を制圧し、サクラが内部情報を掌握。
激戦だった。霧島が右腕に傷を負った。嵐が敵の一人に組み付かれた。
そのとき霧島が叫んだ。生まれて初めてのくらい、大きな声で。
「嵐様、伏せて!!」
嵐が伏せる。霧島が傷を無視して跳んだ。敵を蹴り飛ばし、嵐の前に降り立った。
静寂。
嵐は立ち上がり、霧島の右腕を確認した。血が滲んでいる。
「言ったでしょう」と霧島は言った。「あなたが危ないと、体が先に動くと」
「俺も言った。お前が傷つくと俺には耐えられないと」
どちらも少し笑った。疲弊した、でも本物の笑顔で。
「背中を預けていい?」と嵐が言った。
「……ずっと、そのつもりでした」と霧島が言った。
────────────────────────────────────────
第23話「四人の本音と、静かな夜」
神王会との決戦後、屋敷は静かだった。
傷の手当てが終わり、全員が食堂に集まった。特に誰かが声をかけたわけではなく、自然とそうなった。
ルナが温めたスープを皆に配った。
しばらく、誰も何も言わなかった。
最初に口を開いたのはリリアだった。
「嵐様、私は今日、あなたのために戦って、初めて怖いと思いました」
「怖かった?」
「はい。あなたに何かあったら、と思ったら。銃を持つ手が、一瞬震えました」
嵐は黙って聞いた。
「ドイツにいたころ、私は何かのために戦うということを知りませんでした。強さは目的でした。でもここでは、強さは誰かのためにある。それが恐ろしくて、でも嬉しいのです」
サクラが静かに言った。
「私も、怖かった。でも怖かったということは、大切なものがあるということで。それは以前の私にはなかった」
ルナが鼻をすすった。
「私も怖かったです!! 嵐様が組み付かれたとき、心臓止まりそうで──!」
「ルナ、泣かなくて大丈夫」
「泣いてないです!!」
霧島だけが黙っていた。嵐が隣を見ると、霧島はスープを見ている。
「葵も、怖かった?」
霧島は少し間を置いた。
「……はい。これほど怖いと思ったのは、初めてです」
「俺のこと、それほど大事にしてくれてるんだね」
「──嵐様は、わかっていて聞くのですか」
「わかってて聞いた」
霧島が嵐を見た。その灰色の瞳に、普段はない、剥き出しの感情があった。
「……ずるいです」と霧島は小さく言った。
「そうかもしれない」
食堂が静かになった。スープの湯気が細く上がる。
ルナがこっそり袖で目を拭った。リリアが窓の外を見ていた。サクラが刺繍道具を取り出した。
みんなが、ここにいた。
────────────────────────────────────────
第24話(最終話)「鉄血のメイド団、ここにあり」
一期の終わりに、嵐はひとつのことをした。
全員を広間に集め、椅子に腰かけて、静かに言った。
「俺が二十歳でボスになったとき、正直なんもわかってなかった。書類は読めない、交渉はできない、戦い方も素人同然だった」
誰も笑わなかった。笑っていいのかわからなかったから。
「でも一年間、皆と一緒にいて、少しずつわかってきたことがある。俺がここのボスでいられるのは、俺が強いからじゃない。皆が強くて、賢くて、俺を支えてくれるから」
嵐はルナを見た。
「ルナ、君は誰よりも優しい。怒ったり泣いたりするたびに、俺がどれだけ助けられたかわからない」
ルナの目が潤んだ。
「サクラ、君は静かだけど、一番よく見ている。俺のことも、皆のことも。それが組織を守ってる」
サクラが視線を逸らした。でも口元が動いた。
「リリア、君は遠くから来て、ここに居場所を作った。それは君の強さだ」
リリアが背筋を伸ばして、目を潤ませながら敬礼した。
最後に嵐は霧島を見た。
「葵、俺を最初から今まで支えてくれて、ありがとう。君がいなければ俺はとっくにどこかで倒れてた」
霧島は一度、視線を落とした。それから嵐を見た。
「……嵐様がいなければ、私もどこかで止まっていました」
静かな広間。百名を超えるメイドたちが、二人の言葉を聞いていた。
ルナが耐えきれず泣いた。隣のメイドも泣いた。連鎖して三十人が泣いた。
「なんで泣いてるの!?」と嵐が慌てた。
「だって嵐様が良いこと言うから!!」とルナが叫んだ。
「リリア、ドイツ語で何て言ってる?」とサクラが聞いた。
「泣きそうだと言っています」とリリアが答えた。「ドイツ語でも泣きそうです」
霧島だけが泣かなかった。代わりに嵐の隣に来て、小さく言った。
「嵐様、来期もよろしくお願いします」
「よろしくお願いします、葵」
名前で呼んだ。
霧島の頬が、ほんのかすかに、春の桃色に染まった。
──世界最強の武闘派メイド団と、二十一歳になったボス。
鉄血の誓いが紡ぐ、この物語はまだ終わらない。
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