#30 虚数空間
壁の穴の中に飛び込んでいくと、まず地面が無くて、自由落下に襲われる。
「わ、わあああああ!!」
思わず、私は声を上げる。紗矢ちゃんの叫び声も聞こえた。ふと横に同じ高さで落ちていくシェリーの顔を見ると、……笑顔だった! うそ、平気なの!?
ドン! と強いけど、痛くはない衝撃に襲われる。どうも落ちてきた床が柔らかかったらしい。
「……っ、ここは……」
なにか、薄暗い空間に出た。いや、窓がある。そして、窓の外には……。
「月……?」
あれ? ここは……。
「気が付いたか? ようこそ、私の空間へ」
レジーナの声が聞こえて起き上がる。……ベッドだ。私はいまベッドに寝ていたのだ。
「ケガはないか? なにぶん、ここに他人を連れてきたのは初めてでね」
「……うーん」
辺りを見渡して、分かった。この鼻をくすぐる清々しい匂いは、木の匂い。床、天井、そこらへんに見える木の材質。なんだか懐かしい匂いに、思わず胸が熱くなる。
「ログハウス?」
紫塔さんが声を上げる。他の皆も、一つのベッドの上に敷き詰められるように寝ていたようだ。五人も……。
「ああ。私の趣味だ」
「えーっと……ここはどこ? レジーナちゃん、私たち、もしかして水族館の外へ脱出できたの?」
「いいや」
レジーナの回答は求めていたものじゃない。だけれど、ここどう見ても水族館の一部には見えないぞ?
「ここは『虚数空間』っていう、現実ではない世界だ」
「……えーっと……」
「虚数空間!?」
シェリーが食いつく。
「あなた、そんなすごい魔法を使うの!?」
「……この子は、魔女ではないよな?」
「たぶん、漫画やアニメみたいで興奮しているのかと……」
なるほど、とレジーナは納得し、鼻息の荒いシェリーをベッドに座らせる。シェリーは無意識に立ち上がろうとしていたようだ。
「まあ、こんな狭っ苦しい寝室で話すのもアレだ。案内する」
そう言って、レジーナは部屋の床に伸びていた梯子(梯子!?)を降りていく、。ともかく、私たちもそれに続いていく。
梯子を降りた先には、立派なリビングが広がっていた。ただ、部屋のあかりは薄暗く、暖炉の火が部屋を照らすのみだった。
「なんというか、その……『イメージをそのまま具現化した』って感じの民家ね」
「そう思ったか? 正解だ」
正解? なんか私の思っている答えと、なにか違う気がする。
「ここは、私のイメージを投影して作った空間。私が居心地がいいと感じるままに作り上げた仮想の世界だ」
「……えっと」
よくわからない。なんか頭がチンプンカンプンだ。
「夢の世界……みたいな感じ?」
「少し違う。実際に私たちの実体はこの空間にある。が、この空間自体がそもそも現実同様の存在ではないんだ。……まあ難しいから異空間、とでも考えてもらえればいい」
やっぱりレジーナの放つ言葉は難しくてよくわからなかった。これ以上考えても頭がショートするだけだろう。
「……異空間、って、レジーナちゃん、この外はどこに繋がっているの?」
「繋がっていない。ただ一軒のログハウス、それを支えるのに最低限の陸地、気持ち程度の庭。そして実在しない星座の広がる夜空。それだけしかここにはない。海が窓から見えると思うが……」
言われて、窓から外を覗く。確かに海は陸の外に広がっている。
「あれは虚数空間の果て。生身で突っ込んだら、現実と虚数の狭間で切り刻まれて、おかしな存在になってしまう」
何を言っているか、さっぱり分からない。だけれど、なにか怖いことを言われているような気はしている。
「……難しい言葉を続けるのね、レジーナ」
「私の中で使っている単語を使ってしまっていたからな。伝わらないのは無理もない。なにせ、私が汗水垂らして開発した魔法だもの」
そうか。もしかして、これがレジーナの持つ固有の魔法なのか?
「レジーナの魔法、これ?」
「いや違う。……魔女さん、君には分かるんじゃないか? 私のやってることが」
「そう言う事? なんとも不器用な魔法ね」
紫塔さんには分かったらしい! ダメだ、頭くらくらしてくる。コミュニケーションが全然取れない……。
「みおっち、どういうこと?」
「私の経験から言えば……」
少し言葉を整えて、紫塔さんは解説した。
「魔法、というのは、どうやら一人一つ、固有のものを持っているの。私だったら……晴香、分かるわよね?」
レジーナに能力がバレないよう配慮したんだろう。シェリーたちは首を傾げているけれど、私はわかる。『改変魔法』だ。
「それは訓練次第で、能力が上がったり、成長させることができるの。でも、私は色々魔法を使っているわよね?」
「うん。いろいろ不思議なことやってるよね、みおっち」
『気配消去』を筆頭に、様々な魔法をやっている。
「それは、以前他の魔法使いから教えてもらったものなの。でもそういうのは、そこから発展させることができない」
「……ってことは」
「レジーナがやっている、『魔法を開発する』というのは、普通はおかしい事なのよ。――『発展』させることが、固有の魔法でない限り」
……はっ、と照明がついたような、スッキリ感が私の脳内を包んだ。……それって……!
「ご名答。いかにも私の魔法は発展――というよりも『構築』する魔法だ」
いつ淹れたのか、レジーナはコーヒーを口に運ぶ。
「様々な魔法使いたちに渡されたのが便利な道具だったとして、私に渡されたのはペンだ。これ単体では何も出来やしない。だが、それで書き記し、式として構築し、フォーマットを整えれば、……魔法が出来上がる」
ほう……と感心してしまった。恐ろしい能力ではないだろうか? それを駆使すれば、あらゆる魔法が自分の手に出来るわけだ。
「だが、私はこの魔法を強いだとか思っていない」
「え? どうして?」
「構築にあまりにも時間がかかりすぎる。この虚数空間の魔法に費やした時間、当ててみろ、ハルカ」
急に当てられて、頭が真っ白になる。えーと……。
「三日、とか?」
「外れだ。シェリー、君は?」
「んー、一か月?」
「外れだ。ミオ」
「半年?」
「まだだ。最後、当てられるか? サヤ」
「……アタシの勘は言っている。二年」
いや、もう少し刻んでよかったんじゃない? 一年って回答は残ってたよ?
「正解だ」
「えっ!?」
「立派な魔法一つ開発するのに二年だ。これでは、あまりに実用性が無さ過ぎる。それも、あの水族館で幽閉され、暇を持て余し続けて構築できたもの。仕事や学校のある普通の人間だったら、恐らくその五倍はかかってしまっていただろう」
う、そ……。それは、気が遠くなるような……。そんなひたすら、カメの速さで歩き続けるような魔法は……私だったら、「要らない」って言ってしまうかもしれない。
「……。なんだか、ごめんなさい。不器用だなんて言ってしまって」
「実際そうなのだから、君が謝ることじゃない、ミオ」
場の雰囲気が重い。薄暗い空間もそれに拍車をかけている。パチパチ、暖炉の薪が焼ける音だけが聞こえる。
「……実際、他の魔法使いたちが羨ましい。すぐにとてつもない力を発揮して、あげくそれを進化させられるのだから。君も恐ろしい力を持っているのだろう? ミオ」
「……そうね」
「なぜ、私の血はそんな貧乏くじを引いたのか……考えるだけで馬鹿らしくなる」
レジーナはコーヒーをすする。ふと何か気付いたのか、レジーナは慌てるようにカップを置いた。
「君らも飲むか? コーヒー」
客をもてなしたかったらしい。気を取り直して、その厚意を受け取ることにした。