19 ロイコクロリディウム
「カタツムリに寄生する虫の話を知っていますか?『ロイコクロリディウム』という名前でしたかね。いや、まぁ名前なんてものは所詮、個体を識別するために人間が勝手に付けたものです。どうでもいい。問題はその実態にあるのだ。ちょうどあなた方が飛び降り自殺という表面だけしか見ていないのと同様に、ね。
この寄生虫ですが、なんともおぞましい生物なんですよ。先程言ったようにカタツムリに寄生するんですが、その触覚に寄生して中で蠢くんですよ。ものによっては緑などの彩色をもって触覚の中で、縦に伸縮します。何も知らず見る分には美しいかもしれないが、その様は思い出しただけでも、ぞっとしますよ。そもそもコイツの目的はカタツムリに寄生することなんかじゃない。コイツは元来、葉陰なんかに隠れているカタツムリを操って葉を登らせ、高く目立つ場所へと自分を運ばせるのです。そうして、そこでまた、ウネウネと気持ちの悪い伸縮運動を行う訳です。あとはただ、カタツムリが自分ごと鳥に食われるのを待つんですよ。
鳥に食われた寄生虫は鳥の体内で成長し、鳥の糞に入ってまた葉の上に落ちる。そうしてそれがまたカタツムリに食われるんですよ。そうやって、この寄生虫は生き続ける。どうです?おぞましいでしょう。しかし、僕はこれを知った時、はたと気が付いたんですよ。 あぁこれが人間なのだ、と。この寄生虫に揺り動かされる愚鈍で間抜けなものこそが、まさしく人間なのです。人間は私利私欲にまみれ、ただ地位・名誉をいたずらに欲し、あげくは天を目指す。まるで何者かに取り付かれたように。そう、そんな話はいくらでもある。バベルの塔だってそうだし、蜘蛛の糸だって。イカロスなんてそれの最もな例だと思いますよ。下らない欲に駆られ、それが故、殺される。彼らはつまり、殺されるために登っているのです。幸せがそこにあると信じて疑わないが、その背後には確かに死という絶望がまた、うねうねと蠢いている。そして、彼らが死んだあとには必ず、糞のような下らないものが残る。それが形のあるものであっても、なくても。それがまた次の被害者を生む訳です。我々はこうして希望のすぐ裏側にある、絶望を追い生きるしかないのです。ただ不幸しか得られず、朽ちるのを待つのです。どうです、残酷な話でしょう」
高下はさも満足げに伊山の方を見た。かつての伊山なら、それに同調してしまったかもしれない。しかし、人生に希望を見つけた伊山にとって、この話は全くの見当違いであるように思えた。生きるということは、確かに絶望的なことなのかもしれない。しかしその中にも、確かに希望はあるのだ。それは四葉のクローバーを探すように、注意深く観察しなければ見つからない。様々なものに隠されて、小さくなってはいるが、それを見つけ出すことこそが、人生というものなのだ。探すことを諦めれば、そこにはずっと辿り着けやしない。
高下は、納得しない様子の伊山を見て、少し機嫌を悪くしたようだった。しかし、またすぐに悦に入った表情で話し始めた。
「僕の授業は毎日こんな話でした。それは国語であり、理科であり、この世の絶望を知る授業でもありましたがね。子供達は熱心に僕の話に聞き入りました。そして、次第に希望に輝いていた瞳がくすんでゆくのが分かりました。彼らはようやく将来に希望など残されていないことに気が付きました。そして、無知ゆえに抱いていた希望は、絶望へと摩り替りました。それでも彼らが無知であることに変わりは無かったのですが。
僕は子供達を洗脳することに、快感を覚えました。いや、本当に楽しくなってきてね、僕の中にあった優越感への欲求は、支配欲へと成長し、洗脳することを至上の喜びと感じるようになっていました。
『僕から聞いたことは誰にも話してはいけない。もし話せば、君達にも彼らの寄生虫が乗り移るよ、それは極めて精神的なものだが、君達はそれによって憐れにも内側から腐敗するだろう』僕は子供達にそう言いました。しかし、彼らが本当に僕を信用し切っているという確信は、実はありませんでした。酷く不安そうに工藤ゆかが僕に話しかけて来るまではね。そう、彼女は最初の自殺者ですよ。何を言うかと思っていたら、こう言ったんです。『周りの友人は皆何も知らずのんきに過ごしています。勉強すれば幸せになれるなんて大人の嘘を真に受けている。そんな風に考えたら、何だか急に全てが下らなく思えて。学校では誰とも話さないようになりました。家に帰っても、親は愚かしく夢を口にします。その大半は私に関することでした。有名中学に入るだの、プロのスポーツ選手になるだのと。両親が私にも寄生虫を植えつけようとしているのはすぐに分かりました。それから私は怖くなって。先生、私を救って下さい。もう、先生しか頼る人がいないんです』
あの子は確かにそう言いました。目に涙を浮かべながらね。人間は確かに愚かしい生物だが、それ以上だ。彼女は何も分かっていないのに、勝手な被害妄想で両親を怖れているのです。しかし、僕はそれと同時に激しい快感を覚えました。親以上に信頼され、生きるよりべにされているのだと考えるとね。
僕はずっと疑問に思っていたことを実行に移そうと決心しました。それは、洗脳がどこまで有効かと言うことです。どこまでなら、彼らを騙し続けられるのか。そう考えた時、どうしても、思わずにはいられないのです。
洗脳で、人は自らの命を絶てるのか、と。もしもそれが可能なら、もはや僕に出来ないことは何も無いでしょう。そうして僕は再び優越感を得られる。それも飛び切りのものをね。
僕は出来るだけ優しい口調で彼女に言いました。
『高く登るから絶望がやって来るんだ。絶望は常に高い所にあるものだ。それは精神的にということだけでなく、物理的にもだ。では、逆に高い所から、下に行けばどうなると思う。君は賢い子だ、もう分かっているだろう。とどのつまりそれしか方法がないんだよ。かつて僕はその方法を試した。どうなったかは、今君の目の前を見れば分かるはずだ』
そんな戯言が、彼女には一筋の光に見えているのです。彼女は、不安そうに、しかし力強い声で返事をしました。まるで自分が本当に賢い、選ばれた人間だとでも思っているように。結局それは希望を追い、上へ登ることと何ら変わりないことにも気付かずに。希望を求め、下へ行く。しかし、そこにあるのは地面だけだ、それはつまり、さらに早い死を意味する。私は笑いをこらえながら、彼女の頭を数回撫でてやりました。
彼女はある意味で優秀な生徒でした。最も従順であるという点に関してですが。彼女は言われたことをすぐに実行した。しかし、彼女が行ったことは、学校の階段を屋上から駆け下りるというものでした。そうして僕にそれを報告すると、褒められるとでも思ったのか、笑顔を見せていました。僕は腹が立つのを必死にこらえて、『その程度の速さで絶望から逃れられるのならば、皆逃れている。言わずとも優秀な君なら分かると思ったが。いや、僕が期待し過ぎたのが悪かったんだ。すまない』
僕の言葉を聞くと、彼女は申し訳なさそうに謝りました。そして、どうしたらいいかを僕に聞いてきた。そうやってすぐに答えを求める姿勢に苛立ちはしましたが、僕は答えました。『いいかい、僕が言いたいのは、階段を駆け下りる程度じゃ遅すぎる、ということだ。ではどうすればよいか。答えは簡単だ。落下すればいい。そんな不安そうな顔をしなくても、分かっているよ、君の言いたいことは。安心しなさい。かつて僕は10階建てのビルから飛び降りたが、無傷だった。絶望から逃れた瞬間、死という絶望すら無くなる。死というものは、絶望に向かう愚かな人間のみが受けなければいけない罰なんだ』
彼女はそれでも不安そうにしていましたが、何度も説得する内に、ようやく首を縦に振りました。その夜は興奮して眠れませんでしたよ。まさか、本当にそんなことなどありえない、と自分に言い聞かせてみても、気持ちの高ぶりは抑えられませんでした。
その翌日、彼女は本当に自殺しました。勿論、彼女は死にました。僕は、脳にアドレナリンが溢れるのを感じました。あなたはそんな体験をしたことがありますか。それは素晴らしかった。天にも昇る気持ちとはこのような気分のことを言うのだろうと思いました。
僕は何度もこの興奮を味わいたかった。だから、そうなるようにした。
『工藤ゆかは僕との約束を破ったために、死んでしまったのだ。彼女のせいで、君達の腐敗も既に進んでいる。どうするべきか、分かるか』彼らは僕の問いに対して、何も答えられなかった。ただ、工藤ゆかに対する憎しみはあったようです。誰かは彼女のことを裏切り者と言った。そして、自分はそうでは無いと必死になって僕にアピールしてきました。それを見た他の子供は、遅れを取ってはならないとばかり、こぞって僕に、助かる方法を聞きました。こんな風にして、ある時は個人的に、またある時は全体に、助かる方法を吹聴しました。つまり僕は彼らに何度も自殺を促しました。簡単なことじゃなかった。僕はそれを、短期間で行わなければならなかった。誰かが気付いてしまえば、それでおしまいなのだから。それに全員を自殺させる必要もあった。証言者がいては困りますからね。
まさか本当にこんなことが可能だなんて思いませんでしたが、事実彼らは皆死んだ。それもしっかりと短期間でね。驚いているようですが、ここまではあなたにも一度お話したんですよ」
嘘だ。そんな話は一度だって聞いた記憶がない。第一この話を聞いたことがあるなら、今更こんな場所には来ない。
高下は徐々に冷静さを取り戻していた。冷酷な笑みを浮かべると、伊山に視線を向け、はずそうとしなかった。15年前の高下が戻りつつあった。おそらく、15年前を思い出している、極めて鮮明に。
高下の語った子供達の連続飛び降り自殺の真相は、どこか遠い所で起こったおとぎ話のようであった。子供を洗脳し、自殺させるという、何とも信じ難いその話を、伊山はすぐには認められなかった。そのため、反論する言葉も見当たらなかった。
伊山は何も言わず、呆然としていた。まるで背中に棒でも入れられたかのように、同じ姿勢で立ち尽くしている。いや、一歩も動けないのだ。冷や汗が体中に流れ、服が肌にはりつく。その不快感をかみ締めながら、高下の顔を見た。自然、彼と目が合った。彼の目には伊山が映っているだろうし、伊山の目には高下が映っていた。