21 一つ目の条件
「僕があなたに与えた二つの条件を覚えていますか?一つは、あなたが心から死にたいと感じること」
高下は表情一つ変えずに言った。それならいつも感じている。いや、感じているという程はっきりしたものでも無い。日々の生活の所々に存在して、時折肩を叩き、そそくさと去っていくのだ。伊山は振り向いても何も見えないのが分かっていながら、何度でも振り向いてしまうのだ。
「あぁ、死にたいね。いや、自分を殺しちまいたい。しかし、お前の手だけは借りたくない。ただ捨てられた汚物のように、雨に打たれてな」
「なんだ、つまらないですね」
高下は本当につまらなそうな表情を見せた。伊山は高下の望んでいる返答をしたと思っていたため、その反応が意外であった。
「それじゃあ賭けにならない。本当はあなたが心から自殺したいと思うことが、あなたに与える条件だったんですよ。それで命がけのギャンブルでもしていただこうかと思っていたんですがね。そういった意味ではあなたの性格を履き違えていたようだ。しかし、これではあまりにもあっさりあなたの負けになってしまって、僕としても面白くない。ではこうしましょう」
伊山はここまで思い出して、はっとした。違う。一つ目の条件は『伊山が心から死にたいと感じること』ではない。高下はそんな伊山の方を見てニヤリと笑った。悪戯っぽい子供のような笑顔を浮かべていた。
「思い出したみたいですね。そう、一つ目の、本当の条件は『あなたが、心の底から生きたいと感じる』ことです。この条件を満たした時、あなたは15年前の事件を足がかりに、僕のもとへ来るようになっていたんです。考えてみればこの方が面白い条件なんですよ。生きたいと思った途端に死に向かって走り始めるんですから。皮肉すぎて笑えてくるでしょう」
本当に楽しそうにしている高下を見て、伊山は体が冷えてくるのを感じた。汗で濡れたシャツが風に当たっているということもあるが、それ以上に、自分が死にゆくことを高下の口から聞いたからである。今まで敢えて、そのことを口にしなかったのだ。その言葉を高下が思い出さないようにと、伊山は必死に隠してきたのだ。それが例え無駄な抵抗であったとしても、藁にもすがる思いだったのだ。
「あぁ、思わず死んでしまうなんて言葉が出てしまいましたね。でもまあいいでしょう。ちなみに、なぜ生きようと思ったんですか?」
高下は『死』という言葉が出たことを気にも留めない様子で、伊山に問うた。伊山はだらんと両腕を下ろして、諦めにも似た心持で無抵抗に答えた。
「正確には分からないが…事件を捜査した人たちの死を知り、自分もそうなってもおかしくないと感じたからかもしれない。あるいは事件を思い出し、それを調査するという目的が出来た時にはもう、始まっていたのかもしれない。お前には分からんだろうが、目的の無い人生程つまらないものは無い。その目的を見つけることが出来たんだ。いずれにせよ、15年前の事件がその契機となったことは疑う余地も無い。会社を辞めてから、初めて自分の意思で動こうと思ったんだ。しかし、それすらもお前によって仕組まれていたことだったとは」
「分からなくもないですよ、人生がつまらないものだという所は。ところで会社を辞めたんですね。会社を辞めた理由が何であれ、あなたは優秀な記者だ。いや、本当に。一つ目の条件を果たした所で僕を探すという催眠さえ、必要無かった訳だ。あなたのその探究心が、自発的に僕を探すはずだったのだから。しかもそれが生きる希望とは。つくづく記者なんですね、あなたは。もしかしたら、あなたが訪れやすいように、警察に住所を教える必要も無かったかもしれない」
本当に全てが仕組まれていたのだ。事件を調べると決めた時から、伊山の行動は全て、高下の統制下にあったのだ。自分の意思で動いていたと思っていた、あらゆる行動の全てが。伊山はもはや何も考えることが出来なかった。ただそこに自分が存在しているということ以外に、確かなことなど無いように思えた。あらゆる記憶も、行動も、曖昧なものになっていった。
伊山の頭にまたぼんやりと、15年前の記憶が蘇った。
「賭け?賭けってのはどういうことだ?」
伊山は高下の言った、賭けという言葉に反応して、うなだれながらも、質問した。
「まあ焦らないで下さいよ、説明しようとしていた所なんですから。お互いルールは知っておくべきだし、平等であることにギャンブルの妙というのは存在しますからね。お話しましょう。まあ簡単な話です。あなたが、僕の出す二つの条件をどちらも満たした時、私の前で死ぬことになります。そうだな、舌でも噛んで、いや、その時には相応のものを僕が用意しておきましょう。その時はあなたの負けだ。しかし、あなたが僕の前に、この条件を上手くすり抜けて訪れた場合は、あなたの勝ちだ。
どうです?あなたが今持っている劣等感や虚無感を解消する方法は他にはありません。命を懸けたギャンブルですが、どうせ要らない命だ。それで汚名返上出来るなら、悪くないでしょう。いや、最高だ。迷う必要も無いと思いますがね。もっとも、あなたに拒否する権利なんてありはしないのですが」
「悪趣味なやつだな…どうとでも好きなようにすればいい。お前の言う通り、このまま死ぬよりはマシかも知れない。一つ目の条件はさっき聞いたが、二つ目は何だ?」
走馬灯のように当時の記憶が蘇ってきた。そうだ、私はこの男と、賭けをすることになったのだ。投げやりにではあるが、それを了承したのだ。
とりあえず、一つ目の条件は既に満たしてしまった。それはつまり、相手にアドバンテージがあることを意味する。だが、諦めるにはまだ早い。二つ目の条件に関してはまだ満たしてない。それは伊山が今、生きていることからも明らかだ。伊山はどんなささいな行動でも、その条件に触れてしまう気がして、出来るだけ体を動かさないことにした。