Ⅰ
魚は苦手だ。
特に、寿司や刺し身などといった生の魚は。
嫌いなわけじゃない。別に食べれないわけでもない。
けれど、食卓に並べると否応なく罪悪感が湧き上がってくる。
何かいけないことをしているみたいで。
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ねえどうしてあなたは魚を食べないの、と彼女は言った。
「・・・それ、おまえが聞くのか」
「だって食べてるの見たことがなかったもの。5年も一緒にいるのに。私だから言うのよ。____もし私のせいなら、ひどいでしょう?」
すぐにそう返してきた彼女に、少しだけ黙り込んでしまう。
「おまえのせいじゃない。おまえの“せい”なんてことは、ひとつもない」
「そうかしら。ぜんぶ、私のせいな気もするわ。・・・ぜんぶ」
ぱしゃん、と水音が鳴る。
いっそ明るい様子で自虐_____本人にとってはただの事実だろうが_____をする彼女に、はあ、と溜息をつく。
「ちがう」
「なら、どうして食べないの?」
キッチンとバスルームにワンルームがついただけの狭い部屋に、備え付けられた大きな水槽。人一人が入れるほどの水に肩まで浸かったまま、彼女は聞いた。
「食べてもいいのよ、べつに。人魚と魚はちがうもの」
「大した意味はない。もともとそんなに好きじゃなかった」
「ほんとうに?」
「嘘じゃない」
嘘ではなかった。本当に。魚は好きではないのだ。それを彼女のせいなどとは、思ったことはなかった。
「魚と人魚は、違うんだろう?なら、おまえは関係ないよ」
彼女は一瞬、目を見開いて。
それから、泣きそうな寸前の瞳で微笑った。
人魚。
今世界では絶滅の危機に瀕しているという種族。希少種の亜人種とされている。絶滅間近とされている理由は、人間による乱獲だ。
人魚の肉は美味であり健康・美容にも良く、おまけに病気や障害にも劇的な治療効果を及ぼすのだという。他の動物と比べて食べられる糧も多いので、昔から人間は人魚をよく食べてきた。が、人口が増えるにつれ人魚と人間の数量バランスが崩れ、人魚種の数が圧倒的に減少していく事態になった。
これはまずいと慌てた偉い人たちは人魚乱獲禁止令をだしたが時既に遅く。今まで好きに人魚を取って食していた人たちがそんな命令を馬鹿正直に聞いてこんな魅力的な食材を食べないわけはないし、もうその頃には人魚種は取り返しがつかないほど衰退していた。今現在、世界に存在している人魚は数百にも及ばず、絶滅は間近だとされている。
そんな超希少な人魚のひとりが、僕の部屋にいる。
もう5年以上一緒に生活している。
どういう経緯でこんな生活をしているのかというと、海辺で怪我を負った彼女を見つけて家に連れ帰ったのが始まりだった。
なんて間抜けな人魚なんだ。
夜明け前の海辺、砂浜に倒れて気を失っている彼女を見て、そう思ったものだ。
今のこのご時世、迂闊に人に姿を見せれば捕らえられるに決まっているだろうに。十数年前まであたりまえのように食卓に並んでいた人魚が超高級食材となった今の時代、人魚となれば目の色を変えて食らいつく人間が山ほどいる。なにせ、人魚は万能の食材なのだから。
それなのに、やすやすと怪我をして海辺で倒れているなんて。次に目を開けたとき包丁が迫っていても、文句は言えない。
「だったらどうして、あなたは私を助けたの」
いつか彼女に聞かれた言葉。
「元気になったら食べようと思ってた」
悪びれることなく僕は堂々とそう答えた。
「あら、じゃあなぜ食べないの?」
物騒な言葉にまるで応えもせずくすくすと笑う彼女に、僕は正直に言う。
「綺麗だったから」
綺麗だったのだ。本当に。この世のなによりも。
玉虫色に輝く鱗も、優美な線で描かれたような躰も、なめらかに波打つ薄茶色の髪も、深い、深い海のような瞳も。
それから、目覚めたときに聞いた金糸雀のような声も。
なにもかもが、美しいと思った。
こんなに綺麗なものを、僕は生きてきたなかで見たことがなかった。
だから、この美の極地のような存在が、肉塊へと変わってしまうことが耐えられなかったのだ。
「それだけの理由で、こんな生活を続けているなんて。変わっているわね」
「そう悪い日々でもない」
人魚は絶滅危惧種で、高級食材だ。見つかればエライことになるので、僕らは転々としながら生活している。僕はアルバイトをしてお金を稼いでいる。苦しいが、僕は生活必需品以外はあまり買わないし、生活も切り詰めているのでなんとかやっていけてる。一度、自分の鱗を剥いでこれを使って、と彼女が差し出してきたことがあった。人魚の鱗は大変お金になる。僕はそれを受け取らなかった。
彼女をお金の道具にしたくなかったなどという殊勝な理由ではない。ただの見栄とせせこましい独占欲だ。けれど彼女は、自分から差し出したのに、僕が受け取らなかったことに安堵したように眦を下げた。難儀な奴だと思う。
とても優しくて、可哀想ないきものだ。そんなだから僕みたいなのに捕まってしまう。
「やっぱり、あなたって変わっているわ」
美しい翡翠と碧の混じった尾鰭が小さく跳ねて、ぱしゃんともう一度水音がした。
その光景を、僕はやっぱり美しいと思っていた。
いくら美味しくて栄養価が高くておまけに平癒効果があったのだとしても、自分達と同じ言語を話して思考も知性もある存在を人間はよく食べられるものだと思う。人間とは人魚以上に摩訶不思議な存在なのかもしれない。
と、そんな思考に至ったのは市場で人魚肉のバーゲンセールをやっているのを見かけたからだ。今彼女と僕が身を潜ませている町は港町で、漁港のすぐ近くだ。海に近いというそれだけで、他の地域よりも格段に人魚の肉が食べやすくなる。たまにこうして人魚肉が競りに出されているが、なにぶん数が希少なので手に入れることが出来る人は少ない。国に認可されて出荷されている人魚肉もあるが、そのほとんどは不正に手に入れられた人魚肉だ。そしてその八割が、海に打ち上げられていた死体の肉だ。ごくたまに、この地域の海には人魚の死体が流れ着くらしい。
「死体を漁ってまで食べたいだなんて、さ。意地汚いな。どうかしてる」
人魚の餌である小魚を水槽の中に入れながら、なんとはなしにそんなことを呟いた。
「そうかしら?」
小魚をつまむ指先の爪は長く伸びていて、人間にはありえない不思議な色彩をしている。
「おまえは違う意見なのか?」
滑らかな白皙の指が唇の方へと近づいていって、小魚を口に放り込む。もぐもぐと咀嚼し、飲み込んでからやがて言った。
「人間のことはよく分からないけれど、私達は海でよく魚や貝の死体を漁っていたわ」
「それは生きるためだろう?」
人間による海水汚染、魚類の乱獲。今や海は人魚だけではなく他の生物にとっても住みにくい所になっているだろう。
よくよく考えるとなんともまあ罪深い生物だと感心する。僕もそのうちのひとりだが。
「人間は違うの?生きるために、私達を食べているのではないの」
見上げてきた瞳は鱗と同じ色をしていた。右目が翠色、左目が碧色。光が揺れていて、まるで御伽噺の中にある海のようだと思う。現実に、もう美しいと言えるほどの海はない。人間たちがすべて汚してしまった。
「それは、」
思わず口ごもってしまったのは、自分の考えに自信が持てなくなっただけでなく、この会話の行き先に不安を覚えたからだ。しまったと思う。こんな話、世間話感覚で話すんじゃなかった。
此方を見つめてくる、きらきらと澄んだ眼を想う。
もし自分たちが娯楽のために狩りつくされてきたのだとしたら、この瞳は濁るのだろうか。
憎むのだろうか。怒るのだろうか。それとも、そんなものは今更だろうか。
黒味が増した眼で此方を睨んでくる彼女を想像して、まあこれもこれで悪くないんじゃないかと思いかける。次いで頭を振った。この思考はなんだか危ない気がする。
「・・・まあ、もちろん、切実な理由でおまえたちを欲する人たちもいるだろうさ。孫娘が不死の病にかかって、とか、なんとか」
実際そういう人たちはいる。自分が、もしくは身近な人間が重い病気や障害を患って人魚の肉を欲しがる人たちだ。彼らにとって人魚はドナーと同義だ。なかなか巡ってこないけれど、手に入ればぐっと生存率が高くなる魔法の薬。
「でも、娯楽のためにおまえたちを食べたがる人間だっている。珍しいから、美味しそうだから、高級食材だから、美容と健康にいいから、長生きがしたいから。いろいろさ、別に、僕達人類全員が人魚を食べないと生きていけないわけじゃない」
多くの人間は、人魚の肉なんて食べなくても生きていける。
ただ、人魚が人間にとってあまりにも魅力的な食材だったというだけだ。その昔、食べれば不老不死になるという逸話まで流れた人魚の肉は長寿効果もある。一体まるごと食べれば百五十年は健康なままで生きていけるという。
それに、口にはしなかったが、性的または嗜虐的目的のために生きた人魚を欲しいという人たちだっている。人魚の容姿は皆一様に美しいと聞く。それもおそらく原因のひとつだろう。食の娯楽という理由の方がまだまともなのだと考えて、なんて狂気的な世界なのだろうと思った。人魚族にとって、この世界は間違いなくディストピアだった。
ふーん、と声のした方へ顔を向ける。彼女はもう僕の顔を見つめてはいなかった。カーテンの隙間から差し込む陽の光を見ていた。
ふーん、とまた彼女が言う。そういうものなのね、と。
覗き込んだ彼女の瞳は、悟ったような、静寂とした秋の海の色をしていた。
あのときの僕はまるで、人魚の肉を食べる人間たちを批判するように話していたけれど、心底からそう思っていたわけではないしその資格があるわけでもなかった。
僕だって、人魚の肉を食べたことぐらいある。彼女の同族の、ひょっとしたら彼女の見知った誰かだったかもしれない人魚の肉を。
味は覚えていない。この世のどんな魚よりも美味しいと言われるそれは、確かに美味だったのだろうけど、僕にとっては苦い思い出に他ならなかったからだ。
高級食材である人魚の肉を、毎年毎年買ってきて料理していた両親を思い出す。彼らはそのためにあらゆる節約をして馬車馬のように働いていた。
両親は切実だったのだろうか。
結果として、その行為には何の意味もなかった。なくなった。
あれは、決して娯楽ではなかったのだと思う。
僕と彼らにとって、人魚の肉を食べるということは、楽しいことでもなんでもなかった。
「今日も仕事なの?」
水槽の縁に組んだ両腕を置き、その上に頭を載せながら彼女は聞いた。
「うん」
コートのボタンを掛けながら答える僕に向かって、首を傾げてみせる。
「でも、昨日も夜遅くまで働いていたわ」
「昨日は昨日、今日は今日」
最後のボタンを掛け終わってマフラーを首に巻いている僕の横で、彼女は何だかかわいい顔をして唸る。
「どうしたの」
「人間は、ずっと動いていても平気なの?」
動かしかけていた手が止まる。
「・・・いや」
「でも、あなたこの頃ずっと働いてるわ。朝から夜遅くまでずーっとずーっと」
簡易ヒーターの作り物の火が薄闇の部屋を仄かに照らす。彼女の指先から水滴が床に落ちて、染みて消えた。
「おまえは」
言いかけて、一瞬視線を斜め下に向ける。また顔を上げると、「?」というように彼女は僕を見ていた。先程の言葉の催促だろう。
「人魚は、眠らないのか」
「?・・・どうして?」
「おまえは、いつも僕が帰ってくるまで起きているから」
ぱしゃんと尾鰭が跳ねる。何がおかしいのか、笑っていた。
「昼間に寝ているのよ」
「・・・そうか」
がさごそと仕事道具を鞄に詰めてそれを肩に掛けた。玄関のドアノブを握って、ちらりと後ろを振り返る。彼女は手を振っていた。僕も振り返す。
「いってきます」
外に出て素早くドアに鍵を掛ける。まだ暗い空の下、冷たい潮風が吹いてくる。群青の空を眺めて、ほぉっと白い息を吐き出す。冬の空気は好きだった。凍てつかせて、傷ませず、汚れた空気すらも透き通っているようで。
(・・・誤魔化したの、バレただろうか)
でもこればっかりは彼女には言うまい。彼女は、自虐と自罰が無意識に得意だから。
人魚を飼うのは、お金がかかる。
一昔前から言われていることだ。海水と同じ配分の清浄な水は毎日とは言わずともこまめに変えなければならないし、成人した人魚が入る水温調節付きの水槽なんて今時そうやすやすと手に入るものじゃない。餌は適当な小魚でいいとしても、綺麗な海水を毎度毎度手に入れるのは一苦労だ。ミネラルウォーターですらお金がかかる時代なのに、費用はその比ではない。おまけに、防犯用や監視用に監視カメラや盗聴器も買っている。もっとも、人魚を買っているわりには軽すぎる防衛システムだが。
日々の生活に関することだけじゃない。いつでもこの町から出られるようにある程度はお金を貯めておかなくてはならない。バレそうになったときは夜逃げのように出ていくので、家具はそのまま置いていくことになる。明け方未明、後頭部座席に人魚の入った水槽を押し込み、最低限の荷物のみ持って車に乗り込む。そういうことを繰り返してきた。
兎にも角にもお金がいる。少なくとも、あって困るものではない。
食品加工工場のフリーターなので、給料は正社員より少ない。幸いにして、残業すればするほど給料が割増されていくホワイト企業なのでこうして日がな一日中働いていた。餌は帰ってきてからと早朝出る前にやる。水槽の掃除も同時刻に。もし昼間彼女のお腹が空いてもいいように水槽の近くに小テーブルを置き、その上に餌を置いておいた。水槽から体すべてを出せないわけではない。というか、いつも普通に腕やら顔やら水槽から出している。彼女の手が届く位置に配置し、小皿の上に干した小魚を並べた。
人魚の世話諸々が終わってから自分の食事と風呂に取り組む。当然、眠る時にはとっくに日付を越している。朝も早い。睡眠時間は3時間以下だ。おまけに寝付きが悪く、一晩中寝れないこともある。
時々、何をしているんだろうと自分でも思う。何がしたいんだろう僕は。誰に頼まれたわけでもないのに、態々自分から苦労をしにいっている。けれどだからもうやめよう、という気持ちにはならなかった。あの人魚を政府に知らせれば報酬金なり何なりで楽に大金が入るのだろうと知っていてもだ。もとより、金にも贅沢にもあまり興味はない。他にやりたいことはなかった。やるべきことも、また。
ただ、あの美しいものが死体になって、肉塊になって、貪られるのは許容できそうもなかった。美とは凶器だと思う。あの小さく歌声を口遊む澄んだ声が悲鳴や嗚咽へと変わってしまうのも絶対に聞きたくなくて、想像するのも嫌で、だからこうして隠れ住み続けるしかなかった。ずっとこれが続いていくのも悪くはないんじゃないかと考えて、救えないなぁ我ながらなんて思った。人魚とは恐ろしい生き物だと思う。人を容易く狂わせる。それとも、自分こそが異常なのか。先日耳にした人魚の死肉のセールとの呼び声とそれに喜んでいた人々を思い出し、そんな気もしてきた。
願わくば、「いってきます」と言ったときの自分の表情に、不格好な作り笑いが刻まれていませんように。そしてそこに漂う寂寞に彼女が気づきませんように。
紫に染まり始めた空の端を視界に入れながら、らしくもなく祈った。