#53 最後の晩餐
虚数空間の穴から出る直前、外の景色が見えた。そこにあったのは、忌まわしい下層の牢屋だった。まだ襲われてから数時間しか経っていないんだろう、生々しい血痕が広がっていた。
「待て!」
突如、レジーナの声が響いたと思うと、穴に働いていた重力はふと消失する。同時に落ちて行ってたはずの私たちの身体のスピードも、慣性を無視して止まった。
「外を見てみよう」
穴の外、外界の景色をレジーナはじっと観察する。
「……いないな。プルート、一応影を呼んで確認してほしい」
「指図しないでちょうだい。でも丁度それが必要だとは思っていたわ」
プルートの手から細い蛇のような影が伸びていく。それは穴の外へと抜け出して、そして。
「……いや、やっぱりいるな。蛇が死んだ」
大きな本を開いたレジーナは魔法を唱えて、剣を呼びだした。オクトパス戦で使っていたのと同じような剣だ。
「構えろよ。奴も本気で来るだろう」
構えると言っても、私には武器らしい武器はない。ともかく、相手の攻撃をまともに食らわないことだけは気を付けたい。
止まっていた重力がまた動き出した。
牢屋の中に、8人無事に降り立つ。来た時に感じた澱んだ空気、そこにおびただしい鉄の臭いが混じって、気分が悪くなりそうだ。
鉄柵の向こうには、蛇の影を刺した槍、そしてその主――オクトパスが待ち構えていた。
「どういうことかしら? あれだけ痛めつけたのに、どいつもこいつも無傷で帰ってくるなんて」
相変わらず不機嫌そうなその顔は、どちらかというと呆れているようにも見えた。
「オクトパス! お前、この水族館を棄てようとしてないか?」
「あら、勘がいいのね。ええ、美央を手に入れた以上、こんな掃きだめに用はないわ! 全員海の藻屑として消えなさい!」
「オクトパス様!」
開戦間際というところで、二葉さんが声を上げた。
「どうしたの、メイド? もう涙は止まったの?」
「オクトパス様、私……オクトパス様に、またお料理を食べてもらいたいです!」
「はあ?」
思わず声が出たのはオクトパスじゃなかった。ロリータ服の魔女が、メイドに辛辣な視線を送る。こんなバチバチの場面で何を言ってんだこの駄メイド! とでも言いたげな視線。しかし、オクトパスはと言うと、馬鹿にした風でもない表情だった。
「……」
意外なことに、オクトパスは考え込んでいたのだ。奇妙な展開に私たちの誰もが固まっていた。
「……ふん、いいわよ。ちょっと頭に血が上ってたみたい」
そう言ってオクトパスは槍を納めて、踵を返した。ついてこいと言わんばかりにゆっくり歩き出す。罠かもしれない、そう私たちの誰もが思ったけどここから奇襲をしたところですぐに反応してくるだろう。
あと、二葉さんが望んだことなのだ。もし二葉さんの望みが叶うのなら、それもいいではないか。少しだけ私はそう思って、オクトパスの行動を注視しつつもついていくことにした。
下層を上がる。でもそのルートは私たちが辿ったものとはだいぶ違う。階段を上がっていき、たどり着いたのは見慣れぬ客間だった。
「ここは……オクトパス様の部屋!」
二葉さんが反応すると、なんだか得意げな視線とともに、オクトパスは振り返る。
「そうよ。ここが、私の部屋」
「……どういうつもりだ? 敵を自分の部屋におびき寄せるなんて」
それこそ罠かもしれなかった。オクトパスの部屋にあらゆる仕掛けを用意して、私たちを皆殺しにする罠。私たちはそれにホイホイついてきた、という形になっても不思議じゃない。
「どうして? 食事くらい、自分の部屋で食べさせてほしいわね」
……他意は無いような気がする。
「さ、メイド。料理を頼むわ。少し辛いものを頂戴」
「わかりました」
そういうと、二葉さんはすぐに支度に離れて行ってしまった。
「……どうしよう?」
「さあ? あのメイドの事でしょう、全員の料理は作っちゃうんじゃないかしら? 話はその後にしましょう」
親切心があるような、オクトパスの言葉。オクトパスはもう食事の気分だと椅子に座って待っている。落ち着かないけれど、私も手近な椅子に座る。それを引き金に、皆も近くの椅子に座った。
「お待たせしました」
ほどなくして、二葉さんは大皿の麻婆豆腐を持ってきた。オクトパスの言う通りだ。
「……」
久しぶりの食事の前に、蓋をしていた食欲が暴れ出しそうになる。見た目、におい、熱、全てを兼ね備えたそれに、私は思わずヨダレを垂らしそうになる。
「……?」
ちらっとレジーナの顔が目に入った。怪訝そうな顔、目の前に用意された料理よりも、この状況の不可解さに置いてかれてしまっているとでも言いたげな目だ。
「あー! 待ちきれない……!」
「紗矢さん、行儀が悪い!」
なんだ、仲良さそうじゃん、水蓮と紗矢ちゃん。
「ではいただきます」
オクトパスが食べ始めたのを見て、他の皆も食べ始める。……。これは。
「うまい!」
頬がほころぶ。舌に乗った料理に、全神経が「美味!」と札を上げている! これだ! 今一番、身体が欲していたエネルギーは!
「あら、うれしいですね、晴香さん」
にっこり、二葉さんが笑ったのを見て、私は枷が外れたかのように麻婆豆腐にがっついた。
山のようにあったはずの料理たちは、いとも簡単に皆の胃袋の中に消えて行った。食事前、鋭い針のような視線を飛ばしまくっていたプルートでさえ、柔らかな表情をたたえている。
「ごちそうさまでした」
オクトパスが終わりの挨拶をする。彼女の前にある皿は全て空っぽだ。
「オクトパス様、完食なされたのですね」
「腹を満たすため、よ」
味気ない答え方。「おいしかったから」という意味はそこにはないのかもしれない。
「でも嬉しいです。不味かったら、オクトパス様は一口で食べるのをやめてしまいますもの」
「……そうかしら」
「そうですよ」
二葉さんから見えるオクトパスと、オクトパス自身が思うオクトパスは、どこかズレているのかもしれない。
「さあ、話を戻しましょうか。この水族館は破棄する、そしてあなたたちはそれを?」
「止めさせてもらう。お前を倒してな!」
場の雰囲気が急に張り詰める。レジーナが呼びだした剣がそれに拍車をかけていた。
「……」
「どうした? 人数の前に怖気づいたか?」
「……食後にそんなことをするのは、はしたないわ」
「……はぁ?」
一体どうしたと言うのか。なぜ彼女は先延ばしにするような言葉ばかり言ってくる?
「何のつもりだ?」
「メイド、食後の紅茶を」
「は、はい!」
再び二葉さんは支度に出る。何かオクトパスには狙いがあるのか?
「……オクトパス。あなたは歪よ」
聞き知った声に思わず振り向く。
「紫塔さん!」
「晴香、皆、無事だったのね」
紫塔さんこそ、見た感じはケガもなさそうで、何も悪い状態には見えない。
ふっ、と紫塔さんが一瞬笑って、また険しい顔になる。
「美央、呼んでないわよ?」
「――迷っているでしょう、オクトパス」
紫塔さんの言葉に、ぴくっと震えるようなオクトパスを見逃さなかった。
「あなた、自分の心理状態が何か変だと思い始めたんじゃない?」
紫塔さんの言葉の意味は、一瞬分からなかった。紫塔さんが「純血」の魔女だからこそ、なにか掴んだのだろうか?