#2 「純血」の魔女
甲板へ行くとすでに真剣な面持ちの紫塔さんと、不安そうな顔をしたシェリーが待っていた。
「どうしたの?」
「あれよ」
紫塔さんが遠くの海上を指さす。その先には、鉛色の空間が見えた。嵐だ。大嵐が私たちの船の往く手を阻む様に、どこまでも続く横一線の壁になって待ち構えていた。
「これは……天気予報は晴れだったでしょ? みおっち」
「ええ、そのはず。だけど実際に起きているのはあれよ。……今から引き返そうと思うの」
紫塔さんの意見はもっともだった。このまま大嵐の中に突撃したところで、無事である保証なんかどこにもない。それにそれをするメリットもない。
「今すぐ船を旋回させましょう! シェリーお願い」
「それが……」
シェリーが不安そうな表情を強める。嫌な予感がする。
「操舵系が言うことを利かないって……」
「ええっ!?」
「このまま嵐に直進する事しかできないみたい……」
それを聞いた私たちは言葉を失った。……私たち、かなり危機的な状況なんじゃないか?
「救命ボートで脱出はどうかしら!?」
「この船の速度で出しても、ボートに移るの難しいと思う」
……万事休すだ。このまま嵐に突撃して、船が転覆しないことを祈ることしかないのか……?
「こんなところで……」
こんな時、どうすればいいんだろう。まず外にいるのはかなり危ないだろうから、船内でやりすごす事になるはず。……船が転覆したら船の中で溺れてしまうことになるけれど。この状況でどうすればいいかなんて、私なんかに思いつけるはずもなかった。
「くっ、いったん室内へ移動しましょう!」
……紫塔さんの選んだ手も、この状況を切り開くものではなかった。祈ることにしよう。
快速で進んでいた船はすぐに嵐の中へと突っ込んだ。窓から覗く真っ暗な空、雷鳴、激しい雨。大きく揺れる船に安心感はなかった。
「きゃあっ」
揺れでバランスを崩したシェリーを支える。そういう私も危なかった。
「どうしようみおっち……」
「……どうかしら……」
紫塔さんもかなり頭を悩ませている。
「紫塔さん、魔法でどうにかならないの?」
小声で彼女に問うてみると、
「あれは日付が変わる瞬間にならないと使えないわ。今のままだと明日生きてるかすらも怪しいわよ」
……恐ろしい答えが帰ってきた。「この状況を打破できない」とは言ってないから、使うことができたらどうにかなるかもしれないけれど。
「『祈る』……しか、ないのかな」
そう口にしたシェリーの手はすでに、どこかへ祈る形を取っている。それはもう自分の手で出来ることはないという諦めの形。
「シェリーちゃん……」
「天災なんて、もう私たちにどうにかできる事態じゃないよ。祈ろう?」
「……そうだね」
紗矢ちゃんも少し諦めたかのように、手を合わせ始める。
二人して諦めたように見えた私は戸惑った。いや……確かに私たちに出来ることはもう無いような気がするけれど。
「っ……」
「晴香。たまには、いいんじゃないかしら」
「たまには、って……」
「どうしようもないとき、それでもただ何か好転してほしい。その時にできるのが『祈る』ことよ」
「……」
「何もできないとき、祈るというのは白旗を挙げることとはまた違うと思うわよ。晴香、私たちも祈らない?」
……そうか。諦める、というのは正直あまり気が乗らないけれど、私も手を合わせる。どこかへ、カミサマとは言わない。私たちの思いが通じてほしいと。
祈りは通じなかった。
荒れる大海原にちっぽけなクルーザーが抗えることもなく、簡単に転覆すると全てのバランスが狂ったんだろう、手を引かれるように海の中へと沈んでいった。私たちは船内で祈り続けていたから、もう逃げる事も出来なかった。こんな短い航海で私たちの道のりは閉ざされた。
気が付いたら海水が部屋の九割を満たしていた。ひっくり返って歩くこともままならないなか、十五歳の少女たちが船内を脱出することなど、できるわけもなかった。パニックの中事前に肺に空気を満足に入れられず、苦しくて、ただ何もできない時間が少し続いて、私は意識を失った。
目が覚めた、なぜか。目を開くと、薄暗い空間が広がっている。
まず私が目を覚ますことができたことに驚いた。これは夢なのではないか? とお決まりの確認、自分の頬をつねった。痛い。ああ、ということはここはあの世なんだ。私たちの船が海で転覆した事故というのは紛れもない事実だと思っているから、そう感じた。もしかしてあの船出こそ長い長い夢だった……となるともう何が事実か分からなくなってくるからそれ以上は考えない。
辺りを見回す。……沈没前、海水を吸って重かった服は乾いている。あの嫌な感覚は思い出したくはない。
他の三人の姿はすぐに見つかった。手がギリギリ届かないくらいの範囲に三人とも眠っていたのだ。彼女たちの服も、船で見た時と同じだ。
続いて場所だ。この薄暗い場所が何なのか、というのは考えるより先になんとなくわかった。
「魚……」
向こうに見える泳いでいる魚。それもかなり大きい、クジラのような魚が見えると他の種類の魚も見えた。それはまるで水槽の中を覗いているみたいで、「水族館」だと思った。
だけれどなぜ水族館? 私たちは水族館に漂着でもしてしまったんだろうか? 怖くなって、私はそこにいた紫塔さんの手を取って声をかける。
「ん、っ……」
紫塔さんが目を覚ます。起き方的に夜自然に眠ったという形じゃない。辛そうに身体を起こした紫塔さんは辺りを見回す。
「ここは……私たち、あの船で、沈んで……?」
紫塔さんも混乱している。どうも紫塔さんの中でも船が沈んだ記憶があるらしい。つまり沈没は夢じゃないと考えるのが自然だ。
「わからない。気が付いたら、みんなここにいたんだ」
「……。嫌なにおいがする」
におい? そう言われて嗅覚に集中してみる。すんすん。いや、何も変わったにおいはしない。紫塔さん、鼻も良かったっけ?
「晴香、分からないかもしれないけれど……私が感じてるのは、『魔力』のにおいよ」
紫塔さんの目は鋭く光った。同時に、私の心臓もキュッと締め付けられた。魔力……! それって……!?
「もちろんだけれど、この薄暗い空間を作ったのは、私じゃないわ」
「……どういう、こと?」
「魔女……私以外の、魔女の仕業よ」
嫌な予想が当たった。でも、それがどうマズいのかはまだはっきり分かっていない。
「得体のしれない空間、一刻も早く、脱出するしかないわ」
紫塔さんは真剣な面持ちで、まずはまだ起きない紗矢ちゃんやシェリーを揺さぶった。身体を揺らすと、二人とも目を覚ました。
「ん……かぁ~っ、良く寝た!」
のんきな声を出しながら紗矢ちゃんは起きて、シェリーは怠そうに起き上がる。
「おはようみおっち! いい朝だね!」
「全然いい朝じゃないわよ」
紫塔さんが紗矢ちゃんの両頬をつねると、理不尽な流れに紗矢ちゃんが悲鳴を上げた。
「なにすんのっ!?」
「しゃきっとして。今ここがどこか、あなたは分かる?」
そう言われてからやっと、紗矢ちゃんは辺りの暗さに気付いた。
「え……? あれ、そういやアタシたち、船の上にいた……はずだよね?」
「そうよ。ここがどこだか、私も晴香もわかっていないのよ」
「あれ……いや……んん?」
紗矢ちゃんが首を傾げ続けている。その後ろでシェリーがうつらうつらとしているので私が起こしに行く。
「シェリー、起きよう? ちょっとヤバそうな状況なんだ」
「えぇ」
「お顔マッサージする? ちょっと失礼」
うわの空な彼女の顔をもみもみ、もみもみ。目元も優しく拭って、髪も手櫛で梳いて、お口もハンカチで拭ってあげると、徐々に彼女の目に光が宿る。
「あ……おはよう世界」
「おはようシェリー。気分はどう?」
「うん、大丈夫……」
よかった、今回はちゃんと起動に成功したみたい。
「おはようシェリーちゃん、体調どう?」
「まあまあ」
シェリーも辺りを見てはハテナを浮かべている。
「ここどこ……?」
「わからない。気が付いたらみんなここにいたんだ」
その私の答えに、シェリーは困惑の表情を浮かべた。
すると、遠くからヒールのような靴の音がコツコツと鳴り響く。誰かが近づいている。もしかしてさっき紫塔さんの言っていた「他の魔女」とやらかもしれない。
……敵なのか?
私たちをここに閉じ込めた、という事実だけ見れば敵かもしれない。だけれど、私たちが嵐の中で息絶えるであろう運命を変えてくれた恩人とも言えるかもしれない。そんなことが頭をよぎった後、ぼやけていた靴音の輪郭がはっきりしてきた。
「来るわ」
「どうしよう紫塔さん、私たち……」
「とりあえず、立つだけ立って、身動きが取れるようにしておきましょう」
その言葉通りに、床に座っていた私たちは立ち上がる。……身体に違和感はない。走れと言われたら走れる。
「おはよう、魔女の一団」
やけにはつらつとした若い女性の声が、薄暗い空間に響いた。と同時にその場の空気が一気に張り詰めるような、妙な感覚に襲われた。
「んー? 私が見えるかしら? もっと、近くに寄ったほうがいいかしら?」
「来ないで!」
紫塔さんが警鐘を鳴らす。声の先にいる人物に向けて。
「つれないわねぇ」
しかしその人物が近づくのが靴音で分かった。……空間の薄暗さに、その姿はまだはっきり見えていない。
「来ないでと言っているわよね!?」
「何を言ってるの? ここは『私の場所』よ……?」
「っ……!」
つまり……この水族館みたいな場所の主がこれからお出まし、ということ。それは紫塔さんの言っていたことが正しければ魔女だ。
「そんなに身構えなくてもいいのよ? 『魔女』同士……仲良くしましょう?」
靴音がすぐそこまで来た。私の心臓は嫌でも跳ねあがる。
「あなた何者なの!?」
「私は……『ヴァサーゴの魔女』。私のことを呼びたければ、オクトパスとでも呼びなさい」
ついにその姿がくっきり見えた。奇抜なピンク色のロングヘアーが目立つけれど、それ以上に格好もなんだか現代離れした、見たこともない装飾が多い服を着ていた。カジュアルに舵を切ったそれらは日常で着る服というより、アイドルがステージで着るような派手な衣装という感じだ。
「ヴァサ子……」
「……?」
紗矢ちゃんがぼそっと呟いたそれに、オクトパスはさっきまで余裕に満ちていた表情を歪ませた。
「変な呼称はやめなさい、一般人」
「げっ、人種差別者……!」
なんだか雰囲気の悪いやり取りはそれで終えて、再びオクトパスは余裕の笑みを浮かべつつ紫塔さんに向き直った。
「さて、あなたのことは分かっているわよ、紫塔美央。いいえ、『ラボラスの魔女』」
その名前に紫塔さんは……。
「……?」
ピンと来ていない。私も彼女から『ラボラスの魔女』だなんてワードは聞いたこともない。彼女以外からもない。ラボラスってなんだろう?
「あらあら、あなた、自分の出生についてあまり知らないのかしら?」
「何を知っているの?」
「いいえ、知っていたのではないわ。調べたのよ、さっき」
……相当、なにか桁外れの力を感じる。紫塔さん自身ですら知らなかった事すら調べるリサーチ力も。
「うーん! こんなところで純血の魔女と出会えるなんてね!」
「さっきから何よ、純血とか、ラボラスとか、ヴァサーゴとか。あなた何の話をしているの!」
憤る紫塔さんに対して、オクトパスは余裕そうな笑みのまま告げる。
「出生……あなた、魔女の先祖が異形の悪魔ということはご存知かしら?」
「!!」
紫塔さんは驚きを隠せていない。以前、あの牧師が言っていたような気がする。「悪魔の血」だとか、そんなことをサラッと聞いたような気がする。
「私のご先祖はヴァサーゴ、そしてあなたのご先祖がラボラスという悪魔なのよ」
「なによ……訳の分からない話をしないで! そんな汚らわしい悪魔の血、なんて……!」
「事実よ。知らなかったのね。魔力の源は悪魔の血よ?」
「ぐぅっ……」
言われていることの理解を拒んでいるのか、紫塔さんが頭を抑える。私が彼女へ寄り添おうと数歩近づいたとき、オクトパスから鋭く声が飛んだ。
「近づくな一般人! 高貴な魔女の血が汚れる!」
「うるさいよ! 血だとか出生だとか、やかましい!!」
内心私も苛ついていた感情を吐いた。こういう見下すような奴は気に入らない。そもそもそれは紫塔さんの意思なの?
「なら……力を見せてあげる」
オクトパスが私のほうへ手を伸ばす。いや、こちらに掴みかかろうという伸ばし方じゃない。かざす、というのが正しい言い方かもしれない。
すると、紫塔さんへと伸ばした私の手が、何かにぶつかった。「?」と指先に視線を向けると、そこには何もない。何にぶつかったんだ……? もう一度紫塔さんへ伸ばす手は、確かに見えない何かに阻まれていた。
「これは……!?」
「晴香……? っ! これは、……あなた、魔法を!?」
「そうよ」
余裕な表情に、邪悪さが混ざったような気がした。
「私の魔法よ。一般人、あなたを今、隔離した。紫塔美央に指一本触れさせないように」
隔離、という言葉から私は自分の身の回りに手を伸ばす。……あらゆる方位に見えない壁のようなものが出来ているのが分かった。でも、これでは紫塔さんに触れるどころか、どこかへ動くこともままならない。
「なにこれ……! 放せ!」
「嫌よ。これから紫塔美央とたっぷりお話するんだから」
「みおっち! 逃げて!」
紗矢ちゃんの悲鳴のような声が響く。見ると紗矢ちゃんやシェリーも、紫塔さんに近づけないように魔法がかけられていたみたいだ。
「みんな……く、っ……」
「行きましょう、私は、あなたのような純血に出会うために、ここまで来たんだから……」
お構いなしとオクトパスは紫塔さんの手を無理矢理取って、そのまま来た道を歩き去ろうとする。紫塔さんは踏ん張るけれど相手の力が強いのか、抵抗出来ていなかった。
「紫塔さん!」
「晴香! ……このヘンタイ!」
その罵倒にオクトパスが振り向いた瞬間、紫塔さんの遠慮のないビンタが相手の魔女を引っ叩いた。私は内心、ちょっとだけガッツポーズを取った。
「っ……? あなた、今なにを」
「相手のことを思いやれないで、エスコートなんて出来るわけないでしょ!! 最低! デリカシー不足! 出直して!!」
紫塔さんの口からは聞いたこともない罵倒の数々。それが相手に刺さっているかは少し分からない。
「っ……うそ、でしょ」
でも、オクトパスの余裕に満ちた顔は、いつの間にか崩れていた。彼女は自分の掌を眺めて、何か考え始めた。
「まだ何か?」
「……」
オクトパスの表情。困惑、思考停止、予想外。思っていたシチュエーションとかけ離れて、パニクっている……ような気がする。
「あ、オクトパス様~!」
知らない誰かの声がする。そっちを見ると、なにやらメイドさんみたいな格好の女の人が立っていた。なんか結構背が高い。
「もう、朝食のお時間ですよ? どこへ遊びに行ってるんですか、探したんですからね」
固まったオクトパスをメイドさんが連れ帰ろうとやってくる。背が高いと思ったのはやっぱり正しかった。私より頭一個分くらい背が高い。そして……。
「熊耳?」
そのメイドさんのカチューシャが、熊耳の形をしていたのだ。
「あ、どうも。オクトパス様のメイドを務めています、二葉といいます」
裏のなさそうな明るい笑顔で挨拶をしてくると、そのままオクトパスの肩を抱いて元来た道を帰っていく。オクトパスも背が高かったけれど、それより二葉さんは背がおっきい。
二人はそのままこの場を退場していった。
「……なんだったの?」
締まらない雰囲気のままこの場を去ってしまった二人に、紗矢ちゃんが毒づいた。私も同じような感想だ。
「……なんだったのかしらね」
「紫塔さん、ケガはない!?」
なによりあのオクトパスに何か変なことをされてないか心配だった。
「ええ、大丈夫よ。手を強く握られたけど、それくらい。魔法的な悪戯もされてないわ」
「よかった……」
オクトパスが去るとともに、私たちを囲っていた隔離の魔法は解けていた。問題なく紫塔さんに近づける。
「なんか……めんどくさそうな人だったね」
「シェリーちゃん……わかるよ~!」
なんか……一目ぼれした人に何も考えず突っ走って事故る、みたいな人だったな、と振り返って思った。あれが魔女……?
「そういやみおっち、純血とか、ラボラスってなんのこと?」
「それは……私もよくわからない」
「そうなの?」
「紫塔さん、私『ヴァサーゴ』とか、『ラボラス』って名前、ちょっと知ってるの」
えっ? 声の主はシェリーだ。
「ネットで調べたことがあって、あの人の言う通り、悪魔の名前……なんだけれど、そもそも悪魔なんて空想の生き物だと思うの」
「そうよね。私も、その認識だったわ」
「聞いてもいいかな? 紫塔さん、幼少期はどんな過ごし方をしていたの? 多分、そこにヒントがあるような気がするの」
シェリーが訊いたことは、私もすごく知りたかった。紫塔さんは魔女としての運命を背負って、どのような生き方をしてきたのか。
「――少し、長くなるわよ」
紫塔さんは居住まいを正し、私たちに語り始める。