08 人は足をすくわれる
伊山はそれ以降、数時間の出来事を思い出せない。何かあったようにも、何も無かったようにも思う。ただ、時間は既に夕刻であった。東京に帰る予定だったが、もう新幹線も無い。こんな時間まで何をしていたのだろうか。ぼんやりと夕焼けを見ながら思い出そうとした。
高下と話していた。そうして、自分の足でここまで歩いてきたのだ。目の前には、駅の改札があった。見覚えのある改札は、伊山が降り立った『藤見』駅のものだった。時間が飛んでいるという訳ではない。曖昧ではあるが、夕刻まで時間を過ごした感覚はある。何とも不思議なものだが。
ひどく疲れた。伊山は、この不思議な体験を誰かに語るまでも無いものだと思った。暑さでぼんやりしていたと言われれば、確かにそれまでで、否定することも出来ない。
伊山はその晩実家に泊まることにした。母親は、また、来たの?と驚いた顔をしたが、珍しいこともあるものね、と嬉しそうに息子を招き入れた。そうして伊山は翌朝一番の新幹線に乗り込んだ。
席に座ると、伊山は自分の鞄をまさぐった。外側のジッパーも開けた。その後に上着のポケットを全て裏返し、中を確認した。伊山は、いつも持ち歩いているはずの黒い手帳を失くしていることに、気が付いた。とんだヘマをしたものだ。あの手帳にはあらゆる情報を書き込んでいたというのに。どこかで落としたのだろうか。或いは実家に置き忘れたか。
幸運なことに、伊山は情報をノートにまとめ直す癖があった。そのノートは東京に置いてある。書き写していない情報は、連続飛び降り自殺に関するものだけであった。
もういいか。そこには大した情報もない。伊山は、どうしようもなく投げやりな気持ちになっていた。昨日まで、あれ程執着していた事件に、もうすっかり興味を失っていたのだ。気が変わったというにはあまりにも唐突に。執着心が強い方だった(というよりは職業柄そうでなければならないのだが、)伊山にとって、この心変わりは奇妙であった。事件について考えることが、とてつもなく無為な作業に感じられた。
頭の中に、工藤ゆかの母親が浮かばないでもなかった。彼女の執念にも似た想いを無駄にする訳にもいかない。彼女だけではない。多くの遺族についても同じことだ。誰もが真相の暴かれる日を待ち望んでいる。しかし、果たしてその役目を割り振られているのは、自分なのだろうか。いや、そもそも自分にはそれを成し遂げることが出来ないような気もする。自分がそうして無駄に時間を浪費する間に、誰か別の者が真相を解明してくれるのではないだろうか。
伊山はそんな風に考えると、先程買った小説を読み始めた。それ以来、事件について考えることも無かった。時々、上司は事件について聞いてきたが、適当な返事をした。もう、事件についての情報すら入らなくなった。というよりは、それを伊山が拒絶していた。事件のことなど、忘れたいとすら考えていたのだ。その願いはすぐに叶えられた。1ヶ月もすると、事件のことなど伊山の頭からすっかり消え去っていた。
そうして15年経った伊山は、42歳という年齢で会社を去った。『リストラ』という、数年前までは想像もしていなかった理由で、だ。
伊山はふとその時のことを思い出した。伊山は38歳で部長に任命された。まだ若く、会社としても異例の人事であった。人望も厚く、仕事の成果も認められていたためである。伊山は、仕事の最前線に立ち続けることを条件に、これを受けた。伊山は形式上の部長というだけで、部長としてしなければいけなかったのは、部長会への出席とミーティングで話すことだけだった。そのため伊山の部には、管理だけを任された、50過ぎの男が内勤として常駐していた。男の名前は、内野孝三。伊山が入社した頃の教育係だった。内野は、伊山に仕事のいろはを懇切丁寧に教えてくれた。よく飲みに連れて行ってもくれたし、どんな時でも伊山をかばってくれる、尊敬すべき先輩であった。ただ行動力に欠ける所があり、社からの評価は低かった。事実、仕事の成果を出す、という面から見れば、落ちこぼれと言われても仕方の無い程度であった。
しかし伊山は、内野の管理能力の高さを見て、管理職に向いていると考えた。そのため、伊山が部長になるや、内野をエグゼクティブマネージャーという名称の内勤に指名し、昇進という形を取った。内野は伊山の予想通り、いやそれ以上によく働いてくれた。部はまとまりを持ち、終始順調に思えた。ところが、その3年後、内野は会社が保有する極秘情報を持って逃亡した。
内野は、盗んだ情報を3日以内に全て売り払っていた。会社は大きな痛手を食った。伊山は最も信頼を置いていた男に裏切られたのだ。当然、伊山の責任が問われることとなった。内野を、極秘情報ですら、容易に入手出来る役職に就かせたのは、他でもない、伊山なのだ。伊山は、内野を恨んだ。もし見つけることが出来れば、自らの手で首を絞めてやりたい程に。
1週間の猶予を与えられた伊山は、血眼になって内野を探した。八方手を尽くしたが、内野は見つからず、代わりに彼の作った多大な借金の存在だけが明るみに出た。
後で分かったことだが、内野は伊山による人事異動に屈辱を感じていた。例え、彼の管理能力が高かろうと、彼がしたかったことは前線で記者としての仕事をすることであった。それを、後輩である伊山に奪われてしまった。しかも、伊山はそれで恩を売った気になっている。内野にとってこれほどの屈辱は無かった。それから内野は酒を多く飲むようになり、ギャンブルに金を落とした。よくある転落劇だ。
内野の異変に気付いていた人間も数名いた。内野からよく愚痴を聞かされた人間もいた。それに気が付かずに、確かに恩を売った気になっていたのは、伊山だけだったのかもしれない。
伊山はもはや、誰を責める訳にもいかなかった。ともすれば、やはり悪いのは伊山だったのかもしれない。勿論、最も悪いのは、内野であることに間違いはない。しかし内野がこのような愚かしい行動に出た原因の一翼が、故意では無いにしろ、自分にあるという事実は大いに伊山を苦しめた。
伊山は、どうすることも出来ず、辞職届を提出した。上層部は何も言わずにそれを受け取った。結局それが、会社にとっても、自分にとっても最善の策であった。会社としては、伊山の処遇を決定する手間が省けたし、伊山には退職金も出た。
それでもって、伊山は今、生活をしてはいるが、この金がいつ無くなるかもしれないという焦燥は常に付きまとうのだ。金は日々減る一方で、増えることなど、無い。ただ、日々使う金をなるべく少なくしようと考えると、家を出ることがおっくうになる。それだけでは無い、あらゆる行動をしたくなくなるのだ。それでもやはり不安は消えない。
働けばいいのだが、退職理由が良くないため、再就職もなかなか難しいのではないだろうかと勝手に考えている。何より、伊山は今までの人生が自分に残したものの虚しさをひしひしと感じていた。今まで自分の信じていたものがガタガタと音を立てて崩れるのが分かった。それは勿論、自分の人格も含めて。今まで、自分の気付かない所で、多くの人を傷つけていたのかもしれない。そう考えると、もう一度何もかもやり直したくなる。しかし、そんなことが出来ないことは分かっている。だとすればなるべく、人に出会わないようにするべきだ。そうして結局何をする気も起きず、人間不信に近い所まで追い詰められた伊山は、あらゆることに対して、逃げ腰になっていったのだ。