浮気性な夫が殉職したそうなので
帝国との戦争が始まって以来、騎士という存在は国を支える象徴であり、民にとっては祈りの対象でもあった。前線に立ち、王族と国境を守り抜く彼らの姿は、いつの時代よりも輝いて見える。
――少なくとも、外側から見れば。
私の夫もまた、その輝かしい鎧を身にまとった一人だった。彼は騎士であることを誇りにしていた。けれどその誇りは、いつしか思い上がりへと変質し、家の中では鋭い棘となって私を刺し続けていた。
「お前はいつも地味だな」
そう言われた日のことを、私はまだ忘れられない。
戦時中、贅沢を慎むのは妻として当然だ。王族やその近辺を守る騎士、その妻が倹約を怠れば、民に示しがつかない。けれど夫にとっては、そんな理屈はどうでもよかったのだろう。彼は私の質素な装いを「地味」と切り捨て、鼻で笑った。
だが私は言い返さなかった。言い返せなかった。
理由は簡単だ。反論すれば、彼は必ずこう言うからだ。
「王家にも信頼されている俺を、お前が止める権利などないだろう?」
そのたびに、こめかみの血管を浮かせ、剣の柄へと手を伸ばす。
誇り高き騎士が、血縁者である妻に剣を向ける──そんな行為は本来、ありえないはずなのに。
王家へ忠誠を誓った剣を、そのように軽々しく抜くなど、どうかしている。
それでも夫は、私が沈黙するまで剣を抜きかける手を止めてはくれなかった。
だから私は、今日も黙って見送るしかない。
「じゃあ、行ってくる」
そう言い、夫は鎧ではなく外出着をまとって家を出る。
向かう先は、毎日のように足を運ぶ花街。戦争中であるにもかかわらず、だ。
扉が閉まる直前、あの甘い香の混じった風が流れ込んできて、胸がまた冷たくなる。
私はただ、静かに扉が閉まる音を聞き、深く息を吸った。
騎士という名誉の裏側で、私は今日もひとり、己の心が擦り減っていくのを感じるのだった。
だから、そんな夫がある日当然のように愛人を屋敷へ連れ帰ってきても、私は驚きすら覚えなかった。胸の奥が波立つこともなく、ただ「やはり」という鈍い感覚だけが広がった。
「ニードル様の言っていた通り、地味で……いえ、素朴な方なのですね。
これじゃあニードル様が奥様を抱かないのも納得です」
愛人の女──サーシャが意地悪く笑いながらそう言ったときも、心は動かなかった。彼女の鋭い声はわざと私に届くように響かせていて、その目には勝ち誇った光が宿っていた。
けれど、私にはその光に反応する気力すら残っていなかった。
「サーシャのお腹には俺との子どもがいる。くれぐれも接触は控えるように」
夫がそう言い放ったとき、彼は当然の権利のように私の部屋、私のドレス、嫁入りの際に持ってきた私物まで、ひとつ残らず取り上げた。
その一つひとつが私がここに存在している証だったはずなのに、それが抜け落ちていくのを見ても、涙は一滴もこぼれなかった。
ただ静かに、心の中の何かが淡々と剥がれていく音だけがした。
「この屋敷の女主人は、そこの使用人もどきよりもサーシャの方が相応しいかもな」
「嬉しいわ、ニードル様!」
夫とサーシャの声音が、わざとらしく弾んだ。
私は床に膝をつき、冷たい石の感触を指先に受けながら、雑巾でひたすら床を磨いていた。ふたりの会話は屋敷中に響き渡るように大きく、まるで私の存在を踏みつけるための音のようだった。
だが私は、ただ横目にそのふたりを眺め、静かに目を伏せ、与えられた仕事をこなした。
今はそれしか、できることが残っていなかった。
◆
そして──終戦の一報が届いた日。
屋敷には重い鎧の音が立て続けに響いた。普段は静まり返っている廊下が、まるで別の場所になったかのようにざわつき、空気が張り詰めていく。
扉を開けると、薄曇りの空を背負って大勢の騎士たちが立っていた。
皆、顔に深い疲労をにじませ、それでも正装を整え、きちんと列を組んでいる。
戦いを終えた者だけが持つ、静かな緊張感が全身から滲み出ていた。
玄関の正面に立っていた、一際大柄な騎士が一歩踏み出す。
その背筋の伸びた姿勢から、この中で最も身分の高い者なのだろうと察した。
「ご逝去の報に接し、心から哀悼の意を表します」
低く、噛み締めるような声だった。
その言葉が玄関に落ちた瞬間、空気がさらに沈んだ。
続くように、周囲の騎士たちが次々に口を開く。
「心よりお悔やみ申し上げます」
「ニードルのおかげで、敵将を討ち取ることができました」
「彼こそが英雄なのです」
その声は震えていた。
甲冑をまとった大きな体格の男たちが、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
肩を震わせ、鼻をすすり、戦いの最中には見せなかったであろう弱さを、惜しむことなくさらけ出していた。
あの人が──今は亡き夫が──彼らにとってどれほどの存在だったのか。
まるで別人の話を聞いているようだった。
それでも私は、彼らの涙の重さだけは確かに伝わってきて、胸の奥に静かなしこりが生まれた。
一番大柄な騎士が、私に向かって眉尻を下げて微笑んだ。
まるで、「もう、すぐ終わりますから」と言っているような柔らかい表情だった。
私はかすかに息を吸い、その微笑みに曖昧な笑みを返した。喉が固く、うまく声が出そうになかったが、それでも言葉を絞り出した。
「……そうですか。最後まで立派に、務めを果たされたのですね」
そう言って、私はこの場にいる全員へ向けるように、そっと俯いて微笑んでみせた。
玄関に差し込む光が、涙を浮かべる騎士たちの鎧に反射してきらりと揺れ、静かで重い時間だけが、屋敷に流れていた。
◆
──翌日。
戦の終わりの余韻がまだ国全体に残るなかで、私が嫁いだ伯爵家は、公爵家へと昇爵することになった。
まるで急な嵐が過ぎ去ったあとに、突然眩しい陽光が差し込んだかのような、現実感の薄い知らせだった。
謁見の間は静まり返っていた。
玉座の前に立つ王は、まだ疲労の影を濃く残したまま、それでもゆっくりと私を見つめている。
顔色は蒼く、目元には深い皺が刻まれ、戦の重圧と喪失の悲しみがはっきりと浮かんでいた。
「ニードルは大変よく尽くしてくれた。その忠義に報いたい」
王の声は震えていた。
玉座の高い位置から響くはずの声が、今はどこか弱々しく、喉の奥で掠れるようだった。
言葉を発しながら、王の目尻には涙が溜まり、それが一筋、頬を伝って落ちていく。
私は黙ってその姿を見ていた。
王が涙を流すほど、亡き夫の功績は大きかったのだと、改めて思い知らされる。
あれほど家の中では傲慢で、私を踏みにじるように振る舞っていた夫が、国にとっては確かに英雄だったのだと──その事実が、ゆっくり胸に沈んでいった。
私は裾を整え、深く頭を下げた。喪が明けぬ未亡人として、悲しみを隠し、礼を欠かぬように。
「……身に余る光栄です。夫もきっと、天国で喜んでいますわ」
静かに、けれど確かな声でそう告げた。
玉座の前に漂う空気が少しだけ揺れ、広い謁見の間は再び静寂に呑み込まれた。
顔を伏せたまま、その沈黙を受け止めた。
私は心がどちらへ傾くべきなのか分からなくなるような、奇妙な重みに包まれていた。
◆
その日の夜。
屋敷には新たな爵位を得たとは思えないほどの静けさが満ちていた。
祝宴もない。弔いの余韻と、昇爵という現実が入り混じり、空気は重く沈んでいた。
私は自室の机に向かい、ひとつの手紙を書き上げていた。蝋燭の揺れる灯が、紙の上に影を落としている。
祖国――帝国への定期連絡。
淡々とした筆致で文字を並べていく。
無事、ニードルは英雄として処理され、
潜入した家門は公爵家へ昇爵した。
今後は社交界、ひいては王の信頼を勝ち取るべく、潜入は続行する。
今回特筆すべき点はなし。
それだけの報告文だった。
だが、紙を折り畳む私の指先には、妙に冷たい感触が絡みついていた。
まるで、この部屋の空気さえ帝国の影に染まっているかのように。
ふと、気配が揺れた。
どこからともなく、黒服の男が現れた。
足音ひとつない、影のような存在。私は驚かない。
彼が現れるのは、いつもこういう時なのだ。
私は静かに手紙を差し出す。
「……あのサーシャとかいう、屋敷に居座っている女も処分してくれたら嬉しいわ」
声は囁きのように細く、しかし確かに冷たかった。
男は無言で一礼し、手紙を受け取る。
黒い手袋に包まれた指が、紙をひどく軽いもののように撫でた。
そして影が揺れたかと思うと、男はそのまま気配ごと闇に溶けた。
手紙は滞りなく帝国に届くだろう。
そしてサーシャは――明日には跡形もなく消えている。
蝋燭の火だけが、揺れながらその予兆を照らしていた。
祖国とこの国の戦力は、長く拮抗したままだった。
どちらも決定的な勝利を得られず、しかし損耗だけは積み重なり、国力は静かに削られていく。
このまま戦を続ければ、どちらも共倒れになるのは目に見えていた。
双方が息を詰めて国境を睨み合う日々は、まるで砂時計が落ち続けるのを黙って見ているような、じわりとした恐怖を伴っていた。
だから帝国は、別の道を選んだ。
正面からの戦ではなく、内部工作──国を内側から崩すという手段を。
それを通達されたのがおよそ二年前のことだった。
潜入先として選ばれたのが、複数ある高位貴族の家門。
そして、私にはその家々の中で最も扱いやすそうだった男──ニードルが宛てがわれた。
記録によれば、彼はまだ騎士としての実力を備えていなかったようだ。戦場で腰を抜かし、震えて動けなかったという。
本来ならば軍の面汚しとして処罰されてもおかしくない。
しかし彼を英雄に仕立て上げなければ、内部から揺るがす計画は進まない。
敵国を欺くためには、どうしても嘘の手柄が必要だった。
──その日は、すべてが偶然で出来上がっていた。
偶然、豪華な甲冑を身に着けた敵国の兵が現れた。
その兵が偶然落馬した。
さらに偶然、その場にニードルが居合わせた。
そして、偶然をこれ以上なく都合よく掴むかのように、彼は震える足を引きずりながら近づき、倒れた兵の首を取った。
偶然、その兵こそ敵将だった。
首を掲げた瞬間──
戦場の空気を裂くように一本の矢が飛んだ。
その矢が偶然、寸分違わずニードルの胸を貫いた。
彼はその場で即死した。
英雄の誕生も、英雄の死も。
すべては偶然であり、計画のために整えられた真実だった。
私にも、祖国に家族がいる。
本物の夫も、私と同じくこの国への内部工作を任されていた。
潜伏中は接触もままならなかったが、つい先日、ようやく再び会うことができた。
──大勢の騎士の中で、ひときわ大柄だったあの男。
私の前で涙を流し、「ご逝去の報に接し──」と語った、あの騎士こそが、本物の夫。
この国には、夫や妻を亡くした時、一年間喪に服すという厳格な慣習がある。
私はその規律に従わなければならない。未亡人として、静かに、慎ましく。
そして喪が明けた後──
予定通り、私はこの国でも本物の夫と再婚という形で一緒になる手筈だ。
本来、すぐ再婚するのは悪手だが、本物の夫は騎士として実力も折り紙つき。王も認める婚姻となるだろう。
そして祖国の母に預けている息子を呼び寄せ、公爵家の嫡男として育てる。
ちょうど先月三歳を迎えたばかりの我が子。
彼はこの国における「公爵家の息子」であり、同時に「工作員二世」としての未来を背負うことになる。
そのための基盤は、亡き夫の英雄としての死によって整えられた。
私は書類に目を落としながら、ふと口元が緩むのを感じた。
……それにしても。
浮気性の夫が殉職したおかげで、やっと──
喉の奥で小さく笑いがこぼれた。
その続きを言葉にする必要は、どこにもなかった。
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