07 真っ黒
塾に着くと、高下はまだ授業をしていた。分厚い扉越しに、高下の声が漏れ聞こえている。少しエコーがかかりぼやけているため、内容は聞き取れそうも無い。子供たちを見たいという思惑もあり、伊山は教室が一直線に見える、看守室の前の椅子に腰かけて、高下を待った。
静かな館内を見渡していると、まるで時間が止まっているような気さえしてくる。伊山はため息を漏らすと、後ろの壁に頭を当てた。そうしてぼんやりとしていたので、急にチャイムが鳴った時、伊山はドキッとした。その音は静かな館内に必要以上に大きく響いた。
それを合図にして、奥の教室が少しさわついた後、銀色の丸ノブが音を立てて回った。扉が開くと、高下の姿が見えた。続けて、小学生が一人、また一人と順番に現れた。扉が開くと同時に、まるで息でも止めていた様に溢れ出すものだと考えていた伊山は、その規則正しい(全く奇妙な程に)光景に少し戸惑った。高下はこちらを見て、また作り笑いを浮かべた。
「すみません、お待たせしました」
「いえいえ、構いませんよ。しかし、この辺はいい場所ですね」
「田舎も不便なんですが、慣れてしまえばさほど気にならない。虫が多いのは、いつまで経っても慣れませんがね。まあ、立ち話もなんですし、裏に喫茶店があります。そこで話しましょう。今日の講義は終わりましたし、塾はもう閉めますから」
高下は一日の仕事を終えて、落ち着いた風に、誘いの言葉を発した。警察が事情を聞きに来た時も、同様に接したのだろうか。慣れっ子のようなこの落ち着きと自信は、どこから現れているのだろうか。
高下が鍵をかけるのを待って、二人は茶店に向かった。先程、伊山一人で散歩していた時には見えもしなかったのに、到着してみると、ものの3分程度の所に、しっかりとその茶店はあった。田舎には不釣合いな、アメリカを意識したモダンな外観で、店内にも異国のインテリアが溢れていた。
二人は席に座ると、高下はフルーツジュースを、伊山はここでも、ホットコーヒーを注文した。高下はそれに敏感に反応してニヤリと笑った。
「こんな暑い日にもホットコーヒーは売れるんですね。僕なら、夏場にメニューからホットコーヒーを消されても、気づかずに秋を迎えることになるでしょうね」
伊山は、高下の皮肉をこめた冗談を聞き流した。この男の持つ不気味さは、悪趣味な冗談に反応する気すら失わせた。
「失礼ですが、ご職業は?…あぁちなみに僕は塾講師ですよ、ご存知の通り」
高下はひくついた笑みを見せた。伊山は嫌悪さえ感じたが努めてそれを出さないようにして答えた。
「なんてことはない、普通のサラリーマンですよ」
高下はそれを聞くと、目を少し細め、またすぐに表情を固めて言った。
「あなたと長くお話したいのですが、用事があります。ご用件は?」
その一連の動作から、嘘がばれているのではないかと、伊山は感じた。その嘘から、視線をはずさせるために、一気に確信に迫った。
「実はあなたの塾で起こった大量自殺について、お伺いに来ました」
何気ない風を装い、端的な言葉で述べた。勿論、伊山はまだ自殺者が全てこの塾の生徒だったという裏を取れてはいなかった。
高下は表情一つ変えなかった。顔色を変えるべきなのだ、今は。最も自然な反応は、目を逸らすことだ。そして、悲惨な事件を思い出すように悲しい表情をすべきなのだ。それなのに、どうしてこれ程までに、平静だろうか、この男は。
伊山は高下のお面のような顔を見て、苛立った。伊山の得たい反応はことごとく高下からは得られなかった。高下を掌握出来ないことは、手がかりを得られないことだけに留まらず、伊山の自尊心をも傷つけた。焦燥感だけが空回りし、余計に惨めに感じられた。
「それに関しては本当に、遺族の方もやりきれない思いでしょう。僕も、この数日で、生徒を16人も失って悲しい気持ちは当然、あります。亡くなった生徒の遺影には、全員とは言えませんが、当然手を合わせに伺いました。特に工藤さんは塾にも一度お見えになったので、よく覚えています」
やはり、自殺者は全員この塾の生徒だったのだ。工藤ゆかの母親の情報は正しかった。それは今、高下が立証してくれた。初めて、伊山が高下から導き出したのだ。伊山はそのことに少し満足した。
「その様ですね。一度その話を彼女から聞きました。その際は、ご迷惑をおかけしたみたいで。失礼な話なんですが、彼女は自殺した小学生に共通する点として、この塾の名前を挙げました。どうしても気になるということで、本来なら彼女が来るべきなんでしょうが、葬儀関係でどうしても時間が取れなくて。それで、私が代わりに来た、という訳なんです」
伊山はここに至った背景を、工藤ゆかの母親の知り合いであるという設定を崩さないように話した。高下は、やはり表情を変えなかった。
「可愛がっていた娘さんが亡くなったんです。無理も無い」
高下は先程から一応の悲しみは見せるが、全ては詭弁の域を越えなかった。と言うよりも、悲しんでいないことを隠す素振りすら感じられなかった。それが伊山には、自分に対する警戒心の無さというよりは、安く見られているという風に感じられた。それは激しく自尊心を傷つけたし、何とか挽回したいという気持ちをも起こさせた。
高下は同じような調子で続けた。
「いくら僕を疑おうと、時間の無駄ですよ。同様の件で、警察の方が来られました。しかし、僕にはいくら疑われようとも、何もない。一介の雇われている塾講師だ。今回の事件で、解雇の話まで出ました。自分に何一つ得のないことをする程、馬鹿ではありません。それに、警察の方は4日前に来られてから、一向に姿を見せない。それが何より無実の証拠ではないでしょうか」
表情を一切変えず、極めて穏やかな口調であった。疑いをかけられた人間は往々にして雄弁になる。しかし、高下のそれは疑いに対する防衛では無く、まるで本当に時間の無駄だからやめておいた方がいいと諭すようであった。しかし、そう言われれば言われる程、余計に反抗したくなるものだ。そのことすら、高下は分かっていて、敢えてそのように言ったのかもしれない。
とにかく伊山にとって、この高下という男は、得体の知れない者だった。そして、それと同時に黒。それも、どす黒く、淀んだ、まるで、下水に流し込まれる工場廃水のように、美しく青い海まで流れ出て、全てを汚染させる黒、そんな存在であった。
警察が捜査を打ち切ったことは、確かに高下と事件の関連性が薄いことを物語っている。しかし、伊山は高下のある小さなほころびを見逃さなかった。それを高下に突きつけてやる。それで伊山の自尊心は回復する。もはや、伊山にとってそのことが、最も優先されるべき項目になっていた。
「勘違いをされているようですが、私はあなたを疑うために来た訳ではありません。私がお伺いしたいのは、自殺前の学生に何か妙な点は無かったか、ということです」
伊山が指摘し終わると、高下は少し黙った。その沈黙は重々しかったが、伊山はそれが高下に確かにダメージを与えたことを確信した。高下は口を一文字に結んで、下を向いた。その肩が少し揺れていた。高下は、笑っていた。しかし、伊山は自尊心の復活に気をよくして、それにすら気が付かなかった。高下はわざと悔しそうな表情を作り、言った。
「警察の方は、皆僕を疑ってかかりましたから、あなたもそうなのかと。失礼しました。で、質問の件ですが、何も変わった点は無かったですよ」
高下はそれ以上、何も言わなかった。伊山はすっかり満足していた。高下の負け惜しみを聞いて、勝ち誇っていたのだ。勝って兜の緒を締めよ。そんな考えはすっかり伊山の頭から無くなっていた。