【凍てついた氷は涙となって】
“赤又”の妖まじり―――葵さんの深海のように深い青色の長髪は、毛先に行く程に赤色に染まっている不思議な色彩で、目を奪われる程の美しい金色の瞳を有する美少女だ。
恐らく年齢は私と同じか、少し年上かもしれない。
そして、葵さんが【封魔の面】を外したと同時に、彼女の色白な肌の彼方此方から、赤と青が斑に入り混じった鱗がペキペキと軽い音を立てながら浮き出て来た。
「葵、面布を…」
「うん」
漏れ出る妖気を抑え込むために、懐から不思議な書体で【葵】と書かれた面布を取り抱いて、後頭部で紐を結んで装着した。
それは棗さんの【封魔の面】と同じ効果を有しているらしく、装着したと同時に葵さんの漏れ出る妖気が収まっていった。
先程の、あの棗さんに酷使した姿は、彼女の妖術だったのか…?
だとするならば、相当な妖術の使い手だ。
極東六華族の中でも、あそこまで姿を偽れる者は少ない―――否、居ないのではなかろうか。
「貴女、今日からうち等の家族になるんだよね?」
「は、はい! はじめまして、白……健子です!」
「うん、うちは葵。よろしく」
「はい、よろしくお願いします、葵さん!」
「ふふっ、葵で良いよ?」
「あ、あおい…?」
「んっ」
葵さ……葵は満足そうに微笑んだ。
大人びた雰囲気だと思ったけど、笑った顔は年相応で可愛らしい。
(それにしても、誰かを呼び捨てにするなんて初めて……)
使用人さんにも、同年代の子達にも、ずっと敬称を付けて呼んでいた。
(―――と言うか私、今まで友達すらも居なかったんだ……)
私が当主の娘という立場だったから、同年代の子達は私と距離を置いている節があった。
年上の人達は皆、お父様に胡麻を擂ってたり、たか兄様に媚び諂ってたり、私に興味を持つ人はほとんど居なかった。
強いて言うなら、お見合いの話が出た時だけ、村の独身の男性たちが積極的に話しかけて来ていた。
………お見合い相手が、お父様と同い年くらいの年齢の人ばかりなのが、気にはなったけど…。
「さてさて。それじゃあ、お嬢さんを連れて我が家に帰ろうか!」
「は、はい! 皆さん、よろしくお願いします」
「健子、疲れてない? 手、貸してあげる」
「あ、ありがとう。大丈夫…」
「無茶しちゃ駄目だぞ? おぶろうか?」
「えっ、い、いいえ! 大丈夫です!」
「じゃあお姫様だっ―――ッ!」
「え、あの、じ、十分…ですので…」
手を差し伸べてくれる葵さん、背中を向けてしゃがむ棗さん、そして両手を広げて私の体を抱きかかえようとする無条院様(…のお尻を叩く葵さん)の親切心に困惑してしまい、自分でも変だなって思うような返答をしてしまった。
叩かれたお尻を摩りながら「もー酷いなぁ」と愚痴る無条院様。
徐に扇子を取り出し、口元を隠すように構える。
聞え辛かったが、何か呪文のようなものを唱えている。
そして徐々に無条院様の精錬された霊力が、その体の周りを円を描くように取り巻き、無条院様が静かに目を開き、扇子を天高く掲げたと同時に、霊力の柱が天まで伸びて行った。
「あ、あの…一体何を?」
「ん? あぁ、今のかい? 今のは、家に帰るために―――あの子を呼んだんだよ」
「あの子?」
「もう間もなく来るよ」
「間もなく、来る?」
「誰が?」と聞く前に、突如周辺の木々が揺れて、強い風が吹き抜け、白みかかって来た空に浮かぶ雲の動きが速さを増す。
何事かと視線を彼方此方に向ければ、天空からとてつもない妖気……否、精気……否々、神気を感じ取った。
身の毛も弥立つほどの力の源―――その存在が、自分達の真上にやって来た時、辺り一面に大きな影がかかる。
恐れを感じる前に、反射的に上を見上げれば、そこに居たのは―――。
「りッ―――龍…!?」
「そ、そそ、そんなッ……神話の!? 伝説の!? あの龍なのかッ!?」
「ひっ、ひぃいいいッ!」
紅色の鱗に覆われた蛇のようにうねる体、黄色よりも白金に近い色素の鬣、鋭い牙と爪、鱗の色と対照的な深い緑色の瞳、後方に伸びる長い角、前後に生えた脚。
その姿は、お伽話で聞いた事のある龍の姿そのものだ。
白城院家の皆はその姿を見ただけで腰を抜かして、恐怖で顔を引きつらせて、子供のように身を震わせていたが、私は天を舞うその紅き龍の姿に魅了された。
「凄く、きれい……まるで暁の空のよう…」
「おや? よく分かったね」
「え?」
「あの子の名は、暁。極東の東方地区を守護する神獣・紅龍だよ」
「し、神獣様!?」
「まぁ神獣と言っても、人と妖が混同するこの現代極東に於いては、どちらかと言うと“妖”と同じ扱いをされるようになっている」
「神獣が、妖と同じ…?」
「まぁ、妖の凶暴性は時代の流れによって上がって行ってる傾向があるからねぇ」
そう説明をしてくれる無条院様が、手にした扇子を振って宙に舞う紅龍に降りてくるよう指示を出した。
その指示を理解したのか、紅龍は一度旋回してゆっくりと降下していき、ふわりと地面に後ろ足を着いた。
紅龍の暁…さんは、その神々しい姿に反して、甘える様な仕草で無条院様にすり寄って行った。
近くで見ると大きさお鋭さで圧倒される角を器用に避けて甘えている。
「か…かわいい」
「うん。暁はかわいいの」
「まぁ愛嬌あるけど、実際は三千年以上生きてるんだよ?」
「さんッ…!?」
そう言えば、古の神獣でしたよね…?
改めてその事実を把握した私の隣で、葵はそれでも「でも、かわいいのは事実」と言って、ふんっと鼻を鳴らした。
そんな葵に同意しているのか、暁さんも「グルルルル」と喉を鳴らして、頭部を上下に振ってみせた。
「ご自身がかわいい自覚があるんですね…?」
「ちなみに雄だよ」
「あ、そうなんですね…」
(もう驚く事にも疲れてきた…)と胸の内で感じ始めた時、無条院様が暁さんの頭を一撫でして―――
「さぁ皆、我が家へ帰ろう。暁、頼んだよ」
その言葉を受け、暁さんはその長い体を地面にドスンと下ろした。
背に乗れ―――という意思表示のようだ。
まずは軽い身のこなしで、棗さんが最初に暁さんの背に乗り、手を伸ばして無条院様を背に乗せる手助けをした。
次に葵の手を引いて背中に乗せてから、棗さんは一度、暁さんの背から降りて来た。
「一応聞いてみるけど、高い所って平気? 結構な高さを飛んで帰るし、速さも地上で感じる速度の非じゃないから、もし健子ちゃんが良ければ俺が抱えて一緒に乗るよ?」
そう言って棗さんは手を差し伸べてくれた。
男の人に抱きかかえられるなんて、恥ずかしいし申訳が無いけど……。
「……し、正直、不安なので、棗さんが良いのでしたら……お願いします」
「分かった。それじゃあ手を―――」
仮面を着けた棗さんが、優しく微笑んだのが分かった。
それだけでも、私はほっとして、棗さんの手を握り返した。
次の瞬間、私の体がふわっと宙に浮きあがり、棗さんの広げた腕に横向きに抱きかかえられた。
所謂、お姫様抱っこ。
「はっ、はわわっ」
「しっかり捕まってて」
棗さんが足に力を入れて、一度の跳躍だけで暁さんの背に飛び乗った。
「では桜貴君。我々は彼女を連れて領地へ帰る。すまないが、後の事は任せて良いかい?」
「あぁ、無条院殿。ご助力感謝する。彼方の方はどうする?」
「彼方?」
他にもこの里で何か用事があったのだろうか?
私が不思議そうに視線を無条院様に向けると、無条院様はニコッと微笑んで見せた。
「それはまた後日に改めるよ。今はお嬢さんの方が優先だ」
「承知した。その子の事、頼んだぞ」
「合点!」
結局何の事か分からなかったけど、無条院様が私の事を機にかけて下さっているなら、それを追求するのは野暮だと思って口を閉じた。
「ではでは!」
無条院様が大きく扇子を翻せば、暁さんがそれに合わせて体を浮上させていく。
突然やって来た浮遊感に、私は思わず棗さんにしがみ付いてしまった。
「大丈夫だよ。絶対離さないから」
「ひ、ひゃいっ!」
思わず声が裏返った。
棗さんが落ち着かせるためなのか、背中をポンポンっと叩いてくれている。
「それでは失礼するよ。白城院の皆々様」
無条院様が楽しそうに声を上げれば、暁さんの体が一気に上空へ飛翔した。
「お嬢さん」
相変わらず恐怖で目が開けられない私の耳に、無条院様の穏やかな声が届く。
「目を開けてごらん。君が生まれ育った故郷だ。もしかすると、もう二度と見る事が出来ないかもしれない。心残りが出来てしまう前に、どうか一目だけでも……」
そう促されて、私は胸の奥がきゅっと小さく締め付けられた感じがした。
(私の故郷……生まれて、育って、何処へ旅立っても最後には帰るはずだった場所……)
そんな場所と今日でお別れ。
あんなに早く此処から逃げ出したいと切願していたのに、なんだか少し寂しい。
だけど、勇気を出して徐々に目を開けてみれば―――地上から此方を恨めしそうに見上げている白城院の人達の姿が目に留まった。
「たぁけぇこぉお…!」
「………」
怒りで真っ赤にした顔で、獣の呻き声の様に私の名を呼ぶお父様……だった優一郎さん。
娘の心配を他所に、自信を捕縛している桜貴様に縋り付いて助けを乞うている、元母の誉糸子さん。
地面に座り込んで、ブツブツと何かを呟き続ける、元凶たる清子さん。
そして―――
「た、けこ……? おい、健子? どうして!? 何でそんな連中と!? 何で里から! 僕の傍から離れて行くんだ!? 健子! 健子! 何とか言えよ健子ぉおッ!!!」
悲壮感に満ちた表情で、私の名を呼びながら怒号する元兄、尊人さん。
もしかすると、彼だけは本当に私の事を想っていてくれたのかもしれない。
だけど、たか兄様。それでも私は貴方の許から去ります。
だって―――
「”健子”は、貴方の子の名でしょ」
そう言い放てば、暁さんが夜明けの空の中へ溶け込むように飛んで行く。
呆けた尊人さんの顔が、あっという間に豆粒よりも小さくなって、見えなくなった。
眩しい暁色の空に、煌々と輝く太陽が顔を覗かせる。
太陽に照らされた【白城の里】は、冬にもかかわらず、緑の葉が生い茂り、木々の間からは動物達の息吹を感じられた。
その昔、【豊穣の女神】によって実りをもたらされた土地は、長きに亘り現在は衰退の一途を辿っているにもかかわらず、今も尚その生命力を感じさせる力強さを、ありありと見せつけてくる。
「きれい…」
「あぁ。本当に綺麗な里だね」
「……こんなに素敵だったんですね。私の生まれ故郷は…」
「それもこれも、キミがその身を捧げて守りぬいて来たお陰なんだよ」
「私が…」
「そう。この美しさは―――キミの命だ」
無条院様が、そう優しく答える。
徐々に顔を出す太陽の温もり。
棗さんが私の頭を撫でて、葵が私の手を握ってくれる。
冬の空の中を飛ぶ紅き龍の背の上は、凍てついた心も体も溶かしてくれる。
溶けた氷は涙となって頬を伝い、太陽の光をキラキラと反射させた。