#15 魔女と人間の溝
多幸感に満ちた休息は、思ったより早く終わりを告げた。
あの奇妙な心地よさに身を任せて、そのあと私は「普通に快眠」したらしい。よかった、そのままポックリ死んでしまうなんてことが無くて。
目を覚ますと、まず身体の軽さに驚いた。なんだこれ? 体重がマイナスに振り切ってるんじゃないかってくらい、軽い。
頭の冴えもあるんじゃないか、と思う。私程度の人間が賢さが上がるとかは流石に思えないけれど。
一体なんでそんなとてつもない休息を取れてしまったのか、というのは分からないけれど、ともかく、一日のスタートを最高の気分で迎えることができた。
辺りを見回すと、みんな寝ている。もしかしたら早起きをしてしまったのかもしれない。すぐ横にはシェリーの姿が見える。……どうやら私の手を握っていたらしい。伝わっていたよ、シェリー。
「うーん……」
だけれど困った。私一人だけ起きてもなぁ。寂しいし、知らない場所だし、単独行動する気はさらさら起きない。そんな中、外壁の水槽を漂う魚たちに目が行った。ここは水族館なんだ。魚たちを楽しまないでどうする? そう思って立ち上がり、水槽のそばに寄った。
水槽は相変わらず、一定の明るさをもって、この部屋を照らしている。外壁が水槽なのか、はたまた外洋なのかはちょっとわからないけれど、一日中明るいのだから水槽のような気がする。
クラゲが漂うのが見えた。ふわふわと斜め上へと泳いでいくそれを、私は一心に見つめる。かわいいなぁ……。なんて言う種類だろう?
続いて向こうにシュモクザメが見えた。サメというだけあって、やっぱりどこか怖い。というか、動きが狩る側の、迫力のある動き。洗練された泳ぎに、思わず息をするのを忘れた。
「気に入ってくれたかしら?」
不意に声をかけられるまでは。
「ひぃっ!?」
「驚かせてしまったわね」
聞き覚えのあるその声、紫塔さんが忌み嫌う声。ヴァサーゴの魔女は、臆することなく、私の横に来た。その存在に、寝ている皆は誰一人気づくことはない。
「オクトパス……!」
今の私では到底、彼女に太刀打ちなど出来るはずもない。もし何か魔法で攻撃されたら終わりだろう。
「? なにを身構えているのかしら?」
「……だって、敵だし」
「安心なさい。今はあなたも、美央たちも襲うつもりは毛頭ないわ」
本当かどうかしばらく疑ったけれど、彼女の目線は私には興味がないと言わんばかりに、水槽のほうへと向いた。その目線はまるで、私同様、純粋に魚たちの世界を覗くためだけに注がれていた。
「綺麗でしょう?」
「……」
まだ警戒は解けないけれど、それはそれとして彼女の会話のトーンが、一般人に接するにはなんだか珍しいものと思って、この会話に乗ることにした。
「綺麗、だと思う」
「そう言ってくれて嬉しいわ」
一度沈黙が入る。ロクに続かない会話に、私は少し嫌なドキドキを感じ始めていた。
「どうしてここに来たの?」
「何って、ここは私の水族館よ? 私がどう動こうと勝手でしょう?」
それはそう。質問がおかしかったかな。
「まあ、用と言えば、あなたが意識を失ったと聞いたから様子を見に来てやったのよ」
「?」
「勝手に死なれては困るもの。どれをどう処理するか、それは私のタイミングで動かしたいの」
優しいかと思ったけれど、それは彼女の徹底的な支配欲の現われだった。……ちょっと! 死ぬタイミングでさえ、オクトパスに握られてるっていうの……?
「それが半分」
「え?」
ふと彼女のほうを見ると、――なんだか、少し寂しげに見えた。
「そんなことは、館内の監視機能やらで把握できる。もっと言えば見に来る必要なんかない。あとの半分は……」
オクトパスの目線は再び水槽に向く。大きなエイが優雅にひらひら泳ぐのが見えた。
「リフレッシュよ」
……意外だった。完全な悪の親玉とか思っていたから、そんなことを嗜むイメージは全くなかった。
「……海を往く魚たちのように。クジラのように、サメのように、エイのように、はたまたクラゲのように……泳げる限り、どこまでも行ける、あの魚たちを見ると……心がほぐれるのよ」
「……」
「魔女なんて運命に縛り付けられた私から見れば……あれは幸福よ」
なんだろう? 彼女、……辛いのかな? どうして私にそんなことを語り掛けてくる?
「ねえ一般人。あなた、すいぶん美央と仲がいいじゃない。どうして?」
「……」
ここははっきりと訴えておきたい。オクトパスがどう思おうが知らぬと、私は意気込んだ。
「友達だから」
「? それは? 美央が純血の魔女の血を引いているから?」
「違う。血なんか関係ない。紫塔さんと気が合うから友達なんだ」
「?」
オクトパスは眉をひそめる。意味がよくわからない、みたいな顔に見えた。もしかして私おかしなこと喋ってた? と思いそうなくらいの表情だ。
「気が合う、……? なによそれ」
「……わからないの?」
「? んん? 美央の血以外の理由で、どうして……?」
本当に困惑している。何か、この目の前の女はおかしいところがあるんじゃないか、と私の中でも感じ始めていた。
「ありえないわ。普通の人間が魔女と仲良くする理由なんて、その力を欲しているからに決まっているわよ」
「違うよ」
「……え?」
本気で理解できないという様子だ。――彼女のことがなんか分かった気がする。
「力なんか関係ない。紫塔さんが幸せになることが、私はうれしいから。それ以上に、一緒にいて楽しいから……それだけ」
「理解不能ね」
何も、オクトパスには理解できなかったらしい。
「私が会ってきた一般人は、どいつもこいつも魔法使いを虐げる連中ばっかりだったわ。浅ましい生き物、私欲と支配欲にまみれた下衆、それが人間。それを逸れた私たち魔法使いは、違う生き物よ」
「え……?」
「だから、私は魔法使いたちでこの世を支配するべきだと思うのよ。いずれ、あなたも私がボロ雑巾のように使い捨てる駒になるでしょうね」
「……」
分かり合えない。きっと生き方から何もかも違う。だから分かり合うことが出来ない。でも。
「……紫塔さんはそんなこと、言わないよ」
「そうかしら? きっと美央だって、一般人なんて見下しているわよ」
……は? こいつ、紫塔さんの何を知ってそんなこと言ってるんだ?
「紫塔さんの何を知って、そんなこと言ったの?」
「美央は魔女よ? 人間なんて邪魔くさいと思っているわよ。現に、地上のほうで美央を脅かしたのは教団――すなわち人間でしょう?」
それは教団が魔女を狙う集団だからだ。それがたまたま魔法使いじゃない、人間で構成されていただけの話だ。
「私の友達を、侮辱しないで」
「侮辱? なにを?」
「紫塔さんはそんな人でなしじゃない!!」
思わず動いていた右腕は、オクトパスのこめかみを狙っていた。だけれど、しっかりその腕を掴まれてしまった。
「なにを熱くなってるの? 人間と魔法使いは、違う生き物で、違う運命を辿るの。対立と言う運命をね。早く美央から手を引いたほうがいいんじゃない? 友達? とかよくわからないけれど」
もう一発入れないと気が済まない。だけれど、オクトパスに掴まれている腕の痛みが酷くなる。動かそうとすればするほど、骨が潰れるように痛む。
「そう、こういう風に、対立する」
「ぐっ……!」
もう痛みが限界だ。腕が、折れそう……!
「人間は寄ってたかって、いじめを好むの。だから……魔法使いたちが寄ってたかって、人間をいじめてしまえば、それで終わりよ。奴らは魔法使いには勝てないんだから。……ふん」
私の腕は雑に放られる。……アザが出来そうだ。
「あなたなんかに、美央は相応しくない。美央は私とともに、この世の頂点に立つべき存在なのだから」
ああ、やっぱりコイツは敵だ。私……いや、紫塔さんの幸せを脅かす、敵……!
「お喋り、楽しかったわ。またお話ししましょう?」
満足したのか、オクトパスは踵を返す。痛む腕を抑えながら、私は彼女へ視線を送る。絶対に負けない、そう決心して。