【清め、治り、整う】
私の背後から、桶と手拭いを差し出してくれた、”宙に浮く腕”。
驚きの声をあげながら棗さんの背後に隠れると、”宙に浮く腕”は桶と手拭いを足元に置いて、紐で腕に縛り付けられていた手帳と万年筆を起用に掴んで、何かを執筆し始めた。
どういう訳か、腕だけのはずのその両腕が、随分と慌てている様に見えた。
「な、棗さん! ここ、この…腕は、一体…!?」
「あぁ、ウデさんか。ごめんごめん、家に入る前に説明しとけば良かったな」
「ウデ…さん?」
まんまだ…。
そう言いそうになった言葉を寸での所で飲み込む。
そして、『ウデさん』と呼ばれたその腕が執筆を終えると、その文面を此方に向けた。
『驚かせてごめんな? 私はウデ 無条院家の家事全般を担っている よろしく』
と、宙に浮いたままにもかかわらず達筆に綴られた文面を読み終え、私は再び宙に浮いた腕を凝視した。
「ウ、ウデ…さん?」
『うん ウデ よろしく』
「あ…あのッ! 大声出してごめんなさい! 私は、白城院家から、此方へ養子入りしました、健子です! 此方こそ、不束者ですが、宜しくお願い致します!」
『タケコ? まだ名前 貰えてないのか?』
「え?」
「うん。お嬢さん可愛いから決めかねててね?」
『早く決めてやれ 呼ぶ時 困る』
「はいはい。でも先ずは、お風呂とご飯だよ。準備してあげて」
『分かった 棗 料理頼む』
「あぁ。ウデさんはこの子の部屋の準備してあげて。葵は彼女に風呂の説明してあげてくれ」
『了解』
「あい」
「じゃあ僕はお嬢さんの新しいお洋服を見繕って~♪」
「いや。それは綺と紡に任せるから」
ルンルンと楽しそうに笑っていた主様の動きを片手で制した棗さん。
そのまま主様の襟を摘まんで廊下の先へ歩いて行った。
『それじゃ また後で』
「うち等も、お風呂行こっか」
「は、はい」
嘆く声をあげながら引き摺られて行く主様を心配する事も無く、それどころか見慣れた光景とでも言いた気に、ウデさんも廊下の先へ飛んで行き、葵は私の手を引いて、脱衣所まで案内してくれた。
脱衣所は、親切にも男女で別けてあった。
決して狭くはないが、こじんまりとした脱衣所の先には、十人くらいが余裕で入れる程の大きさの温泉が設備されていた。
見てるだけで芯から温まる気にさせてくれる湯気と熱気に、ほっと安心する。
「すごい、こんなに大きな温泉はじめて!」
「でしょ。うちの自慢の一つ」
「はい! 感動です!」
「ちなみに、湯加減も感動的ね」
葵は私と一緒にお風呂に入ってくれる様で、日の光で煌めく鱗が生えた素肌を露わにして、白装束を脱いだ私の手を引いて湯船の傍に座らせた。
桶にお湯を汲み入れて、頭の上から一気にかけられた。
「わっぷ…!」
「あ、ごめん。熱かった?」
「い、いえッ。ちょっとビックリしただけです」
「そう? じゃあ、体洗うね」
そして葵は湯船の近くにあった楕円形の石……の様な物に手を伸ばした。
薄い鶯色のその石を軽く濡らしてから、手の平に挟んで擦ると、大量の泡が出て来た。
「葵、それは何?」
「これ? ”石鹸”」
「せっけん…?」
「あれ、知らない?」
「はい。里に居た頃は、無患子を使ってて…」
「あーあれかぁ。昔はうちでも使ってたけど、今の皇都では石鹸の方が人気。色も香りも沢山ある」
「そうなんですね!」
皇都は極東の流行の最先端。
既に皇国民の中では常識になっている品々も、私にとっては未知の物ばかり。
白城院も名のある極東六華族の一員のはずなのに、辺境の地に籠ってばかりで世間の流行りに乗る機会なんてまるで無かった。
「いつか、皇都にも行ってみたいな」
「行くよ。多分明日くらいに」
「えっ、ほんとに?」
「うん。家族が増えたから、色々買い足しに」
そう、葵は私の背中を洗いながら教えてくれた。
夢にまで見た皇都……まさか行ける日が来るなんて…!
「あ、葵も一緒に行ってくれるんですか?」
「うーん、当日の役割分担にもよるけど、棗君なら行かせてくれると思うから、お願いしてみる」
「ほんとに? なら、是非一緒に行きたいです…!」
「うん。うちも一緒に行きたい」
私の希望を聞いて、葵は嬉しそうに微笑んでくれた。
同い年くらいの友達とお喋りするのって、こんなに楽しかったんだ…。
「じゃあ、お湯に入ろう。傷に効く薬湯だから、ちょっと痛いかもしれない」
葵はそう言うと、先に湯船に入って、私に手を差し伸べてくれた。
私はその手を握り返して、霜焼けで赤くなっている足の先から、ゆっくり湯船に浸かった。
「ッ…」
ビリビリ…ジンジン?
痺れる様な痛みが走り、お湯が触れた箇所がカーッと熱くなる。
「痛い?」
「す、少し…」
だけど、徐々にお湯の熱が心地良く感じ始めて、痛みを我慢しながら肩まで浸かった。
傷に効く薬湯―――そう葵が言ってたが、明らかに予想外の効果が出ている。
指先の霜焼けはやんわりと解けるように痛みが引いて行き、体中にあった細かい傷が塞がって行く。
それどころか、強打した肺の痛みまで引いた気がする。
「これ……本当に薬湯? 何か特殊な妖術じゃなくて?」
「うん。霊力の通う常世の地下から湧き上がる温泉に、【医療】の名家・翠宮院先生が調合した薬を投与してる。効果は抜群」
「うん! 効果覿面!」
「良かった。これで体も綺麗になった。後はしっかり温まって出よう」
「うん!」
私は心地良いお湯のぬくもりに身を委ねた。
三年ぶりにまともに体を清められる上に、傷の治癒や、恐らく妖気の流れも整えてくれているこの機を、私は贅沢に時間をかけて堪能した。
*
*
*
『部屋の準備 出来たぞ』
「ありがとう、ウデさん」
厨で朝食の準備をしていた棗の許へ、ウデさんがやって来た。
ウデさんは腕だけの存在でありながら、意外にも起用だ。
俺が留守の時は、家事全般を一人で担える程に手際が良い。
『今日の朝食は 何だ』
「焼き鮭と出汁巻き卵、法蓮草の胡麻和え、豆腐と若布の味噌汁」
『美味そうだ』
「ははっ、美味いよ」
毎日の食事当番は俺とウデさんが担当している。
ウデさんは配膳や食材の切り分けを主にしてくれるが、口が無いから味見は俺が昔からやっていた。
主に味見を任せると、すぐに酒に合わせて濃い味になるから任せておけない。
俺の味覚をウデさんは信用してくれているようで、新しい家族が増えて行っても、食事当番だけは俺以外に任せなかった。
そんなウデさんは、考える頭が無いはずなのに勘が鋭く、付き合いの長い主の考えは容易に読み取れる。
『あの子には まだ話していないんだな 九尾の事』
「……」
ウデさんが手帳に綴った文面を見て、俺は内心で少しの不安を感じた。
その話は、俺と主とウデさん、話の流れで桜貴さん、そして帝・天神院明之彦様―――以上の五人しか知らない。
「まぁね。だけどこの後、主の方から話を切り出すと思う。変に隠し続けたり長引かせるような内容でもないし」
『そうか』
ウデさんの言う『九尾の事』は、あの子に話していない、ある種の真実。
それも、彼女にとっては―――残酷かもしれない程の…。
「いずれにしても、その事をどう受け止めるかは彼女次第だ。俺達は見守るしかないよ」
『そうだな』
「心配?」
『それなりに』
ウデさんが短く返答して、俺の後ろで配膳の準備を始めた。
(やっぱり心配なんだな…)
表情が見られないウデさんだが、今どんな気持ちでいて、この後の彼女の事をどれ程心配しているのか……十年近くの付き合いで何となく分かる。
「一先ずは、飯食って落ち着いてもらおう。ウデさん、皆を広間に呼んでくれ」
『分かった』
ウデさんはふわふわ浮かびながら厨から出て行った。
俺はあの子の為に別で用意している、鶏肉と蕪と柚子のお粥を鍋ごと抱えて、広間に運んだ。