#34 再戦のゴング
オクトパスへ必死の呼びかけをした途端、ヘレナの部屋に何かが崩れるような轟音が響いた。
「! グルルアッ!」
さっきまでシェリーのそばでウトウトしていたヘレナが警戒するように吼える。
「……心苦しいわ、美央。今日の夕食を、満足に届けられないなんて……」
振り返ると、そこにいなかったはずのヴァサーゴの魔女が立っていた。
「オクトパス……」
「ここは『私の』水族館なのよ。飛んでくるなんて造作もないわ」
本当に瞬間移動でもしてきたような口ぶりだ。たぶんその通りなんだろう。
「ごめんなさいね美央……うちのメイドが目覚めないばかりに……私が何かあなたに作ってあげようとも思ったのだけれど……」
「けど?」
「私……お料理は、自信が無くて……そんな私が作った代物を、美央に食べさせるのは、あまりに失礼と思ったのよ」
「……。他に料理の作れる人間はいないのかしら?」
「この水族館を探せばいるのかもしれないわね」
紫塔さんが納得する様子はない。
「そうではなくて、こういう時のための人員はいないのか、という質問よ?」
「あら」
指摘されると、オクトパスは半泣きだった表情をすっと収めて、いつもの仏頂面に近いものになる。
「いないわ。たいていはメイドが回復するもの」
「……?」
どういうことだろう。二葉さんがダウンした時の人員の話をしているのに、なにかズレた答えだ。
「……二葉の代わりの人員はいない、ってこと?」
「ええ。……おそいわね、メイド。さっき起こしたところなのに」
それは……麻酔を食らった後、どうにか起こして、そして料理もさせた……ってこと?
「あなた……それでまともな料理が出来ると思う?」
「させるわよ。できるできないじゃない、させる」
「それって、二葉ちゃんの負担を何一つ考えてない……ってことだよね、ヴァサ子」
「不快な呼び名はやめてちょうだい。関係ないわ。仕事というのは決まっているものなの」
「……あなた、経営者としては三流ね。――」
やっぱり、コイツは普通の人をモノか何かと勘違いしている。酷い見下しだ、虫酸が走る。
「電話でもかけようかしら。ふん、人間って使えないわね」
そう言うと、オクトパスは懐からスマホを取り出してすぐさま電話をかける。相手は3コールほどあとに出た。
「……もしもし、オクトパス様」
「メイド、あなた随分遅いじゃない。起こしてもう10分よ」
明らかに、電話の向こうの二葉さんの声には元気がない。寝起きにしても弱々しくて、聞いてられなくなる。
「ただいま、調理中です……まだ、少しお時間が……はぁ、はぁ……」
「既定の時間は過ぎているのよ? 一秒でも早く提供できるよう、尽力なさい。美央はじめ、皆待っているのよ」
「申し訳、ありません……」
なんだってこんな人の使い方をするんだ? 物扱いだとしてももっと丁寧にできないのか?
「オクトパス……もう少し、人の扱い方ってあるんじゃないの? それでもこの水族館の管理者?」
電話から顔を話して、オクトパスはこっちを睨む。
「管理者だからこそ、使えるパーツは最大限まで使う。それのどこが問題なのかしら、一般人?」
「二葉さんは病み上がりじゃないか! それをどうして100パーセントの働きをさせようとしてるんだよ!」
「ご不満? ここの館長は私。あのメイドをどう扱おうが私の勝手よ? 幸い、地上でブラック労働とか言われそうな働き方をさせたって、取り締る奴なんかやってこないわ」
好き勝手述べるあの魔女に、苛々してきた。何か次の言葉を探しているうちに、紫塔さんが援護射撃をしてくる。
「私から見たって……あまりいい運用じゃないと思うわよ。これは感情抜きにして、よ。ここで二葉を使い潰してしまったら、ここの運営にも響くんじゃないかしら」
「美央の言葉は一理あるわ、でもね」
声音を優しく、オクトパスは紫塔さんに返答する。
「あのメイドは、根性だけはあるから」
……ダメだ、話になってない。思わず私は首を振っていた。コイツに何言っても無駄だろう。
「オクトパス、あなたのやり方は非効率、と言っているのよ。ここは二葉に十分な休養を取らせるべきよ。私の言葉なら、あなたも聞く気もあるんじゃないかしら?」
「でもね美央……現実問題、この水族館に収容されている、100人余りの食事を調理できる人間というのがいないのも、事実なのよ」
「……」
そう言われてしまえば、ちょっと困った事態でもある。100人以上の料理をつくるスキル、私たちにだってあるわけでもない。オクトパスを批判したって、夕食がポンと、誰も悲しまずに出てくるわけでもない。
「それだったら……なおさら、二葉さんにそんな大変なこと、させちゃ駄目じゃないか!」
「一般人。批判は代案を持ってきてからにして。口論なんて非効率よ」
元々はあんたがロクな運営を出来てないせいじゃないか……! そう喉まで出かけたけど、それを訴えたところでオクトパスの言う通り、非効率な口論な気がして、どうにか堪える。どうすればいい、夕食なんか一食抜いたっていい、ただ……ムカつく! こんなクソったれに二葉さんが苦しめられていることが!
「なんだか騒がしいと思ったら……館長さまが何用だ?」
「レジーナ……!」
きっと私たちが思っていたよりうるさく騒いでいたから、起きてしまったんだろう。でも待ってくれレジーナ、今君が事情を知ったら、ここは惨劇の現場になってしまう!
「レジーナ、なんでもないよ」
「何でもないことはないだろう? おそらく、夕食のお詫びってところか?」
「詫び? 違うわ混血。美央たちと夕食をどうするかという話し合いをしていたのよ」
ちら、とレジーナはこちらを見てくる。
「……君たち、ここの運営に口を出せるのか? 特別扱いだな?」
「二葉を苦しい中で使役するのはどうか、って言っていたのよ」
私の気持ちなどお構いなしに、紫塔さんは事実を彼女に語る。すると、レジーナは予想通り、目付きが鋭くなる。
「……ミス二葉、魔女とのトラブルで寝ていたのでは?」
「紫塔さん、これ以上は……!」
すると私の肩に誰かの手が置かれた。……紗矢ちゃんだ。
「多分、もう隠せない。それに、はるっちもヴァサ子にムカついてる……そうじゃない?」
「それはそうだけど……」
だからと言って、また戦ったら、またとんでもないことが起きてしまう……!
「二葉はあの後起こされて、この施設全員分の食事を今作っているらしいわ」
「……どう考えても、万全の体調ではないと考えられるが」
「ええ。だから、私たちが抗議していた、ということよ」
ああ、始まる。戦いのゴングの音が聞こえた。
「オクトパス。どうやらリスクヘッジにおいて、お前の運営はヘタクソと言わざるを得ない。他の人員くらいあらかじめ用意しろ」
「ふん、あんたに指図される筋合いはないわよ。あのメイドをどう扱おうが、私の自由だもの」
「……頭の固いお方だ。どうやら聞く耳を持たないらしい」
ああ、ダメだ。
「お前に喧嘩を吹っ掛けたい。……そう思ったが、いい機会だ。今ミス二葉はどこにいる? 私がミス二葉に協力する、と言ったらどうだ? 悪い話ではないだろう? 館内へ食事も用意できる、そうすれば館内で暴動が起きる可能性だって、下がるだろう?」
いい意見だと思う。もしかしたらレジーナは料理が得意なのかもしれない。
「駄目」
――だがオクトパスはそれを蹴った。
「あのメイドが苦しむさまを見るの、嫌いじゃないのよ」
スンッ、と風を切る音がした。何かが私とレジーナの間の空間を通り抜けたのだ。
「チッ……」
舌打ちをしたレジーナの手には、例の大きな本が握られていた。
「腐ってやがる。腹が立つ。例え私が負けると分かっていても……お前に痛手を負わせてやらんことには……」
レジーナの周囲に、楕円の穴たちが幾つも浮かぶ。
「怒りが収まらんからな」
その言葉を受けて、オクトパスも不敵に笑い、その手に黒く、細い槍を取り出した。
「リベンジ、ということね」
「ああ、……そうともッ!!」
レジーナの絶叫が部屋に響き渡る。また、始まってしまう。無力な私はただ、引き下がることしかできなかった。