出会い
福村恒一が中野春樹と初めて出会ったのは、大学のある授業が始まる階段教室の一角だった。その日授業はほぼ満員に近かった。楽勝授業という呼び名が高い講義では、初回に試験その他の情報を先生方が説明することが多い。だから初回だけ出席して、その後はどこかへ遊びに行こうという魂胆のある学生達がたくさん集まっていた。入り口付近の端の席が一つだけ空いていた。
「すみません、ここ座っていいですか?」
「ああいいですよ」
それが恒一と春樹の最初の会話だった。まさかその後四十年後も二人で会い続ける友人になろうとは、その時は予想もしなかった。
先生が入ってくると、ざわざわしていた教室が静かになった。
「え~それでは皆さん授業を始めます」
「ご存じかとは思いますが、この授業ではまず日本という国の成り立ちがどのようにして始まったのか?その神話からまず説明していきたいと思います」
いきなり授業が始まったので、教室は少しざわざわし始めた。
「イザナギ、イザナミの尊におきましては、各種の伝説が存在しておりますが・・」
試験の情報を入手しようと思っていた学生達は少々面食らった。そのうちに後ろの方から教室を抜け出す生徒が表れ始めた。三十分もすると教室の半分くらいの生徒達がいなくなった。恒一達の回りもだんだんと閑散とし始めた。
「あの~良かったら外で散歩でもしませんか?」
「ああいいですよ」
恒一は退屈になったので何げなく春樹を誘ってみたが、まさかOKという返事をもらうとは思わなかった。
外に出ると、春のさわやかな風が心地よかった。大学のキャンパスは高校に比べるととても広く、一日では回り切れないほどたくさんのものがあった。二人は何となく並木道の方へ歩き出し、陸上部の人達がランニングしている一周三百メートルはあるグラウンドの回りにあるベンチに腰掛けた。
「クラスは何組ですか?」
「僕はF組です」
「それじゃクラスに何人か女性はいるのですね」
「いますよ」
「部活は何か入りましたか?」
「民族舞踊同好会に入っています」
「へえ~女性多そうですね、うらやましい・・」
背は低いけど、何だか感じのよい快活な春樹の風情に、女性の多そうなサークルに入っているということで、恒一の関心はますます高まっていった。今度は春樹の方がいろいろと尋ねてきた。
「制服を着ているということは、体育会に入っているのですね。何部ですか?」
「卓球部です」
「どれくらい練習するのですか?」
「ほとんど毎日、二時~八時まで練習します。日曜日は二週間の一度お休みですが、それ以外は十時~八時までです」
「すごいですね!」
尊敬のまなざしを感じた恒一だったが、むしろ自分の女性に対する奥手な性格がまだ気になっていた。その後も春樹と定期的に話をしたい気分になり、電話番号を交換した。
「そうしたら、今度は僕の家へ遊びに来ませんか?」
ある日、恒一は春樹に誘われて自宅まで行くことになった。当時は東部東上線など利用することもなかったので、西武線で本川越まで来た時にはちょっとした小旅行気分だった。
「霞が関?」埼玉にも東京都心のような地名があるのだなあというのが第一印象だった。駅で待ち合せ、てくてくと二人で市内を歩いていくと、やがて田園風景のある郊外の開けた所に出てきた。
「あっ、あそこにテニスコートがある!」
「ああ~あれはネットが壊れていてね~}
恒一は、大学のテニスサークルに入っている人達がとてもうらやましかった。練習が楽しそうというのもあるが、華やかなウェアで、女性達も沢山いて、いつも笑顔や楽しい会話が続き恒一にとっては夢のような世界に思えた。
「今日はうちに泊まってさ。明日どこかへ遊びに行こうよ!」
「それはいいアイデアだ。どこかいい所はあるの?」
「あしがくぼ果樹公園村。美味しいものがたくさんある!」
春樹の言った「美味しい」という意味が実は果樹とは別の意味が含まれていることを恒一は帰ってきてから知ることとなる。ただ、卓球部の練習が春のリーグ戦終了で三日間だけ休みになる、通称フリーの日というだけで恒一はうきうきしていた。あの忌まわしい学ランを着なくて済む、先輩のユニフォームの洗濯や、OBの方々が先輩と試合をする時の球拾いや、ランニングを含めたトレーニングの数々がなくなる、それだけで嬉しかった。
次の日は幸運にも朝から晴れてとてもいい天気だった。
「絶好の行楽日和じゃないか!これは期待できそうだぞ」二人の期待度はどんどん増していった。恒一は苦痛の練習から解放されるという安堵感で、春樹は何だか謎のぎらぎらした期待に満ちた高揚感でいっぱいだった。川越で西武線に乗り換え、所沢経由で西部池袋線に乗り、飯能を過ぎてしばらくたつと、あたり一面、春の新緑に包まれた風景でいっぱいになった。線路沿いには名前の知らない川が流れており、線路をまたいでいったりきたりを何度も繰り返していた。
「まもなくあしがくぼ、あしがくぼです。お出口は左側です」
ホームに近づくと電車はゆっくりとスピードを落としていった。ローカル線にありがちな光景だった。今日は休日とあって、結構たくさんの人々が降りて行った。家族連れあり、若い学生達もたくさんいて、改札口は一瞬のにぎわいを見せていた。
「ここは、駅を降りるとすぐに果樹園なんだ」
「へえ~何だか駅前だけは普通の市街地みたい!」
「でも降りてみると、果樹園あり、川ありで自然の風景をたっぷり堪能できるよ」
まあ、ここはカップルで来るところだ、恒一は一瞬そう思った。でも実際には意外と女性の友達カップルが多かった。中には高校生と思われる三人組、五人組の団体さんもいた。
「さあ、さっそくいちご農園にでも行ってみようか!」
春樹に誘われて、恒一は比較的傾斜のある坂道を登って行った。思った以上に傾斜はきつく、二人は汗をかきながら、ゆっくりと登っていった。
「恒一君、君の写真撮ってあげるよ。ほら、何かポーズ取ってみて」
「ピースぐらいしかできないけどいいかい?」
「おお~いい調子、いい調子。ちゃんと笑ってね」
春樹は坂道のあちこちで写真を撮った。イチゴ園の前に来るとそこでも写真を撮った。更にお店の人からカゴを渡されてイチゴ狩りを行う場所でも次々と写真を撮っていった。
「イチゴ園の中なんて写真要らないんじゃない?」
「いや~後でイチゴ狩りの楽しかった時の記憶がよみがえるのもいいじゃないか!」
「わかった、わかった。じゃあ君もカメラを置いて、イチゴ狩りしようよ」
イチゴ狩りが終わった後、坂道を降りて二人で昼飯を食べた。だがどうも様子がおかしい。イチゴ狩りをした時間と昼飯を食べた時間を考えると、春樹が写真を撮っていた時間が妙に長い。二人で並んで写真を撮ってもらったこともあったが、それは駅前とか飯屋の前だけで、後はほとんどが恒一の写真か、春樹が風景とおぼしきものを撮った写真ばかりだ。イチゴ園のおばさんや飯屋の若主人と長話をしているのも何か気になった。
帰りの電車の中で、春樹はせわしなくカバンの中の荷物を整理し始めた。
「いや~悪いんだけど、俺これから大学でサークルの打ち合わせをしなければならないんだ。このネガ、全部現像して一枚ずつ焼いておいてくれないか?」
「いいけど。今から大変だね」
「いやいや大したことないよ。それじゃよろしく」
東飯能駅で降りた恒一は、八高線に乗り換えて八王子方面に向かった。今日は楽しかった。久しぶりに休みが取れたし、晴れていて気候も良かったし、美味しいものを食べてゆったりとできた。卓球部の練習がある時はこんな日常は夢のまた夢だ。昼間、学食で昼飯を食べた一時間後には練習が始まる。昼間の三時過ぎにはいつもフットワーク練習でへばっている頃だ。休憩時間になると練習場を出た所の床に寝転がり身体を冷やす。一瞬たりとも動きたくはないが「練習開始~」という合図と共に練習場の中に入らなくてはならない。次の一時間はテーマ練習、一面を使って動くので体力勝負だ。高校時代はラリーが続かなくて悩んだが、大学に入るとラリーが延々と続くのが悩ましい。短いボールは入れ合いになり、長いボールはドライブの掛け合いになり、またまた短いボール。いい加減ラリーが終わって欲しいと思うこともある。
「ラスト五分で~す」
おお~その声を待っていた。次はトレーニングの時間だが、それまでに十分の休みがある。休み時間に恒一は生協に例の写真のネガを持ち込んだ。できあがりは明日だ。どんな風景の写真が取れているのだろう。練習休みの一瞬ほっとするひとときが恒一にとっては心地良かった。
「えっ、あいつまた彼女ゲットしたみたいだぜ!」
春樹の知り合いからその話そ流れてきたのは、翌日の学食での昼休みのことだった。どうも、果樹公園村の帰りは、サークルの打ち合わせではなく合コンだったらしい。恒一は春樹のフットワークの軽さにはちょっとビックリした。卓球のフットワークはつらいが、どうやら女性のフットワークはとてもうきウキウキするものらしい。
帰りに生協に寄って、やっとその謎が解けた。恒一の写真の後ろに移っていたのは・・何とすべて近くを歩いていた女性カップルないしは、若くて綺麗な女性の写真ばかりだった。
次に恒一が春樹と女性の話をしたのは、帝都大学病院の待合室だった。第三内科の病棟には多くの見舞客が訪れる。たいがいは患者のベッド脇に椅子を置いて、見舞客が患者の負担にならないようずっと寄り添っているものだが、恒一と春樹の場合は、話が話だけに他の人達に聞かれてはまずいことばかりなので、自然とテレビのおいてある休憩室でということになる。
あれから大学を卒業して、春樹はりっぱな銀行マンになった。一方、恒一も卓球部を続けたが、社会に出るのがイヤで、大学院を受けるという理由で卓球部を辞めた。そのまま研究者の道をたどれば問題はなかったのだが、大学院試験に落ちて民間企業に入り、四十代のベテラン世代の人達にいきなり囲まれ、急に人間的ストレスを受けたせいかどうかわからないが、白血病という重い病気を患って入院することになってしまったのである。
「おお~どうしたんだよ、ビックリしたぜ!」
「ああ、この通りだ。お見舞いに来てくれてありがとう」
「恒一は真面目だからなあ。仕事やり過ぎたんだろ、たまにはこうぱ~っと息抜きしてさ。バカな話でもしなきゃダメだよ。こう~なんかかわいい看護師さんとかいないの?」
春樹は話をすぐそっちの方に持っていくから面白い。見舞客で男性の本能をくすぐる話をもちかけてくるのは春樹ぐらいしかいない。
「まあ~いいよ、大事にしてな!」
春樹が帰ってから恒一は、今までに起こったことの一部始終を振り返ってみた。病院にいると、気が狂う程の時間がある。入院してきた人達は家族が帰ると、真っ先に一部始終の日常生活整理と様々な検査に追われ、それが済むと同質患者に対して、自分が今まで何をやってきたのか、どうしてこうなったのかをすべて吐き出す。延々とした身の上話が済むと、それでも気が遠くなる程の時間があることに気づき、「これから何が起こるか」ということに対する不安を少しでも考えないようにするために、他の患者の身の上話で時間を埋めようとする。そして個室に移り、亡くなっていくというのがお決まりのパターンだ。
だから、恒一には自分のことを振り返る、そしてしゃべる時間がたくさんあった。しかも他の患者さんに共通していることの一つが、女性関係に関する秘め事の話は一切しない、という不文律のようなものがあって、看護師と患者がどうとか、病室で愛人と奥さんが鉢合わせてケンカするとか、そういう面白いドラマのような話は一切なく、ただ世間話とか仕事の話とか家族の話ばかりだったので、意外と静かに思索にふける時間があった。
そうだ、僕は研究者になりたかったのだ、世間の様々な矛盾にさらされて、俗っぽい退屈なことで一生を終わらせたくなかったのだ。大学時代に学んだ発展途上国の人達の現状に対して、何か少しでも役に立つことを考えるため、国際交流機関で仕事をしたかったのだ。きれいごとだとか何とか言う人には言わせておけばいい。人見知りのおまえに外交的なことは向いてないと言われようが、英語は学んでおきたいし、入院中でも融通が利いて病院内でも勉強できる英会話学校に入学したのもそのためだ。
恒一は英語を学ぶようになってから一つ気づいたことがあった。外国人、特にアメリカ人は自己主張が強い。一方、恒一のように人と接するのが苦手な人でもその意見を尊重してくれる。日本人のように群れをなして内輪だけに通じる言葉を使って、なかなか他人になじめない内気な人を排除するような雰囲気はまったくない。何となく何もしゃべらないで笑うとか、内輪言葉を使う若い日本人の集団は、どうやら外国人でも違和感を覚えるらしい。英会話のグループ授業で若いブロンド姿の美人でも、彼女らの方から「Why、Why?」としつこく意見を聞かれるから、かえって自分の意見を主張してしゃべりやすかったのを実感した。
ただし・・自分は大学院試験に落ちて研究者の道を絶たれてしまった。これから日本人の社会でずっと生きていかなくてはならない。日本人社会の中では、恒一は場の空気を読めない「人見知り」というカテゴリーに属する。異性と付き合う時には、相手が興味を持つ話題を常に準備し、男性が女性をリードして段取りし、身ぎれいでNGワードやNG恰好に常に気を配る存在でなくてはならない。そんなことを考えていると、異性と付き合いたいという本能を満たすためには、本能とは逆行する多くの手続きと闘わなくてはならないことに気が付いた。
「ああ、看護師さんか・・でもな、こんなだらしない姿で一時退院した時に付き合ってくださいなんて言えるわけがない。それはともかくとして彼女が欲しい!」
恒一は看護師さんをくどくという行動には出なかった。ここでもまだ人見知りが治っていなかったのだ。恒一は熱にうなされながら、病室の中でとんでもないことを考え始めていた。
三
「課長、お願いします。会社に復帰するまでの間に一週間の休暇をください」
「うん、海外旅行か。こういう機会しかないな。わかった、気を付けて行ってきなさい」
「ありがとうございます」
恒一は課長に深く一礼すると、新しく設置されたパソコンルームに戻っていった。会社には随分と迷惑をかけた。新鮮な輸血が必要ということで若いB型の社員十五名が選抜され、勤務中に有給特別休暇をとり、検査のため急遽帝都大学病院に行くことになった。検査の結果、二名が適合したということで、無事輸血が実施されたのだ。白血病は初期段階では薬でかなりの赤血球、白血球、血小板が破壊されるため、一時的に輸血で補完しないと身体には相当のダメージが訪れる。白血球の減少は感染症の危険性が増すし、血小板の減少は血が止まりにくくなり、採血や点滴でも相当神経を使う。血液成分の不足は即、死への階段に近づいていくことになるのだ。中には大学病院での最先端の治療が受けられたにもかかわらず、輸血ができなくてあの世へ旅立っていった人達も何人かいた。適合率の高い十五名もの若い人達を集めるのは、大企業であることのほかに課長の強い人間力がなければ到底なしえない芸当であった。
会社に大迷惑をかけた上に海外へ行く、これは恒一にとって異性と付き合うための一種の賭けであった。ねらいは当然、海外旅行に行っている、または海外に在住している日本人女性。外国人のブロンズ女性などハードルが高すぎて想定の範囲外から当然はずれる。だが、もしホームスティだったら、ひょっとして同時期に泊まりに来ている日本人の若い女性がいるかもしれない。
病気になったことで、恒一はだんだんと一発逆転的な行動に出ることが彼女ゲットのカギになると思い込み始めていた。でも卓球で経験したように、逆転はそうそうあり得ることではない。恒一は意識しなかったが、運命の神様はすでに気づいていた。ついにこれが婚活ゲームの始まりとなることを。一回戦も二回戦もなく、いきなり決勝のゲームが延々と続く。そんなことも知らずに二十八歳の誕生日が過ぎた五月、恒一はサンフランシスコ国際空港目指して、ホームスティのオーナーが指定した時間に到着する便に乗り込んだ。
「ああ~泊まりに来るお客さんいるよ!」
日本語が流暢なマイクさんの車の中で、恒一はやった!軽くガッツポーズをした。サンフランシスコの道路は広い。片側五車線のベイブリッジを車は猛スピードで走っていた。初めて走るアメリカのフリーウェイ、その醍醐味にしばし酔いながら、恒一はマイクさんの言ったゲストが若い女性の日本人であることを祈った。片道五十キロはあったであろうか・・四十分程でグリム童話のヘンゼルとグレーテルに出てきそうなお菓子の家?が立ち並ぶマイクさんの家に到着した。
家には二歳になるハンナちゃんというかわいい女の子がいた。




