第七話 地獄
「佑真っ!!」
玄関のドアを勢いよく開けると、いつものようにアマプラを見ていた佑真は、びくりと肩を跳ね上げた。
「お、お帰り、お姉ちゃん。えっと、どうしたの、そんなに慌てて……わっ!」
驚く佑真の身体を、私は問答無用で抱きすくめた。
その身体に体温はない。匂いもないし、子供特有の柔らかさもない。
けど、確かに佑真だ。
確かに佑真は、私の手の中にいる。
おかしな様子もない。
散骨院さんが言っていたようなことにもなっていない。
──良かった。
「あ、はは。お姉ちゃん、どうしたの? 嬉しいけど、ちょっと恥ずかしいんだけど……」
そんなふうに安心していると、照れたようにそう言われて、私は慌てて彼を解放した。
「あ、ご、ごめん……。なんでもない。なんでもないの……」
きょとんとした様子の佑真を撫でながら苦笑いする。
この顔を見ていると安心する。
バイトで疲れて帰ってきたときも、就活戦線で辛い思いをしているときも、佑真は私を出迎えてくれた。
おかえりって言いながら、私に笑いかけてくれた。
その言葉と笑顔に、どれだけ救われてきたことだろう。
──しかし、だからこそ。
「なんでもないんだけど……あのね」
私は、話さなくてはいけない。
「佑真……ちょっとだけ大事なお話があるの。聞いてくれる?」
散骨院さんの話が本当なら、佑真はとても危険な状態ということだ。
いつ悪霊化してもおかしくはない。
現実味がない言葉だけど、いくつか思い当たる節があるのは本当だ。
「佑真はさ、なんで自分が成仏できないと思う?」
その前に、私が助けてあげなければならない。
彼の未練を取り除いてあげなければならない。
「分かんないし、どうでもいいよ。だって僕、いまお姉ちゃんと一緒にいられて楽しいもん!」
と、まあまあ、の覚悟で言ったのだけど、彼はあっけらかんとした様子でそう答えた。
……まあ、でもそうなるよね。急にこんな話されても、本人からしたら、なんのこっちゃって話だし。
でも順を追って説明したとしても、やっぱりよく分かんない話なんだよね。
ん~、どうしよう……。
「あ、お姉ちゃん。ドア開けっ放しだよ」
そんなことを思っているうちに、佑真は玄関を指差しながらそう言った。
……あ。そうだ。焦ってたから、玄関開けっ放しにしたまんまだったんだ。
「あ、ごめんごめん。いま締め……」
「そういえばさ、さっきからなんか外が騒がしいよね。なんかあったのかな?」
そう言って佑真はトテトテと玄関に向かい──。
当たり前のように、部屋の外へと出ていった。
「……え?」
『地縛霊はその場から動くことはできない』
『佑真は外に出たことは一度もない』
散骨院さんが、そして私が先ほど言った台詞が頭に浮かぶ中、佑真は部屋の中へと戻って来た。そして不安そうな表情を浮かべると、
「なんかお外の公園で、お巡りさんと男の人が怒鳴り合ってた。怖いねー」
「えっと、佑真……外出られるの……?」
私は歯切れ悪くそう答えると、佑真はやはり、さも当たり前のように、
「え、うん……出られるけど」
「い、いつから? いつから出られるの!?」
「いつからって……そんなの、ずっと前からに決まってるでしょ」
「え? ……え? いや、いやいや、違うでしょ? ついこないだまで、外に出られないって言ってたでしょ? でもいま普通に……」
「え、え? なに言ってんのお姉ちゃん? 大丈夫?」
そこで佑真は私に駆け寄り、心配そうに私の顔を覗き込むと、
「僕、毎日学校行ってるんだから、外に出られるに決まってるでしょ?」
「……え?」
全身に鳥肌が巡っていくのが分かった。
当たり前の話だけど、佑真は学校になんて行っていない。
死んでいるのだから。
なのに。
「あ、そういえばね、今日の給食、ハンバーグに変更になったんだ。ほんとは別の日のメニューなんだけど、仕入れ? の関係とかで、なんか入れ替わったんだって。えへへ、みんなでわーってなってた」
なのに佑真は、そんなことを嬉しそうに話していた。
まるで、普通の小学生のように。
「……あ、はは。なに言ってんの佑真。お姉ちゃんのことからかってる? もう~、やめてよそういうの。お姉ちゃん、本気にしちゃうんだから」
その可能性に気付きつつも、それを拒絶したくて、私はいつもの調子を崩さないまま佑真の肩を小突いた。
でも。
「でもね、悲しいこともあった。弘文くんと裕太くんがね、僕の服を汚いって言うの。昨日も一昨日もおんなじ服着てるからって。でも僕これしか持ってないって言ったら、すごくバカにされて、追いかけまわされて、水たまりで転がされた」
「……佑、真?」
でも、もう──。
私の言葉は、佑真には届いていなかった。
「それでね、そのことお母さんに言ったんだけど、聞いてくれなくて、服を汚したことすごく怒られて、一緒にいた男の人に、殴られて、蹴られて、動けなくなっちゃった」
彼は壊れた人形みたいに、虚ろな目をして、ただただ悲しい過去を紡ぎ続けていた。
「佑真、ねえ、佑真?」
「それでお母さん、そのまま男の人とどっか行っちゃったんだ。その日は金曜日だったから。お母さん、いつも金曜の夜から日曜日の夜までどっか行っちゃうんだ。いつもはおにぎりとかパンとか置いてってくれるんだけど、その日はなにも置いていってくれなかった。でね、大夢くんと祐樹くんに意地悪されて、その日は給食あんまり食べられなかったから、すごくお腹が空いた。でも動けないし、食べるものもないし、寒いし、すごく嫌だった」
「……佑真、ねえ、落ち着いて、ちょっと、お姉ちゃんの話聞いて!」
「それでね、ちょっと寝て起きたら、頭がすごく痛くて、身体は寒いのに、頭だけすごく暑くて、でも動けなくて……お腹は空いてるんだけど、すごく気持ち悪くて、何回も吐いた。また少し寝て、起きて、どんどんどんどんあたまがいたくなってきてでもうごけなくてさむくてつらくてさみしくてだれもいなくてたすけてってなんかいもいったんだけどだれもきてくれなくてつらくてさみしくて」
「…………っ」
佑真の顔が徐々に歪んでいく。
真っ白で痩せこけた顔に、大きく曲がった鼻。そして充血して赤黒くなった眼球──。
悠真の顔は、死んだ直後のそれへと変貌していた。
「さいしょのうちはなみだがでたんだけどそれもでなくておみずのみたくてものめなくてのどがからからでそれでもはいてつらくてさみしくてたすけてってこえもでなくなってなんかいねておきたかわからなくなってだんだんぼーっとしてきておきてるんだかねてるんだかわからなくてさみしいなんでぼくだけもうなんにもかんじなくてそれでもみみだけはよくきこえてつらいくるしいおなかすいたなんでぼくだけおかさんあいたいおかあさんなんでおなかすいたさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしい」
「佑、真……」
……ああ。
……やっぱり私は、大馬鹿野郎だ。
一年以上も一緒に過ごしていたのに、佑真ときちんと向き合えていなかった。
彼の心の闇に気付いてあげることができなかった。
いや、気付いていたのに、いまの関係が変化することを恐れて、それに触れずにいたのだ。
結果、こんなことになってしまった。
──地獄に堕ちるべきなのは、私だ。
「お、母さん……?」
呪詛のような言葉をピタリと止め、佑真はぐるんと顔を上げた。
そして真っ赤な眼球に私を映し出すと、にやぁ、と大きく口を歪ませ、
「お母さん、お母さん!? 戻ってきてくれたの、お母さん、お母さん、お母さんお母さんおかあさんおかあさんおかあさんおかあさんおかあさんおかあさん!!」
「……ッぐ!」
彼は凄まじい力で私に抱きついてきた。ギリギリと肉が締め付けられて、関節が軋む。
とても子どもの……いや、人の力とは思えない。
こんな力で締め付けられたら、就活戦線でやせ細った私の身体なんて、すぐにぺしゃんこにされるだろう。
しかし、
(……もう、それでいいや)
されるがままに抱きすくめられながら、私はそんなことを思っていた。
他の誰のせいでもない。
佑真をこんなにしたのは、私自身だ。
これが罰とは思わない。
報いとも思わない。
罪滅ぼしでもない。
ただ、
「佑、真……佑真は……いい子……いい子だね……ぐぅ……」
生きているとき、この子はずっとひとりぼっちだった。
死ぬときもひとりだった。
だから、
「大、丈夫……だよ……お姉ちゃんが、ずっと、一緒に、いてあげる、から、ね……」
死んだあとくらいは、誰かが一緒にいてあげないと、ダメなのだ。
それができるのなら、私の命なんて、安いものだ。
そう覚悟を固めて、佑真の小さな身体を抱きしめた……。
そのとき、
「──それが本当に佑真くんのためになると思いますか?」
そんな声とともに、凄まじい風が私の背後から吹き付けて、佑真の身体のみを吹っ飛ばした。
「ッがあぁぁいいィィィッ!!」
骨が砕けるような勢いで壁に叩きつけられた佑真は、そんな奇声を上げながら私に飛びかかろうとするが、なにかに気付いたようにその動きを止めた。
私と佑真の間に立ちはだかった、その人物は、
「さ、散骨院さん……」
黒スーツ黒ネクタイの長身痩躯が、オバケよりオバケ顔を携えてその場にやってきたのだった。
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