五話 現実に引きずり戻される
朝ごはんを食べたら、カイルさんは淡いグレーのスーツに着替えた。少し長めの髪を結んで、ダークグレーのネクタイまで締めて… 普段通りにジーンズとTシャツにカーディガンの私が恥ずかしいくらい似合ってて。
「カイルさん、これからお仕事じゃないの?」
「いい加減にそうもいかないよ。こういうのは早めにどうにかしないとね。俺と一緒に家に帰ろうか」
その言葉で一気に現実を思い出して怖くなってくる。お父さんから殴られる現実に戻るの? でも、このままじゃカイルさんの迷惑になるんだよね。帰りたくないよ…!!
「顔色が急に悪くなったね。大丈夫、俺が一緒に行くから」
そう言いながら優しく抱き締めてくれた。その優しい仕草に涙が滲んだ。
「君を苦しめるすべてから解放してあげるよ。俺にはそれなりの力があるから心配しないで」
「でも、こんなので頼りたくないよ… できれば自分の力でどうにかしたいの。これは私の問題であってカイルさんの問題じゃないし」
一生懸命に見上げて言うと、額に触れるだけのキスが落とされて。
「そんな寂しいことを言わないでほしいな。俺がこんな近くにいるのに…」
切なそうに微笑んで言った。…迷惑じゃない? 頼っていいの? 何が正解なのか分からない。けど、私を助けたいって思ってくれているのは分かるから。
「カイルさん、私はあんまり頭良くないから分からないけど、助けて…! あの家は大嫌いだったの! 私を殴るお父さんも、そんなお父さんに言いなりのお母さんも大嫌い!!」
「良い子だ。それが君の本音だって分かるよ。だから、逃げよう。逃げることは悪い事じゃないんだ。逃げることは弱い? 卑怯? 違う。死ぬのが怖いなら逃げるのが一番の正解だよ」
カイルさんは目尻に浮かんだ涙を吸い取って、優しく微笑みながら諭す。その言葉で私の凝り固まっていた心のどこかがほぐれた。…私、ずっと一人で戦わないといけないって思ってたんだ。
何もかも一人で背負わないといけない。お父さんとお母さんのことも背負わないといけないって、洗脳されてたんだね。それが親ガチャで特大のはずれを引いた私の宿命だって思ってたんだ。
にげたいと思っても監視されてるままじゃ、どうにもならないから諦めて。お母さんに反抗することだけで我慢して…
「さあ、一度目は一人だったから逃げるしかなかったけれど… 今度は違う。俺が一緒にいるから戦おう。君を苦しめるすべてと」
素直に頷いた私に重なるだけのキスをして、カイルさんはありあわせだけどと前置きして、私にメイクしてくれた。…それが私よりずっと上手でびっくりしたけど。本人曰く、
「新人の頃に自分でメイクしないといけないから、それで覚えただけだよ」
ということらしい。私はメイクが好きで覚えたのに、これだけは美鈴を頼ったりして覚えて驚かせたいと思った。
◆
カイルさんの運転で私の古臭い家まで帰る。家は静まり返っていて逆に怖かった。そっとカギを開けてみたけど、お母さんの出迎えもなくてドキドキしちゃう。
「たぶん、リビングだね。少し待ってみようか」
そう言いながら少し窮屈な玄関に並んで立つ。長く暮らしてきた家にカイルさんっていう素敵なイケメンと一緒に帰ることになるなんて… 不思議だなあと場違いなことを考えてしまう。
「詩織!! お前は勝手なことを…!!」
お父さんの怒鳴り声が聞こえてきたかと思うと、サッと私の前に立ったカイルさんがお父さんを組み伏せてしまう。なにをどうしたのか全く分からない。
「ぐっ…!! 警察を呼ぶぞ!!」
「それなら俺はこう証言しますよ。娘さんに殴りかかろうとしたからお守りしただけですよ、とね」
その言葉でお父さんは悔しそうに黙り込む。本当にその通りだから仕方ない。
「詩織さん…! 無事でよかった」
「初めまして。私は日向カイルと申します。娘さんとお付き合いさせて頂いております。もちろん、結婚を前提とした交際ですよ」
お父さんを組み伏せたまま、お母さんだけに微笑んで言う。お母さんはその言葉に、
「あら、そうでしたか。そうなんですね… そう、詩織さんとお付き合いを…」
とろくに会話になっていない様子で返すのがやっとだった。それはそうだろう。それまでお父さんの言いなりで生きてきたんだもの。
「私、お父さんとお母さんの言いなりになるのはいや! 自分の結婚相手は自分で選ぶわ。日向カイルさんと一緒に生きていきたいの!」
「許すと思うのか!? 甘ったれたことを言うな!! 絶対に許さんからな!!」
カイルさんの腕の下で暴れながら、お父さんが喚き散らす。けれど、お母さんの顔から戸惑いが消えていく。それから見たことのない澄ました顔になって…
「詩織さんが道を決めたのなら、私も決めないといけませんね。あなた、どうぞ私と離縁なさって風俗の素敵な方と一緒になってくださいね」
意味の分からないことをサラリと告げた。風俗ってなに…? どういうこと? お父さんは何をしていたの…? 理解しないといけないのに理解したくない。
「この家からも速やかに出ていって下さい。名義は私ですもの。何も問題はありませんね」
「お前!? 何を言ってるんだ!? このおれなしに生きていけると思うのか!?」
「このまま詩織に世話をさせてあなたと二人で老後なんて、虫唾が走るというものだわ…!! 生活費を惜しんでまで風俗の女に貢いで… どこまでもおぞましい人だこと!!」
なにを言われても怒らなかったお母さんが初めて怒りをあらわにして言う。その様を私は呆然と見つめていた。そんな私に歩み寄り、腕を伸ばして頬を撫でると、
「家を継ぐために愚かな男の言いなりになるしかなかったけれど、あなたの言葉で目が覚めたわ。あなたは自由になりなさい。詩織さん」
優しく笑って言った。それからカイルさんに向き直ると深く礼をして、
「詩織をよろしくお願いいたします。日向カイルさん。この家のことは心配しないでくださいね。私一人ならどうにでもして食べていけますから」
と穏やかに微笑んで言った。カイルさんはお父さんを組み伏せたままで笑みを深めて、
「喜んで… 全力で幸せにしますよ」
優雅に笑みを浮かべた。お父さんはそのやりとりで何を思ったんだろう。がっくりと全身から力を抜いた。そこでようやくお父さんを開放すると、
「詩織、荷物の準備をしておいで。俺はお母さんともう少し話があるから」
床にがっくりと座り込んでいるお父さんに構わず、私を促して言う。私は言われるまま自分の部屋に向かって、どうしたらいいのか分からないまま旅行かばんに下着や仕事に使うノートパソコンやらを詰め直した。
「詩織さん、残りはお母さんが送るから心配しないで頂戴ね!」
下の階からお母さんの声が聞こえてくる。その声と同時に話を終えたんだろう。カイルさんが私の部屋に入ってきて…
「思っていたよりも小さくてかわいい部屋だね。手伝うことはないかと思ったんだけれど、そんなになさそうだな」
と新鮮に見えたんだろう。部屋中を見渡して言った。ネクタイを少し緩めているから、窮屈だったのかもしれない。
「ずっとここにこもっていたの?」
ベッドにそっと座って言う。自然と並んで座りつつ頷いて答える。
「ここで在宅ワークしてた。この作業机で気分転換にアクセサリー作ったりして、家の中だけで過ごせることばかりしてたの」
「そう。ずっと一人だったんだね。ここで…」
そう言いながらそっとベッドに押し倒す。
「ここで君を愛する気になれないけれどね。キスだけは許して…」
少し切なそうな顔で微笑んで言うと、深く唇を重ねてくる。メイクが落ちちゃうと思ったけれど、不意に涙が滲んだ。知らなかったお母さんの苦しみとかお父さんの許されない裏切りとか…
色んなものがこみあげてきて、涙になって溢れて止まらなかった。
「ずっと寂しかったよ…!」
「知っているよ。孤独の辛さは多少なりと理解しているつもりだ…!」
唇で涙を吸い取って、カイルさんが笑みの消えた真剣な様子で明かす。純血の夢魔族っていうのはそんなに多くないのかもしれない。そう思って、私はカイルさんの首に腕を回して抱き返した。
お待たせしました( ^^) _旦~~ 五話です。ちょっとカイルくんの心情をあらわにしてみました。
魅力的に映っていたら幸いです。これからもお付き合いくだされば幸いです。感想くださればもっと幸いです。