#55 ダウンフォール
二葉さんの傷の手当てを終えると、彼女の提案でオクトパスの部屋の捜索をした。日記帳のような「異質なアイテム」があるかもしれない、との事だった。でも、その期待は裏切られた。オクトパスの部屋はかなり簡素で、個室というよりも仕事部屋といったほうが良さそうな空間だった。彼女の人格を伺えるアイテムは何も見つからなかった。
「当ては外れたな、ミス二葉」
「少し、残念です」
隠された空間があるのかもしれないけれど、ヒントもないままにそれを見つけることもできない。ある程度の捜索を終えて、私たち一行はオクトパスの部屋を出る。
「オクトパス、どこに行ったのかな」
「ミオを取り返されてしまった以上、アイツが水族館を破棄するという行動に出る確率は低くなった。かなり取り乱している状況と見える」
らしくもない展開と思った。オクトパスが出て行った道を辿って出たら、水族館の広い広い廊下に出た。
ふとその時、何か黒い物体が廊下の片隅に座っているのが見えた。
「あれは!」
近づくと、それは影の獣だとわかった。
「プルートからの手がかりか?」
黒い影は、私たちを見た途端、道を駆けだした。私たちもそれを追うことにした。なんだ、プルートってば私たちを気遣う面があったなんて。
黒い影を追ってしばらくすると、床に血痕らしきものが見えた。
「戦った跡なのかな?」
それにしては、血痕がずいぶん長く続いていた。……ちょっとだけ、不安になってくる。これは、負けたプルートが逃げている……ってわけじゃないよね?
血痕は最初は十円玉くらいのサイズだったのが、だんだんと大きくなっていて、点ではなく線になって私たちを誘う。
「晴香ちゃん、これ……」
苦しそうな表情でシェリーが指差すその先には、プルートが履いていたスカートの布切れが、血に染まって落ちていた。
「嘘……」
増えていく血痕の量とあいまって、最悪な展開が頭をよぎった。
廊下は左右への分かれ道になる。血痕はというと、左の道へ続いていた。そこに来る頃には、血痕は血がこぼれた後というよりも、巨大な筆でなぞり続けたような、生々しい跡になっていた。
「っ……」
私の脚は震えていた。
「覚悟しておいた方がいいだろう」
わかっている。この先に待っている凄惨な場に備える。
そして血の主は見つかった。廊下の途中、壁にもたれるようにして力なく座っている。
「プルート……」
「……」
彼女のいる地点まで、相当な量の血液が続いていた。失血で力尽きている事だって、考えられた。だけど。
「……あなた、たち」
まだ、彼女に息はあった。
「大丈夫? しっかりして!」
「プル姉!」
シェリーとともに手を握った瞬間、その冷たさに言葉を失う。氷のような冷たさに、命のエネルギーは少しも感じられなかった。
「言わんこっちゃないぞ、プルート」
「ふ、ふふ……やったわよ。アイツ、相当焦ってる。槍の狙いもブレブレ、隔離の魔法も精度が低くて隔離にならない。もう勝利は目前よ」
「じゃあ……なぜ君は腹に槍が刺さっているんだ?」
「……え?」
レジーナの指摘した通りだった。へらへらと相手は弱いと嗤っているプルートの腹のど真ん中に、オクトパスの槍が貫通していた。
「そんなものないわよ? 私はこの通り、元気……」
と立ち上がろうとしたプルートだったけど、そんな力は残っていなかったみたいで、すぐにまた座り込む。
「あら、おかしいわね……」
「……待て」
レジーナはじっと、プルートの眼を覗き込む。しばらくすると、レジーナはため息を一つついた。
「コイツ、ヤクか何かやってるんじゃないか?」
ヤク、という言葉に馴染みがなく、少し考えて思い当たったのはヤバい薬物だった。
「なるほど、危険薬物を用いて、自分の認知を狂わせている……っていうわけね」
紫塔さんが冷静に推測をして、レジーナは頷く。
「でも、ちょっと違うみたいよ」
「違う?」
紫塔さんがプルートの目を見つつ、手を握って、そのあと血を流している腹部に触れた。
「これは強い自己暗示じゃないかしら」
「……ほう」
「どういう術なのかは分からない。でも、例えばシェリーを妹に似ていると思ったり、かと思えばプルート自身には兄弟姉妹はいなかったり」
それは……自分の認識を「自己暗示」で曲げていたってこと?
「少し感じるの。彼女の視線の中の魔力。お腹の槍が見えていないのは、視覚を魔力で騙しているんじゃないかしら」
そんなことが出来るんだろうか。
「まあ、可能性はあるだろう。……見た感じ、生きてはいるな。どうするか。コイツをまたログハウスへ連れ帰って治療をするか、それとも詰めの局面だから応急処置だけして、置いておくか……」
「レジーナ、詰めの局面だからこそ、一手を誤ってはいけないわ。プルートを治療しに行って欲しい」
「……そうだな。一応、このシリアルキラーは戦力にはなるだろうし」
「シリアルキラー?」
「詳しいことはハルカから聞いてくれ。健闘を祈る」
そう言うと、壁に虚数空間への穴が開かれる。
「無理はするなよ」
レジーナ、そして水蓮が重傷のプルートを担ぎながら穴の中へ入り込む。
「見つけたぁ!!」
その時だった。稲妻のような速さで、穴の中へ突っ込んでいくオクトパスが見えた。
「っ!? しまっ……」
「! 追うわよ!」
私たちも虚数空間へと入り込む。まずい。唯一の安全圏を壊される。それはまずい。そしてレジーナもピンチだ。
ログハウスに降り立つと、一瞬おそかったのか、すでに負傷したレジーナがそこにいた。
「……狙ってたわけか」
「ええそうよ。皆お馬鹿さんばっかりだもの」
さっきの二葉さんとのやりとりで失っていた威勢が戻っている。こちらも気圧されてしまいそうだ。
「こんな隠れ家があったなんて。いいわ。全部燃やしてあげる。あの虚数空間の狭間にあんたら全員を、有無を言わさず叩き込んであげるわ!」
「……っ」
室内だ。狭く、戦いにくい。おまけに薄暗いログハウスの中というのが悪条件過ぎる。
「紫塔さん、私、どうしたらいいかな」
ふと、口に出てしまった。ここまで、私は何の力もない一般人として過ごしてしまっている。またラボラスと取引出来たのなら。そんな微かな希望を滲ませた言葉でもあった。
「……少し、『彼』に語り掛けてみるわ」
そう言って、紫塔さんは目を閉じた。
「っ! やぁっ!」
レジーナは手にした剣で槍に応戦する。でもどうもオクトパスのほうが戦い慣れているのか、どう見てもレジーナが不利に見えた。
「スイレン!」
「ええ!」
部屋中の湿度がいきなり増したように感じた。
「そこォっ!!」
「っ!」
――オクトパスは槍をもう一本、手から生成し、それを水蓮へと投げつけた。目にもとまらぬそれは、寸分の狂いなく、水蓮の胸を貫いた。
「……かはっ」
大量の吐血とともに、水蓮は倒れ込む。
「スイレン!」
「まずは一人!」
「……!」
「水蓮ちゃん!」
紗矢ちゃんが慌てて彼女の元へ駆け寄ろうとする。
「ダメだサヤ! 来るな!」
「だって!」
私が紗矢ちゃんの身体を抑える。紗矢ちゃんは必死に行きたがった。
「どうせ死ぬのよ! あなたたち、美央以外全員!」
「そうはさせるか!」
レジーナが迫りくるオクトパスの槍を弾き、一歩踏み込む。
「槍のリーチは長い、が……!」
「ふふっ……」
「な……」
瞬間、レジーナの右脚を、また新たな槍が貫く。脚に当たったのはレジーナがギリギリで身を逸らしたからだった。
「ぐああっ!」
「いい声ねぇ……鬱陶しかったわ」
脚を貫いた槍で床に固定されたレジーナの眉間に、オクトパスの最初の槍が突きつけられる。
「さよなら」
「オクトパス!」
その瞬間、紫塔さんの声がその場に鋭く響いた。
「? 美央?」
「あなたの好きにはさせないわ!」
「……まだ分かってくれないの?」
「ええ、全然わからない!」
そうやりとりをする紫塔さんの背後で、私はあの悪魔と対峙する。これは作戦だ。紫塔さんがオクトパスの気を引き、その間にラボラスと私が取引をする。
「……ラボラス」
ここが正念場だ、ラボラスと話をつけよう。