18 迷い込んだ森
「僕が塾講師になったのは、あの事件が起こる1年くらい前でした。教育大学の大学院を卒業しましたが、生憎教師の口も無かったので、特に考えもせず塾講師の道を選びました。勘違いされても困るので言っておきますが、僕は教師になり、進路の相談に乗る自分がどうしても想像出来なかったので、真剣に就職先を探しはしませんでした。それなら勉学だけを教える塾講師の方がよほど向いていると考えたのです。
小さな塾だったので、理科と国語の二教科を教えることになりました。初めの1ヶ月は真面目に働きました。僕にとって人にものを教えることは至福の喜びでした。その時間だけは、優越感を持つことができる。少なくとも今、目の前で僕の話を聞いている人間よりは、上に立っているんだとね。それが教師を目指した理由でもあるんですが。
しかし次第に、それが下らない感情に思えてきました。まるで子供と喧嘩しているようで、何とも陳腐に思えたんです。そんなものは、下等な人間のやることだ。落ちる所まで落ちて、蔑まれ、日陰に隠れて過ごした者が、何とか得た安らぎとでも言いましょうか、とにかく、自分にとって恥ずべき感情になったのです。僕はその原因を考えました。そして、あることに気付きました。自分が恥辱を感じるのは、教える対象が小学生であることに起因している。つまり、小学生があまりにも無知であることが僕を肥溜めのような場所へ陥れているのです。
小学生の低脳ぶりには、本当にうんざりしますよ。揃いも揃って、無知で愚かな癖に、いや、それゆえ自分の生きる先には多くの希望が待っていると信じて疑わない。極めてエゴイスティックに、自己の完全性を信じている、そうでしょう。黙って聞いていないで答えて下さい。どう思います、ねぇ。あなたはもっとおしゃべりだったはずですよ、15年前は。いや、言葉が悪かった、雄弁とでも言った方がいいですかね」
高下は皮肉な笑いをこめて、伊山の顔を見た。脂汗がじんわりと浮き出た伊山の顔をまじまじと見てはいたが、それでいて、その奥の方を見つめるような視線は相変わらず不気味であった。
高下の言葉はおよそ、教育者のそれではなかった。多くの矛盾をはらんだ発言は、もはや『理知的』という表現から程遠かった。そして高下は小学生だけではなく、伊山に対しても明らかに蔑んだ感情を抱いていた。伊山は息苦しさを感じた。伊山の立っている右側には、台所があった。ガスの栓を見たが、きっちり閉まっている。早く外の空気を吸いたかった。しかし、今動くことすら、危険に感じられた。ただ、じっとしていることが唯一、助かる道であるように思われた。
「子供は無知ではない。純然たる希望だ。それに私には君の方がよっぽどエゴイスティックなように思われるがね」
伊山は、精一杯の強気でこう返した。正論を言っているのは伊山であるにも関わらず、それは弱々しく高下のため息にかき消された。高下は益々馬鹿にした表情を作り、分からんでしょうね、と首を小さく横に振った。
「あぁ、そうだ僕が話し切ってしまう前に、あなたがどうしてここを訪れたのか、それを先に聞かせて欲しいんですよ。単なる好奇心なんですがね、それを聞かねば、話を先へやれないんです」
高下の言っている意味は全く分からなかったが、もはや伊山に反抗する気力は残っていなかった。一刻も早くここを抜け出したかった。
伊山は早口に、イタリア料理屋で聞いた話を伝えた。高下は、「それは興味深い話ですね」と、顔色一つ変えずに言った。伊山は話しながら、こんな雲を掴むような話を真に受けてここまで来たことを、高下に馬鹿にされはしないかと急に不安になった。
「15年前の事件も、これに酷似した真相があるんじゃないか、なんてSFまがいのことを考えた時、真相を究明したい欲求に駆られてね。それで、ここに行き着いた、という訳だ。勿論そんなことはないと思うが。あくまできっかけとしてこの話があっただけだ」
「いや、近い。それは限りなく近いんですよ。ただし、僕がしたのはもっと残忍な方法です。手法は近いようでいて、中身はてんで違う」
高下の意外な反応に驚くと同時に、伊山は真相が語られる時が近いことを知った。おそらくは、もう、すぐそこにある。伊山が15年前に迷いこんだ森は、猛毒の蛇が住んでおり、高い湿度と、風の入らない閉鎖的な場所であった。群生する植物を掻き分けて、その鋭利な葉で手を切りながらも、ようやくその中心に辿り着く。今、まさにその最後の葉を脇へ押しやる所なのだ。