【ようこそ、憂楽街へ】
目が覚めた時、私はぼんやりとした思考で微睡んでいた。
紅い龍の背で一頻り泣きはらした後、私は棗さんの腕の中で眠ってしまったらしい。
いつの間にか、黒かった夜空は真っ青の晴天へ変わっていた。
冬の空の上は、薄い白装束一枚では肌寒いけど、体温の高い棗さんの腕の中は、まるで暖かい毛布の中にいるみたいだった。
(さっき棗さんが、私の体は危険な状態だって言ってた…)
その件についても、無条院家の領地へ帰ったら説明されるのだろうか?
無条院家の治める領土は何処?
そもそも無条院様は、どうやって私の事に気付いて下さったのか?
私を養子として迎え入れて下さった無条院様、私と同じ”妖まじり”の棗さんと葵は、どういう経緯で知り合ったのか?
(聞きたい事……いっぱいある……)
だけど今はまだ、この温もりの中で眠っていたい。
私は抗えない精神の欲求に身を任せ、再び眠りについた。
*
*
*
「―――、――ちゃん。おーい、起きて?」
意識の遠くの方から、私を起こす声が聞えて来た。
微睡みの中、ぼんやりと目を開けば、そこには笑みを浮かべた仮面が私を見下ろしていた。
「あ……な、つめさん…?」
「おはよう。よく眠れた?」
「は―――はいッ!」
寝ぼけた頭が覚醒していくと、瞬時に理解した―――私の体が、棗さんに抱きかかえられたまま運ばれている事に…!
「ごご、ご、ごめんなさい! 私ったら、あれからずっと…?」
「うん。疲れてたんだろうね。妖力の全開放も始めてだったろうし、仕方ないよ」
「は、はぁ…」
うぅ…情けない。
私は情けなさと恥ずかしさで顔を両手で覆った。
「お嬢~さんっ。隠してないで目を開けてごらん。僕達の家に着いたよ」
「無条院様…!」
棗さんの後ろから、ひょっこり顔を覗かせて陽気に話しかけてくる無条院様。
その口から出た『僕等の家』という言葉に、私は恥ずかしさを忘れて、顔を覆った手を退かした。
しかし―――
「………えっと、無条院様?」
「何だい、お嬢さん?」
「………何処、ですか?」
目の前には、今にも崩れそうな程に腐っている鳥居と、その奥には、獣道が続く―――森。
「こ、この森が、無条院家の領土……なのですか?」
「うん。まぁ正確には―――鳥居と森の狭間だけどね」
「狭間?」
どういう意味だろう?
疑問に思う私を、棗さんが地面に降ろしてくれた。
葵が懐に仕舞っていた新しい草履を私の足元に置いてくれたので、それに足の指を通す。
履物を履けた安心感でほっと息を吐き、再び視線を目の前に向けた。
鳥居と森の間には、腕一本にも満たない空間しかない。
もしかして、からかわれているのだろうか?
いやでも、棗さんも葵も普通にしているし、暁さんもいつの間にか居なくなってるし、冗談では無さそうな空気だ。
「ごめんね。このままじゃ分からないよな?」
「主はいつも説明不足」
「えー? だって何も知らない状態から見せた方が感動するでしょ?」
「あの、無条院様……かなり困惑しているので、今すぐ説明が欲しいです」
「あ、そう?」
ちょっと残念そうに肩を落とす無条院様。
しかし、徐に懐に手を入れて、そこから小さな鈴のような物を取り出し、軽く振って音を鳴らす。
チリリン…と耳に涼やかな音色が届き、心成しか胸の内がスッと軽くなった感覚がした。
そしてそう思ったと、同時に…。
「あれ?」
私は今、瞬きをした。
いや、きっとそれ自体は何の間違いもなかったはずだ。
それでも、私は瞬きをした後に目の当たりにした風景を、信じる事が出来なかった。
「あ、あの…? 無条院様?」
「何だい?」
「あ……アレは……幻でしょうか?」
今度は瞬きを忘れて、震える指で、鳥居の先を指し示した。
だってそこには、そこに有るはずのない物で溢れていたのだから。
腐り果てた鳥居の先に広がる―――煌々と輝く建物と、活気ある人々の存在。
唖然とする私を他所に、他の三名は平然としている。
寧ろ面白そうに笑っている。
「いいや、お嬢さん。アレは紛れもない現実だよ」
「で、でも、さっきまで…?」
「そう。この先に広がる景色は、さっきの鈴の音を引き金に出現する常世さ」
「とッ―――常世!?」
常世って、死後の世界の事では!?
「それって…どういう事ですか?」
「あーごめんね? 常世っていうのは、僕等が便利上使っている隠語だよ」
「隠語?」
「あぁ。この先には、キミと同じ”妖まじり”達が住んでいる。それ以外にも、敵意の無い妖や、弱い妖も一緒に暮らしているんだ」
「妖も共に!?」
「大丈夫。敵意の欠片も無い子達ばかりだよ。この常世の領主として保障しよう」
無条院様は笑顔で、だけど眼だけは真剣そのもので、私に言い聞かせる。
棗さんや葵も、無条院様の言葉に疑いや否定的な反応は見せない。
真実……と、いう事だろう。
「どうして、常世と?」
「人によっては、妖を黄泉の使い魔と思い込んでる人がいるからね。黄泉の使い魔と、それ等に穢された者達で溢れかえる領域―――【常世】と呼んでも相違ないだろ?」
「そう、かもしれませんが…」
「ちなみに、他にも【幽世】や【隠世】と呼ぶ事もある。だけど、無条院家がこの領域を治めるにあたって、相応の名を付けなければならない。だから、この領域の公式名は―――」
そう言いながら、無条院様は私の手を引いて、鳥居の奥へ進んで行った。
後ろから、棗さんと葵もついて来る。
鳥居の真ん中を潜ると、その先には―――
「人ならざる者たちの”憂い”と、人道では計り知れない”楽しさ”が混在する我が家―――【憂楽街】さ!」
煌々とした提灯の明かりが、橙色に街の中を照らす。
建物の外装は、以前、里の書斎で見た西方の建物に類似している。
(そう言えば、棗さんの服装も西方の衣装っぽかったっけ?)
そう思い出して後ろを振り返れば、後ろからついて来ていた棗さんと葵が、身に着けていた仮面と面布を外した。
「ふぅ~、きつかった」
「棗君も布にすれば、呼吸しやすい」
「いやぁ、この面の素材じゃないと”大鬼”の妖気抑えられないだろ?」
「あ、あの御二人とも? 【封魔の面】を外してしまって大丈夫なんですか?」
「あぁ。この憂楽街の中では、どれだけ妖力を開放してても、自分以外を含めて常世の外に影響が及ばない特殊な結界を張ってるからね」
「そうなんですね」
「そっ。だから健―――キミもこの常世の中では妖力を全開放してて良いよ。その方が、キミの体の容態も良くなっていくはずだ」
妖力を開放するだけ、私の体が良くなって行く。
それって―――
「それって……つまり私の体が、妖に染まって行くって事……ですよね?」
私の問いに棗さんは、悲しむでも無く、同情するでも無く、ただ一言―――
「そうだ」
と答えた。あまりにもアッサリと。
でもそのお陰で、私の心もすっぱりと決まった。
「分かりました! 不束者ですが、これからも色々と教えて下さい!」
「勿論!」
「葵おねーさんに、任せて」
「うんうん! 僕の子供たちが仲良くなってくれて嬉しいよ~!」
嬉しそうに両腕を広げて私達を抱きしめようとする無条院様―――を、押し退ける棗さんと葵さんだった。
「そう言えば、棗さんの装いもそうですが、この憂楽街も西方の街並みに似ていますし、無条院様は西方のご出身で?」
「いいや。皇国だよ」
「僕はね…」と、背を向けて歩き続ける無条院様が呟いた事に、私は気付いていなかった。