【崩壊】
「大丈夫?」
「……はい」
一頻り棗さんの腕の中で泣いた私は、恥ずかしさと、少しは軽くなった心の重みを感じつつ、棗さんから体を離した。
泣き腫れした目を拭おうとしたら、棗さんが衣嚢から手巾を取り出して、私に差し出してくれた。
「使って良いよ」
「でも…」
「キミ。手も衣服も土埃で汚れてる。目を悪くしちゃいけないから、遠慮しないで」
「あ…ありがとうございます」
私は棗さんから手巾を受け取り、涙を拭った。
真っ白だった手巾は、涙と共に私の顔に付いていた汚れも一緒に拭き取って、茶色く滲んでしまう。
「あ、ご、ごめんなさい…!」
「いいよこの位。洗えば元通りだ」
棗さんは気にした様子もなく、私から手巾を受け取って再び衣嚢に仕舞う。
「さて。じゃあ、健子ちゃん―――気持ちは決まったかな?」
「………はい」
私の迷いは、自分でも驚く程に短く完結した。
既に家族とも……ましてや人とすらも思われていない自分が此処に居続ける理由は、無い。
強いて言うならば、私が去った後の事が心配だ。
「棗さん……私の家族や、里の皆は、今後どうなってしまうんでしょうか?」
「そうだね。里の住民や、白城院一族の大半は、もしかすると情状酌量の余地があって、重い罰が下される事は無いだろうけど―――身内とは言え、幼い少女をこの場に監禁した罪、その死を偽った罪、剰え、キミを“禁術”の贄にしていた罪―――それらを行ったご当主殿と、その事実を知っていながら放置していた奥方、長男、その妻子、使用人数名も同罪で処罰されるだろうね」
「処罰って…何されるんですか?」
「分からない。今回の件に関する一切の取り決め役は黒鳳院家にある。勿論、被害者であるキミ自身が彼らの助命を強く願うなら、ある程度は配慮してくれるだろう。桜貴さんは、厳格だが思慮深い人だ。きっと最悪な事にはならないよ」
「そう……ですか」
あぁ……私はなんて甘いんだろう。
こんな事をされていても、家族に罰が下ると分かった途端、胸の内で不安が膨れ上がってしまった。
「………家族が……死なないでくれれば、私はもう、何も言いません。あの人達には、それだけの事をされたと……自覚しているので」
「分かった。俺からも桜貴さんに口添えしてあげるよ。そもそもあいつ等、死んで幽霊にでもなった日には毎夜の如く枕元に立って呪言を吐きかけてきそうだもんな?」
「ふっ…ふふ…ほんとうに…」
「お。やっと笑った」
棗さんの軽い口調の冗談で、久しく忘れていた“笑顔”を、私は取り戻した。
まだ歪かもしれないその笑みを、棗さんが仮面越しでも分かる程、穏やかな顔で見つめているのが分かる。
(どうしてだろう? 笑った顔のお面だからかな?)
ここから出たら、棗さんに色々聞いてみたい。
どうして無条院家に拾われたのか、『主』と呼ぶ人がどんな人なのか、他の“妖まじり”の人達はどれ程居て、どんな姿で、どんな生活をしていて、どれ程幸せなのか―――
「―――早く」
「ん?」
私は無意識の内に言葉を発した。
それは他でもない―――私の本当の望み。
「早く―――私を此処から連れ出して下さい…!」
「あぁ。その為に来たんだ」
一切の曇りが無い、棗さんの堂々とした声が、私の胸の内の不安を全て取り払ってくれた。
(やっと……やっと、此処から出られる…外の世界へ、もう一度―――!)
私は、檻の外から差し伸べる棗さんの手に、自らの手を重ねようとした。
その時―――。
「健子」
「ッ―――!?」
まるで全身に冷水を浴びせかけられたように悪寒が走った。
その声は、棗さんの声ではない―――もっとよく知る。もっと馴染みのある懐かしい声。
ここ三年の間は、全く聞く事がなくなっていた……兄の声だ。
「健子。何をしているんだい?」
「ッ……た、たか…兄様…?」
「久しぶりだね、健子。ずっと会いに来られなくてごめんよ。やっと父上の監視の目が解けたから、会いに来たよ」
私と同じ……白銀の長い髪をした見目麗しい風体の尊人兄様。
三年前に兄は、当時私の変貌した姿を見るや否や、今までの溺愛が嘘の様に拒絶した。
それ以降は私と距離を取り、この地下牢獄にも一切近寄って来なかった。
それが…どうして今更…?
「それはそうと……どうして貴様がこんな所に居るんだ―――“鬼”よ」
「……やれやれ。上手く気配を偽装して入り込めたと思ったんだがな……流石は白城院家の次期当主なだけはあるか」
「今し方、私も同席していた屋敷の客間に居たはずの貴様の気配が、この場所からも感じ取れたので、急いで来たんだよ」
「あぁ…さっき仮面を外した所為で妖気を開放してしまったからか…」
「全く…信じられんな。事もあろうに我等、白城院の里の中で妖気を垂れ流すとは―――そんなに調伏されたいのか?」
たか兄様は軽蔑の眼差しで棗さんを睨み付ける。
棗さんは立ち上がり、膝に付いた土を払い落とす。
「あんたが俺を調伏するねぇ? 出来ると思ってるのか……“九尾狐”を倒せずに封印するしか出来ない一族風情が―――」
「え…」
(“九尾狐”を封印……なにそれ? 初めて聞いた…)
未だに背を向けたままだった棗さんは兄の氷のような視線をまるで気にする様子も無く、相変わらず落ち着きのある声音で喋る。
そして私は、棗さんの言葉に思わず驚きの声を発した。
その時、たか兄様の端正な顔が険しく歪んだ。
「ッ―――黙れ化物がッ!」
たか兄様は何故か焦った様子で、棗さんに軽蔑の眼差しを向けたまま怒鳴り声を上げた。
「口を開くな人外の道へ堕ちた者めッ! 私は皇国が誇る六華族の白城院家が次期当主、尊人であるぞッ! 貴様の様な下賤な混じり者が気安く話しかけられる身分ではないだろうッ!」
「ッ―――」
人外? 混じり者? それってつまり……?
(私の事も……たか兄様はそんな風に見ているの……?)
急激に込み上げて来る悲しみ…そして苦しみ…。
だけど、少ししたらその感情が薄れて行った。
同時に、私が兄に向けていた尊敬の念や、兄妹としての愛情も、一緒に消えていくのが分かった。
それはきっと、私が無意識の内に兄が助けに来てくれると思っていた淡い希望が、打ち砕かれたからだろう…。
「すっかり天下人気取りだな、若様? お前が実の妹にして来た蛮行を棚に上げて―――よくそんな口が叩けたもんだなぁ?」
瞬間、棗さんの妖気が禍々しく立ち込める。
【封魔】の仮面を着けたままにも関わらず、思わず身震いしてしまいそうな程の圧を感じる。
だけど、“妖”に転じた私より、たか兄様の方が棗さんの力に圧されて、たじろいでしまっている。
「ッ―――こ、この……化物ぉお!!!」
先程までの威勢は何処へ行ったのか、たか兄様は端正な顔を恐怖で歪まさせて、懐から呪符を数枚取り出し、棗さんへ向けて投げ飛ばした。
たか兄様の霊力を纏った呪符は、紙であるにも拘らず棗さんに向かって一直線に飛んで行き、数枚の呪符は散り散りに分かれ、棗さんを囲むように空中で静止した。
それでも微動だにしない棗さんに、私は檻の内側から焦りを感じてならない。
「棗さんッ!」
「消え失せろッ―――“滅”!」
呪符がたか兄様の声に反応する様に光を放ちだし、そして間も無くして棗さんを覆い尽くす程の爆発を発生させた。
爆発で生じた風が狭い地下通路を圧迫して行き、古い壁はたちまち罅が入っていく。
爆風を間近で受けた私は檻の内側で奥の壁に吹き飛ばされ、背中を強打した。
「ッ―――」
背中と肺に走る激しい痛み―――それでも私は棗さんの安否が気掛かりだった。
「な…つめ…さん? 棗さん…!」
痛みに耐えながら棗さんに声をかけ続けるが、返答がない。
(まさか…棗さんッ!?)
嫌な予感が頭の中を満たしていく。
「そんな……棗さん…!」
「ハッ! どうだ化物め! これが白城院次期当主たる私の力だ! 貴様等の様な人外は、駆逐されて当ぜ―――んむッ!?」
「当然」―――そう言い切る前に、その口は爆煙の中から伸びて来た腕によって塞がれてしまう。
その腕には、物凄い力が入っている事が見て取れる程に血管が浮き出ている。
美しい程に色白く手細い腕なのに、長い指と真っ黒に染まった爪が怪しさを引き立てる。
徐々に煙が晴れて行き、煙の中に居る人物の姿が露わになる。
「こんな地下で爆発を起こすとは、正気の沙汰とは思えないなぁ……若様ぁ?」
「ヒッ!?」
煙の中から再び姿を見せた棗さんは、爆風の所為か仮面が外れていた。
さっきまで自分に向けてくれていた優しい声音ではなく、奈落の底から込み上げて来る様な、冷たくて、低い声…。
心臓が凍りそうな気迫…。
額から伸びた鬼の角、白い眼球は真っ黒に染まり、紅色の瞳が鋭く輝き、長く伸びた爪と牙。
その姿は、まさに“鬼”―――。
(良かった……棗さん無事だった…!)
棗さんの体には傷が一切見受けられない。
それ所か、衣服すら破れていない。
きっと特別頑丈な素材で出来ているのだろう。
「棗さ…ッ!」
「平気かい? 健子ちゃん」
「は…ッ…はい…」
美しくも恐ろしい見た目に反して、棗さんの声は……今度は優しかった。
返事をしようと空気を吸いこんだら、肺にズキッと痛みが走る。
「大丈夫? 肺を痛めたかい?」
「げほっ…へ、平気…です…ッ」
「結構酷そうだな……すぐに薬湯を飲まないと」
「―――はッ…オイ貴様ッ! 私の妹に馴れ馴れしく話しかけるな!」
自力で棗さんの手をどけて、唾を飛ばしながら叫ぶたか兄様。
その姿に、里の女性達から憧れの眼差しを一身に受けていた時の凛々しさは微塵も無い。
……と言うより、今更私をまた妹呼びして……まるで味方気取り……。
この時、棗さんも同じ事を思ったのかもしれない。
「そんなに大事な妹なら、どうして今まで放置してたんだ?」
私と同じ問いをたか兄様に投げかけた。
「そ……それは……ち、父上からの監視があって…」
「三年間も? その間ずっとか?」
「ッ―――」
棗さんの核心を突く追究に、たか兄様は口を噤んだ。
私が“妖まじり”となったあの日に、たか兄様は救いを求める私の手を叩き払い、軽蔑の眼差しを向けた。
その様子を見ていたご当主様が、たか兄様に監視を付けてまで、私から遠ざけていたとは思えない。
それに―――私……『白城院健子が死亡した』とした後に、我が子に同じ名を付けたじゃないですか…。
「……たか兄様。お子さんは元気ですか?」
「え?」
突然の私の問いに、たか兄様は素っ頓狂な声を上げた。
「あ…あぁ、そうか。産まれた事は聞いていたんだね? とても元気だよ。私達と同じ白銀の髪をしているんだよ」
「……」
「そ、それにな! とっても可愛いんだ! 鼻とかクリクリの目とか―――お前にそっくりなんだよ!」
「……ッ」
どうしてだろう……吐き気がする。
背中を強く打ち付けた所為……ではない。
あんなに尊敬していた兄の姿が、記憶の中だけの残像となって、虚しく消えていく様だ。
あれだけ私を気味悪がって距離を置いた人が―――兄だなんて、もう思いたくない。
「……あなたはどうして……ここに来たんですか?」
「え? そ、それは余所者が……ましてや混じり者なんかが、大事な妹に何かするんじゃないかと思って…」
「大事な妹…?」
(駄目…駄目よ……さっき棗さんに言われたばかりなのに……落ち着かなきゃいけないのに…!)
「その妹の名を、自分の子につけさせたクセに…?」
「へ?」
「それって私を―――本当に死んだ事にしたからでしょッ!」
心が、頭の中が、魂が、怒りで満ち満ちて行く……肺の痛みなど、もう感じない程に…。
込み上がって来る怒りの感情に相応する様に、私の頭部から生える狐の耳が一回り大きくなり、一本しかなかった尻尾が三本に増えた。
「た…健子ッ!?」
「今やっと分かりました……あなたが此処に来た本当の理由……私が、あなた達から受けた三年間の全ての所業を、誰かに話すんじゃないかと不安だったからでしょ?」
「えッ…あ、いや…ち、違ッ」
情けない程に、たか兄様は動揺した素振りを見せた。
だけど良かった……お陰で、もうこの兄に思い残す事は無い。
(もう……どうにでもなれば良いッ)
「駄目だ健子ちゃん!」
棗さんの声は、私の悲痛の叫び声と、暴発する“九尾狐”の妖気の波動に搔き消された。
私の放った妖気は、先程兄が発生させた爆発で生じた罅を押し開き、そこから崩壊が始まった。
「健子ちゃん―――!」
落下する天井が襲い掛かる直前、棗さんが檻を抉じ開けて私を抱きしめる様に覆い被さり、そのまま瓦礫の下敷きになった。