14 記憶の固執
伊山は目の前にある、透明な空気に答えを求めた。そうして、それが無駄であることに気付くまでの数分間は、この地球上にあって無いようなものだった。
本の最後に書かれた一言は、あまりにも陳腐だった。下らない映画にお似合いのその台詞を、伊山はゆっくりと指でなぞった。指先から力が抜けていくような感覚を覚え、指を折り曲げようとした。しかし、震えた手は伊山の思い通りには動いてくれなかった。
この陳腐さが、この簡潔さが、伊山には恐ろしかった。洗練された表現を持ってすれば、多くの人間を説得することは出来るだろう。しかし、死を感じた男の、何の飾り気も無い言葉こそ、強烈なリアリティを持つのだ。伊山には、それが自分に当てられた言葉のように思われた。事件に関係した者が不可解な自殺を遂げるならば、伊山も例外では無い。
15年前、伊山は精力的に事件の捜査をした。しかしある時期を境に、捜査を止めてしまった。それは伊山の危機察知能力から来たものなのかもしれない。すんでの所で、自分は難を逃れたのかもしれない。
伊山は自分に言い聞かせるようにして、何度も心の中でそう言った。そして、過去の記憶からさらに安心出来る材料を探したが、とうとう見つからず、諦めて手元の本に目をやるより他無かった。そこには、他人から意味を与えられた、文字という形象の群れがあるだけだった。ページをめくると、そこに出版社の名前を見つけた。
光栄社。国内最大手の出版会社だ。色々と黒い噂の耐えない会社ではあるが、表向きは優良出版会社ということで通っている。そこに書かれた3つの電話番号の内1つを選んで伊山は電話をかけた。
「お電話ありがとうございます、光栄社です」
受話器からは、機械的な若い女性の声が聞こえた。伊山は落ち着いて、著者の名前を再度確認した。
「『神谷昇』の友人なのですが、最近連絡が付かないので、心配しています。彼が生きているかどうかだけでも、確認したくて…彼の著書に載っていた御社に電話させていただきました。彼が生きていればそれでいいのです、それだけ教えてくだされば結構ですから」
伊山は焦っていた。自分が早口になっていることを知りながらも、修正出来ないでいる。そればかりか、強引過ぎる口調が相手に不信感を抱かせていた。少しの沈黙の後、戸惑いながらも、女性は少し待つよう伊山に言った。受話器からは軽すぎる音色で、クラシックが流れている。この曲は何だったろうか?昔、家にあったオルゴールと同じ曲。『エリーゼのために』ベートーヴェン作曲。伊山は気持ちを落ち着けるために、その曲を必死に聴いた。そうして曲が2度目のループに入ろうかという所で、何の前触れもなく音は止まった。続けて女性は言った。
「実は、大変申し上げにくいのですが、『神谷』先生は、既にお亡くなりになっております。それももう、15年も前に」
あるいは最後の希望だったのかもしれない。この本の著者が、今もどこかで生きていて、当時の自分が神経質になり過ぎていたと笑っていることが。
しかし、死んでいた。彼が予期していた通りに、それはしっかりと彼の元を訪れた。背中に蛭が這っているような不気味な感触がした。それは瞬く間に背中全体に広がった。伊山は背中に触れて、それを止めようと試みたが、すぐに無駄であることに気付き、腕を下ろした。視界には、ぐにゃりと曲がった机が見える。子供の頃に見た、サルバトール・ダリ『記憶の固執』を思い出した。液体のように柔らかく、粘ついた時計が、いくつも描かれた絵画だ。まるで、その中にいるようだった。現実とはかけ離れた世界で、伊山はどこに留まるでもなく、存在すら消えかけていた。
「お悔やみ申し上げます」
耳元から聞こえた声で、伊山は我に返った。女性は、数秒間の沈黙を別の意味に捉えたらしく、社交辞令を述べた。伊山の沈黙の本当の意味を知る者は、伊山しかいない。この、赤の他人の死にショックを受ける理由を。
「すいません。まさか、そんなことが。事故か病気かそれとも…」
伊山はその先を言うことが出来なかった。そうだ、他にいくらでも死因はある。不運なこの男は、きっと何か別の理由で命を落としたのだ。
もはや憐れとしか言いようの無いことは伊山にもよく分かっていた。現実から目を背けることしか出来ない自分の姿も、しっかりと見えていた。それでもそうせずにはいられない程、伊山は恐れていたのだ。あらゆる恐怖は、自身の想像が作り出す。例え明日殺されようとも、知らなければ恐怖は無い。首に刃を当てられて、その先を想像することこそが、恐怖なのだ。その点で、伊山は想像する材料を持ち過ぎていた。
伊山は死因が自殺であることを聞かされ、返答もせずにただ電話を切った。
逃れる術は無いでも無かった。今すぐに、この事件の捜査を止めて、元の平穏な暮らしに戻ればいい。死んでいると同義だと考えていた、あの安全な暮らしに。それで逃れられるかもしれない。しかし、既に死ぬことが決まっているとも考えられる。とにかくどのようにして死ぬかすらも分かっていないのだから、どんな風にだって想像出来るのだ。
伊山は悔いることも出来た。15年も経って今更事件の捜査などしなければよかったと。しかしもう、そのどれもが不確実だった。全てが杞憂にも思えた。
どちらにせよ、伊山は決意しなければならなかった。確実にこの恐怖を取り除くために。それはつまり、全ての謎を解き明かすということだ。逃げるより、前に進むことを決めるには、それなりの覚悟が要った。その覚悟を決めるのに、1時間の沈黙が必要だった。伊山は事件についてあらゆる考えを巡らせた。それは、これまでの人生において最も短い1時間だった。伊山は長い眠りから覚めたように目を開けると、ある男の名を呟いた。
高下…