20 自殺願望
伊山は体が鉛のように重くなるのを感じた。それが一体どうしてなのかは、全く分からなかったが目の前の男はそれを不思議には思っていないようだった。
「そうそう、あなたにとってさらに悲劇的な話をしましょう。あなたが追い求めてきた事件の真相自体は、これでおしまいです。まあエピローグとでも言いましょうか、これには続きがありましてね。ご存知かもしれませんが、僕に関わった警察関係者や、記者さんは皆自殺しています。実は、彼らにも同じような話をしました。その上で、彼らにも自殺を勧めました。驚いたことに、彼らはそれを実行した。さらに都合のいいことに、僕と話した全ての記憶を無くしてね。知らなかったんですが、僕には洗脳の才能があるらしい。それもすこぶる強力な。僕は神が与えたこの才能に感謝しました。それからは、積極的に洗脳や人間心理を学びました。それに催眠術というものも、少し学びました。そしてある興味深いものを発見しました。もしかしたら、ご存知かもしれないが、それは条件催眠というものです。ある条件、たとえば目の前で手を叩く、とかね。それが与えられて初めて、特定の行動を起こすというものです。
これをぜひ試してみたいと考えていた時にあなたは、来た。正直胸が躍りましたよ。次の実験台が来てくれた、それも無知な小学生のように自尊心が強く、自分を完璧だと思い込んでいる、僕の最も嫌いなタイプの男だ、とね」
私は悪い夢でも見ているのだろうか。伊山の心臓は今までに味わったことの無い速さで鳴り響いた。恐怖は自分の脳が作り出すものだ。伊山は気付いてしまった。いや、あるいはそれは悪い想像なのかもしれない。しかし、皮肉なことに、今それが最も現実に近い。高下は、『僕と話した全ての記憶を無くして』と言った。伊山も同様に、高下と話した記憶が無いのだ。いや正確には、彼と会ったことは覚えている。そして話したことも覚えている。不可解な時間を除いては。思えば伊山が高下と話したのは30分程度。しかし、あの日気付いた時にはずいぶん長い時間が経っていた。その空白の時間に高下と話していたのだとしたら、伊山もその後、記憶を失ったのだとしたら。それは、大きな説得力を持っていた。そしてもし仮にそうであれば、あの日、事件について突然興味を失ったことも、高下がしくんだことなのだろう。
伊山の中に浮かんだ恐怖は、様々な材料によって生々しく肉付けされ、より現実的になっていった。伊山は頭を働かせるのを止めようとした。これが夢であるなら、早く覚めるように願った。そのどれもが叶わなかった。高下の周囲を取り巻く謎の自殺が、自分にとって、遠い存在ではなく思えた。それどころか、いずれ必ず訪れるもののようにさえ思えた。
「あぁ」
伊山は思わず、声を漏らした。それは落胆や諦めといったあらゆる負の感情が、音として漏れ聞こえたというに最も近い。
「少しずつ、思い出して来たようですね。いや、面白くなって来た。僕はその日もいつも通り、個人授業を行いました。しかしあなたには特別カリキュラムがあった。新しいものを試す時というのは、なぜあれ程心が弾むんですかね。新しい服を着て、出かける時のように、僕は浮かれていました。しかしヘマだけはしてはいけないと、自分を戒めました。何たってこれは、10年以上かかるかも知れない長期計画なのだから。僕は丁寧に、まるで指に刺さった棘を抜くように、あなたに授業をしました。そして最後に催眠の条件を叩き込みました。それも、極めて神経質に行いました。その結果、あなたは二つの条件に触れない限りは、生きていることを許されたのです」
伊山の頭の中で少しずつ、断片的に記憶が錯綜した。そのせいか激しい頭痛が起こり、伊山は膝をついた。そうだ、あの日、高下は私に小学生児童連続飛び降り自殺の真相を話した。それもぼんやりだが思い出してきた。そして、激憤する私に向かってゆっくりと言った。
「あなたは今まで周囲の人を見下してきた。それは、あなたが意識する、しないに関わらず。しかしね、あなたは誰よりも劣っている。あなたは僕からすれば下らない、とるに足らない存在だ。それはこれから生きていてもなんら変わらないことなのです」
「ふざけるな!お前は何でも分かっているような素振りを見せるが、その実何にも分かっちゃいない」
そうだ、私は怒鳴った。しかし、椅子にくくりつけられた体ではどうすることも出来ない。惨めに椅子が揺れるだけだった。椅子が軋んで、情けない音が鳴るのを、高下はニヤニヤ笑いながら見ていた。
「無様な人だ。そうですよ、あなたの言う通りだ。分かっていない様なので言っておきますが、あなたも同様に、何でも分かっているような口をきく。あなたの言葉を借りるなら、あなたは何にも分かっちゃいない。そう、あなたは自分が下らなくて、どうしようもない無知な人間だとどこかで分かっている。お利口さんだ。それに、今のその姿、お似合いですよ。僕の体型を見て、油断したんでしょうが、こんなに簡単に縄にかかった人は初めてだ」
高下は話している間中薄ら笑いを浮かべていた。思い出した。あんなに屈辱的な気持ちになったことは今までに一度も無かった。これまでの自分を全否定されたような。本当に自分が卑小なものに思われた。今思えばもうすっかり高下の術中にはまっていたのだろうが、彼には不思議な力があった。ヒトラーのように、一種のカリスマとでも言おうか、信じずにはいられない力を持っているのだ。それだけは認めねばならない。
「あなたは常に心のどこかで不安を感じていたはずだ。まるで小動物のようにビクビクしながら、誰かに蔑まれた目で見られやしないかと怯えて、その小心を隠すために落ちついた素振りを見せる。それで自分までも騙した気になっている。でも、さっき僕がそれを見透かすように、ちょっと、本当にほんのちょっとだけ、物乞いを疎む様な目つきをあなたに向けただけで、敏感にそれを嗅ぎ取って、必死になって僕に食いついてきた。笑えましたよ、自分を大きく見せるのに必死なあなたに。憐れでならなかったので、わざと一芝居打ったんですよ。あなたはそれですっかり術中にはまったと思い、有頂天になった。思わず笑ってしまったんですが、それすらも気付かない程にね」
伊山は顔から火が出ると言っても言い過ぎではない程の羞恥と屈辱を覚えた。このまま小さくなって、かかっている縄がするりとほどけたとしても、このまま席に座って、しまいにはいなくなってしまいたかった。もう、高下の目を見ることは出来なかった。言い知れぬ敗北感、それは陵辱されたのと同じだった。若い頃に書いた恋文を、今更皆に見られ、馬鹿にされるような。いや、それ以上だ。この男に降伏してしまう自分、黙り込んでしまって、確かにあまりにも憐れだ。その時不意に、自分が客観的に見えた。
か細い年下の男に縄で縛られ、身動きもできず、言葉で蹂躙され、反論もできない。それが私の生きた28年間か。どうすればいいのだ。どうすればこの憐れな気持ちを消してしまえるんだ。死にたい。いや、死なねばならない。
「どうしました?死にたくなりましたか?」
まただ、どうしてこの男には私の考えが筒抜けに分かってしまうのか。たとえ私がこの男を殺そうとしても、殺せはしない。逆に殺されてしまうだろう。もはや降伏に似たこの気持ちは、私を本当に卑小な存在へと変化させた。