#38 急襲、暗殺の魔女
あれからいくら経っただろう。相変わらず水槽が見える廊下は続いていくし、部屋の扉も多く見た。だけれどもう夜だからなのか、廊下に出歩いている魔法使いとはすれ違わなかった。時間帯に関係なく煌々と光る水槽が眩しい。
ただただ静かな空間に、水槽の、特に水の音が聞こえてきて、どこか重苦しい空気がある。なにか迫力というか、恐ろしいものに包まれている感覚がする。
広い廊下に誰もいないというのはそれだけで心細さが加速してくる。一人だったら私、きっと進めない。
「晴香、緊張してる?」
「ちょっとね」
「……私もよ」
「え?」
紫塔さんの顔を見ても、どこにも緊張している様子は見えない。むしろ安らいでいるような表情に見える。
「そうは見えないけどね……紫塔さん、ポーカーフェイス得意?」
「? そんなことは無いと思うけど?」
いや、紫塔さんは落ち着いている表情のイメージが強い。私よりもハートも強いと思う。
「私だって、こんな誰もいない廊下なんか、歩きたくないわ。ちょっと眠いし」
「そういやアタシも……」
紗矢ちゃんが大きなあくびをすると、それが移った紫塔さんもあくびをしようとして、噛み殺すような仕草を見せた。
(そういえば私とシェリー以外はちょっと変な起こされ方してたな……)
レジーナの追跡は手がかりもなく、進捗も分からない。もしかしたらこのまま夜通し探しても見つからないかもしれない。むしろその可能性のほうが高いと思う。
となったら、ここは一度休むのも手だろうか? でもレジーナは探したい。どうしよう。
「大丈夫? 紫塔さん、和泉さん。私、いっぱい寝ちゃったから……」
「気にしないでシェリーちゃん、ちょっとは寝たし、一日徹夜したくらい、大丈夫だって」
「そうね。でも……」
「でも?」
「私たちに限界が来たら、シェリーに見張りでも頼もうかしら」
「紫塔さん! その時は私も寝る!」
どうにも力が抜けちゃいそうなやりとりに、私も緊張がほぐれちゃった。
その時、水族館内の明りが急に明滅し始めた。それまで無かった明りの異変に、ほぐれた緊張はすぐに戻ってきた。
「え……?」
「皆、気を付けて。何かいるかもしれないわ」
「! ガルルッ!」
ヘレナが警戒モードに入った。つまり……。
「敵がいるってこと……!?」
紗矢ちゃんの言う通りだろう。明滅する明りは、暗くなる時間が少しずつ増えている。だんだんと、目で異変を捉えるのが難しくなってくる。
「いやな予感がするわ。……っ」
頭痛でも走ったかのように、紫塔さんは頭を抑えた。
「どうしたの紫塔さん?」
「魔力を感じる……! 強くて、危ない奴を……!」
声音からして、それはかなりヤバいものだと伝わってきた。必死に周囲に目を凝らす、耳を向ける。だけれど、ずっと闇の中ならまだしも、一瞬明滅を繰り返す光がノイズになって、目はまともに異変を捉えられない。だからじっと聴覚を研ぎ澄ませる。
「……待ってよみんな。何か、変な匂いがしない?」
「え?」
匂い、と言われてやっと嗅覚を気にしだしたころ。
「う、うああっ!」
聞いたこともない悲鳴が近くから響いて、目をやる。手首を抑えた紫塔さんが座り込んでいた。
「紫塔さん!」
「ぐ、ううっ……!」
一瞬の光の中に映った光景に、私の胸がドキンと跳ねた。紫塔さんの右手首から、だらだらと赤い液体がこぼれていたのだ。血……血だ……!
「晴香、皆、相手はものすごいスピードで、音もなく迫ってくるわ! 集中を切らしては駄目!」
叱るような言い方に、私は神経を尖らせて辺りに気を張る。……ただ、紫塔さんが謎のケガをしたことが、心の中でざわついている。
「ヘレナ、見えない?」
「グウッ……!」
ヘレナは鉈を持って、すぐにでも敵を討てる構えだ。でもあのヘレナでさえ手を出せないような攻撃をして来る相手なんて……!
「うああっ!!」
また、紫塔さんの悲鳴が響いた。ちらと目をやると、今度は足首から出血している。なんだ、なにが迫っているんだ!? ヘレナですら追えない何かが、紫塔さんを襲っている! 既に座り込んだ紫塔さんを囲む様に私たちは立っていたというのに、それをかいくぐってまで彼女を攻撃する何かが、私には見えない。
「狙いは……紫塔さんだよ!」
シェリーの声でハッと気を取り直す。そうか、相手が魔女というのなら、魔女同士で戦おうとするのもどこか理解できる。
じゃあどうすればいいのか。相手の手は何だろう? いったいどこから襲ってくるんだろう。それに対抗できる手段はあるのだろうか。色んな問いが渦巻いて、押し寄せてくる。
「手、足……じゃあ、次はどこだろう?」
今紫塔さんは右手、左足をケガしている。じゃあ次に狙われるのは、残りの手足……?
「紗矢ちゃん、右足を見てて! 私は左手を見とくから!」
「うん!」
立てなくなって仰向けに倒れ込んでいる紫塔さんの、それぞれの部位を見張る。シェリーとヘレナは周囲を見る。チカチカ点滅を繰り返す視界は、どうも見づらい。だけれど、ここで捉えなくちゃ、紫塔さんが危ない!
「ここだっ!」
そう声を上げたのは紗矢ちゃんだった。何かを見つけ、踏みつける。だけれど手ごたえは無かったみたいで、すぐにその足を退ける。
「今、確かに黒い何かが、アタシには見えた!」
「黒い……?」
明りがしばらく消え、再び一瞬点灯して。その明るみの中に私は答えを見つけようとしている。けれど、そこには見えない。暗がりの中を悠々と動いて、明るくなった瞬間、姿を隠しているのではないか? じゃあ、私が目を凝らすべきは暗闇の中だ。
パッと明りが消える。薄暗い中、煌々と水槽だけが光る。その中で動く怪しいものを探す。見つかるか? 何かいるか? 少しでも怪しく動く物があれば、それがきっと刺客だ。
「晴香ちゃん、目を瞑って」
「シェリー? 何を」
「次の点灯をやり過ごして」
そうだ、その一瞬の点灯が邪魔なんだ。私はシェリーに言われた通り、目をつむる。閉じた瞼の向こうが点滅したのが分かって、すぐ目を開けた。
「!」
……いた! 何か黒い、なんとも形容しがたい、知らない形の影が!
「ふっ!!」
思い切り、それを殴りつけるように拳を降ろした。
どん、という確実に当たった衝撃、そしてそいつの皮膚なのか、何かヌメっとした、気持ちの悪い感触が手に残る。次の瞬間、一瞬だけ光に包まれて、拳の下の影は消えた。
「当たった。けど、仕留めきれてない!」
まだ警戒は解いちゃいけない。この暗闇、まだ相手は仕掛けてくる気だろう。狙いが紫塔さんと分かっている今、一番注意すべきは紫塔さんの周囲だ。
「……アタシの勘だけどさ。はるっちには見られた。アタシにも見られた。となると……次に狙うのはシェリーちゃんの近くじゃないかな?」
「そうかも、和泉さん」
シェリーはキョロキョロと紫塔さんのほうへと注意を向ける。これで三人、紫塔さんを見張る形になった。
「ヘレナ、目を閉じて、匂いで相手を追って」
シェリーの指示に、ヘレナは頷いて目を瞑る。
二回、点滅した。一度明るくなるのをやりすごした後にもう一度眩しさに襲われたのだ。私たち三人は視界を奪われる。けれど――。
床を豪快に割る音が聞こえた。同時に何か飛び散ったものが、私の足を汚した。
「ウオオッ!」
ヘレナの鉈は、影へ切り込んでいたのだ。
「ヘレナ、やっちゃって!」
「グオオオッ!!!」
ヘレナが天井近くまで大きく跳び上がり、そのまま床へ、鉈を叩きつける。鉈に巻きついている影を、そのまま断ち切ろうとしている!
「!」
そこで、廊下は明るくなる。同時に、鉈に食い込んでいた黒い影も、消失した。
「っ、見失った!」
「……いいえ、奴はここにいるわ」
明りの中、紫塔さんは左手で何かを掴んでいる。透明な空間に見えるそれに、紫塔さんは何か感じているのかもしれない。
「出てきなさい!」
ヘレナが鉈を、紫塔さんの掴んでいる「何か」に構える。次に暗くなった瞬間、それをヘレナは振り下ろす気だろう。
コツコツ、と靴音が廊下に響く。その方向へ目をやる。きっと、そこにこれをやっている魔法使いがいるはず――。