Ⅲ
自分の命の価値が喪失してしまった瞬間をはっきりと認識したことがある人はどれだけいるだろう。僕にとってはその瞬間が、17歳の冬だった。
僕は、ドナーとして生まれてきた子供だった。
それ以外の役割をなにひとつとして期待されずに産まされた子供だった。
僕の三つ上の兄は、生まれつき全身の臓器が不治の病に侵されていて、おまけに特異な体質だったようで、適合する人間の臓器は探しても探しても見つからなかったそうだ。万能薬ともされる人魚の肉ですら兄の病を治すことは出来なかった。むしろ、両親が兄に人魚を食べさせていなければ、兄は生まれて一年と経たずに死んだだろう。それほどまでに重い病気だった。人魚の肉を定期的に食べさせ、寿命を伸ばしてもなお兄の病状は回復するどころかじわじわと進行していく。治療のためには健康な臓器が必要不可欠だ。だが適合する臓器はない。ただでさえ臓器移植は狭き門と言われている。必要な臓器が病死する前に患者に届くケースはごくわずかしかない。兄の場合は肺や胃、心臓など全身のあらゆる臓器の移植もしなければならないので、ドナーは死者限定と限られている。ただでさえ不可能なのに、それ以上の無茶を強いられているように当時の両親は感じただろう。
そこで彼らは思いついた。ごくごく簡単なことだ。
ドナーがいないのなら、作ってしまえばいい。
血縁者ならば適合率はぐっと高くなる。兄弟ならばなおさらだ。しかも自分の子供なら、いつでも監視下における。いつか兄のために死ぬのだといいきかせ、然るべきときに自殺でもさせれば彼らは理想のドナーが手に入るのだ。ふたりの愛する息子が助かる。彼らにとって、これ以上に素晴らしいことはなかっただろう。
だから僕が五歳のときの身体検査後、ほぼ全身の臓器が兄のものと適合すると分かって、両親は狂ったように歓喜した。まるで今が浄土の到来と言うような狂喜ぶりだった。僕は黙って、今までで一番嬉しそうに笑う両親をまっすぐに見つめていた。父が僕の視線に気づいて、よくやったと頭を撫でてくれたことを覚えている。そのときはどうして両親がこんなにも喜んでいて、何故褒められたのかが分からなかった。それでも、少しだけ照れくさかった。褒めてもらえたことが嬉しかったんだと思う。・・・もう、よく覚えていない。
名前は産んですぐに決めたらしい。近くにあった花からとったとか。誕生日もクリスマスも僕にはなかった。クリスマスは両親が兄の病室に大きなプレゼントを抱えながら訪れる。僕は家にひとりだ。ご馳走もケーキもクリスマスの飾りもプレゼントもない。誕生日も同様だった。おめでとうとすら言われたことはない。入学式も卒業式も祝われたことはなかったし、運動会も授業参観も来てもらったことはなかった。僕はそのことを悲しいとは思っていなかった。疑問にすら感じなかった。だって、ずっと言われていたのだ。あなたはおにいちゃんのために生まれたのよ、と。おにいちゃんから与えられた命なのだからおにいちゃんに捧げなければならないのだと。僕は物心つくまえからそう言われ続けていて、漠然とそうなんだと思っていた。そうなんだ、僕はおにいちゃんのために死ぬんだと。だから僕の誕生日にもクリスマスにも入学式も卒業式にも、お祝いは必要ないのだと。
両親にとって僕は愛し慈しむべき息子ではなく、貴重な臓器提供者に他ならなかった。だが愛されてはいなかったといっても、虐待をされたことはなかった。どころか、一度も平手でさえ受けたことはない。彼らは僕の身体には常に神経を研ぎ澄まし、不用意に傷つくことがないようにした。健康な身体を保つように毎日決まった時間に決まった運動をさせられた。抗体ができるように態と予防接種を受けさせずウイルスに感染するように仕向けられたこともある。栄養バランスが取れた食事を用意し、菓子は一度も与えられていない。両親が許可していない食品を口にすることは我が家では許されなかった。お小遣いは当然もらえない。一度だけ、友人が遠足の時にくれたチョコを食べたことがあった。舌にのせた途端、今まで感じたことがないような甘味を感じ、同時に途方も無い罪悪感に押しつぶされそうになって思わず吐き出してしまった。あのときぽろぽろと溢れた涙の意味を、未だ分からずにいる。
とにもかくにも、そういう人生を送っていた。幼い時分は家こそが世界であったので我が家の異常さには気づいていなかったが、学校へ通い他人と交流していく内にだんだんと自分の家はひょっとして異常なのでは、と考え始めた。だが己の家庭環境が他に類を見ないほど異様で歪なのだと気づいたときはすでに遅く。僕には既存の価値観が作り上げられていて、両親に抗うほどの気力もなかった。どうせしたいこともなりたいものもない。このままで本当にいいんだろうかと曖昧に思いながら、拒否感が湧かず、ずるずると惰性で日々を過ごしていた。兄のために死ぬ、それは何よりも最初に教えられたことだ。僕という命の意味で価値だ。生まれたことへの明確な理由だ。骨身に染みているそれを覆せるほど僕は自分自身に執着していなかったし、それが嫌だと言えるほどの、生きていきたいと思えるほどの熱情を抱かせてくれる何かとも出会えなかった。
両親は僕の身体の事以外ではルーズだった。門限は絶対だしGPSはいつも付けられていたがどこに行こうと誰と会おうとどんな付き合いをしていようと自由。親子あるあるらしい、「勉強をしなさい」という言葉も言われたことがなかった。それは、いずれは兄のために死ぬであろう息子への僅かばかりの慈悲だったのか。少なくともその時が来るまではせめて自由でいさせてやろうという配慮だったのか。・・・いいや、たぶん違う。彼らは単純に興味がなかったのだ。僕の生活や人間関係なんて。ドナーの身体が健康で無事でさえあればその他のことはどうでもよかったのだろう。
教師から、将来のことについて尋ねられるのが一番困ることだった。だって、僕の将来はもう確定されている。進路のことについて考える時、僕が一番初めに思い浮かべるのは僕の身体から取り出される臓器群だ。兄のために肉塊になる、それが両親に唯一認められた道で、望まれた将来だった。
勉強なんて意味がないことは分かりきっていたけれど、補習はめんどくさいのでまあそれなりにやって、進路は適当に誤魔化しとけという両親の言いつけ通りそれらしい進路先を進路希望書に書く。すべてが惰性だった。嘘っぱちでしかなかった。大人になったら何になりたい?という趣旨の問はいつだって苦く苦く聞こえた。
自分の誕生日はよく覚えていなかったけれど、兄の誕生日ははっきりと記憶していた。毎年、その日に両親が人魚の肉を夕飯に出すからだ。兄の病室に持っていく料理に使った人魚肉の余りだ。両親は兄の誕生日をひとしきり兄の病室で祝った後、夜遅くまで家で待っている僕に人魚肉を使った料理を振る舞う。毎年毎年この日だけは、三人で食卓を囲んだ。まるで上っ面だけは普通の家族のようで、どんな顔をすればいいのか分からなかった。
人魚の肉を使ったおかずをどんどんと僕のお皿に盛り付けながら言われた、健康におなりなさいよという言葉は、表面だけ見れば親から子供へ注がれる慈愛溢れる言葉のようで、言われるたびに心がすり減っていく気がしていた。
人魚の肉を毎年食べたおかげで僕はより健康になり、どんな病気にもかからなくなったし、より頑丈になった。両親は喜んだ。その喜びの様子を純粋な目で見続けることは、今度は出来なかった。
17歳のある日。
僕は兄の元へ訪ねてもよいかと両親に頼んだ。兄の調子も最近はだいぶいいらしく、そろそろ手術しても良い頃合いかと言われていたころで、きっと自分はもうすぐ死ぬんだろうなと思っていた。死ぬ前に一度だけでも兄と話したい、と言ったら存外簡単に許可を貰えた。
もう息が白く染まる季節で、病院は余計に寒々しく見えた。僕が訪れたのは特別棟の個室で、全身消毒をさせられ、手術着のようなものを着せられてから中に入った。透明なビニールカーテンを隔て、果たして僕は生まれてはじめて兄と邂逅した。真っ白な病室。温度が感じられない部屋。窓の外へと向けていた視線を、ゆるりと此方の方へと移してきたこの部屋の主は、びっくりするぐらい痩せ細っていて、小柄で、とても年上だとは思えなかった。褪せた金髪と柔らかな光を放つ蒼眼。健康体なら、まず間違いなく女性に引っ張りだこに違いないくらいの造形。思わず息を止めてみつめていると、「やあ」と声をかけてきた。想像よりずっと穏やかなアルトの声音。けれど何も言い返すことは出来なかった。足が震えていた。何に怯えていたんだろうか。
「キミがボクの弟かい?父さんたちから聞いてるよ。ボクは、レノだよ」
朗らかに言葉を放ってくる兄に、一瞬、何をどこまで聞いているんだとぶちまけたくなった。僕がこれからどうなるのか懇切丁寧に教えてやろうかと思った。きっと知らないんだろう。もしすべてを知っていてあの挨拶ならサイコパスだと詰ってやる。そう思った。頭が瞬間的に茹だっていた。あれほどまでに俯瞰して見ていた自分の将来が、途端に揺らいで見えていた。だがこみあげた衝動は刹那に冷水と化し、自身の心臓を苛んだ。儚く笑みを浮かべる自らの兄に対して、ほぼ反射的に、あぁ僕はこのひとのために死ぬんだと思った自分に気づいたからだ。そして今まで当たり前のように命を捧げようとしていた、自分の兄の名前も顔も知らなかったという事実に、今更気づいてしまったからだ。遅すぎるだろう。自らの愚かさを嗤おうにも、表情がうまく形作れない。
枯れかけた声を振り絞り、なんとか当たり障りのない会話をして病室を出た。エプロンとマスクを剥ぎ取って病院に返してから足早に家路を急いだ。自分の部屋に辿り着いてずるずると座り込み、膝を抱えた。とてもたちの悪い悪夢を見たような気分だった。
なんの意味もない行為だった。ただ“これから”を再確認するためだけの邂逅。
あー、と喉から唸り声がする。手を額にやって天上を見上げる。しんどいなぁと思った。酷く疲れていた。
自分はやはり、あの人のために、両親のために、肉塊にならなくてはいけないのだと思った。
兄と両親が死んだのは、その日から一週間後のことだった。
兄のお見舞いの翌日、僕は自分から“決行日”を今年中にしようと両親に相談した。次の兄の誕生日に、平静でいられる自信がなかったからだ。もうあの人魚は食べたくなかった。きっと次は吐いてしまう。
両親はなんて良い子だと褒めてくれた。もうなんの感慨も抱かなかったけれど、どうでもよかった。早く終わらせて欲しかった。
死因がなんであれ、僕は自殺しなければいけない。それも臓器を傷つけない方法で。もし両親が僕を殺したりなんかしたら臓器移植そのものさえできるかどうか怪しくなる。長男のドナーをつくるために次男を殺した事件なんて曰く付きの移植手術、誰が引き受けてくれるだろう。そもそも、殺人と判明されたら問答無用で司法解剖行きだ。事故は臓器が著しく破壊される可能性がある。僕は臓器に影響が及ばない程度の死因で死なければならない。適当に理由をつくって死んで、このままではあまりに忍びない、せめて長男に臓器を移植して次男の分は生きて欲しい、それをきっと天国にいるあの子も望んでいるとでもなんでも両親が医師に泣き落とせばうまくいくだろう。
両親は、あまり身体が傷つかない方法を調べておくよ、と微笑みながら言っていた。その微笑がなぜかぐにゃぐにゃとしているように見えたことは覚えている。
痛くないといいなあなんて思っていた。
自分が死ぬことばかり夢想していたのに、一番早く死んだのは僕でも兄でもなく両親だった。交通事故だったらしい。その知らせを病院で受け取った兄は容態が急変。そのまま調子を戻すことなく他界した。
恐らく両親の死という衝撃的な出来事で気力が落ちてしまったせいだと思われます、という医者の言葉は、酷く遠くてよく聞こえなかった。気づいたら、皆死んでいた。もう両親も兄もいない。信じられないほどあっけなく、あれほどまでに強固な筈だった未来予想は根底から崩れ去った。ぼーっと天井をただただ眺めていると、いつの間にか医者の説明は終わっていた。今はまだショックで受け止められないだろうから、今日はもう帰りなさい、また明日此処に来てくださいと医者は言って、背中を優しく撫でてくれた。か細く息が漏れる。握りしめ続けていた両手は真っ赤になっていた。
ふらふらと帰路につきながら思ったことは、あぁ僕もう死なないんだなということだった。そうだ、兄も両親も死んでしまったのだから、僕が死ぬ必要はもうない。僕はこれから先自由だ。そこまで考えて、はて自分は自由を求めていたのかと疑問に思った。本当に兄のドナーになるのが嫌なら逃げれば良かった。不可能なことではない。児童相談所にでも病院にでも学校にでも相談できた。力になってくれた大人もいるだろう。けれどそうしなかったのは、あまりにもそれが当たり前のことのように刷り込まれていたからだ。兄のためのドナーになることは前提条件で、そこから外れるのは罪深いことに思われた。
兄のために生まれてきたことは間違いなく真実で、だから兄のために死ねという言葉はこれ以上なく正当性があるように感じられたのだ。当然なことだと漠然としながら思っていた。では心から受け入れていたのかというと、どうだろう、これも微妙な感じがした。でなければ、何故兄と対面したときにあれほど動揺したのかが分からない。年々心が摩耗していった理由も。
嬉しいのか、悲しいのかさえも分からなかった。そのときはただ、途方も無い現実に押しつぶされそうになりながらなんとか堪えていた。感情の結び目はぐちゃぐちゃに絡まりあって、わけがわからなくなっていた。ただ分かるのは、自分の存在意義が永遠に失われてしまったということだけだった。別にドナーにだってなりたくてなったわけではないが、他になりたいものもしたいこともなかった。どうせ死ぬのだからと何も考えずに生きてきた。突然真っ暗闇の中に放り出された気分だった。自分の命に明確に記載されていたはずの意義と意味と価値を一遍に失うことは、途方も無い喪失感を与えてくれる。残ったのは、人魚の肉のおかげで無駄に健康になった自分の身体だけだ。すべて無駄になってしまった。今までやってきたこと、すべて。この先ずっと、どこにも行けず何者にもなれない気がした。
ふと気がつけば、家への道ではなく他の道を歩いていた。まごうことなく現実逃避だ。それとも、無意識に自殺でもしようとしていたのかもしれない。海の方へと足が向いていたから。
冬の朝5時。凍てつくような空気の中、波打ち際で朝焼けに照らされた彼女を見つけたのはその日だった。