10 帰る理由
伊山は勘定を済ませると、店を出た。その足で、実家へ向かった。実家には、昨年行ったきりだ。結局、若い時分など、数えるくらいしか母の顔を見なかった。今でも、母は一人暮らしをしている。70にさしかかろうかという母はまだまだ健康を損なっておらず、ピンピンしていた。最近では、ゲートボールを始めて、趣味の方で、友人を増やしているそうだ。昨年見た限りでは、昔よりも元気なくらいに思えたが、年々腕がか細くなっていく様は見るに耐えなかった。
母は久々の息子の帰りを喜んだ。地元の土地開発はもう3年前から凍結されている。マンションが建ち並ぶ場所もあれば、まだ田んぼに囲まれた民家もあった。広大な空き地には、もう何年も前から巨大ショッピングモールの完成予定図の看板が備え付けられている。しかし、市の予算が底を突いた今、この巨大施設の完成を見ることは、叶わないだろう。遊び場と化した空き地には、もう子供達の姿は無かった。その代わりに、小さなゴムボールが忘れ去られたように置かれていた。
他にも建設中のマンションなどが見え、土地開発の憐れな途上ぶりを示していた。時代の流れに置いて行かれたこの土地に、母を置いていることを今更ながら、悔いた。これは伊山の良心から来たものではない。それは、良心のようなものでしかないのだ。殺される豚を見て涙を流し、数日後には豚肉をほおばり、笑顔を見せるような、そんな無神経な感情なのだ。
母は夜食だと言って、ビールと煎餅を出してきた。煎餅は年寄りの好む色をしている。それは決して、年寄りに合わせて作られた訳では無いが、この濃く、ムラのある醤油色はいかにも年寄りを想起させる。硬くて、噛むのも難しいというのに、口内でビールに溶かし合わせてまで、母はこの菓子を食うのだ。伊山の煎餅を噛み砕く音と、母のそれとは、自然、異なるものとなった。そこにあるあらゆるものは、伊山に母の老いを感じさせた。
母は出来うる限り遠回りをして、リストラや、息子の生活についての心配をした。そうして、結局は実家に戻ってくることを薦めるに終止する。老いた母の、この願いほど憐れで、涙ったらしいものはおよそこの世に無いだろう。
伊山は仕事を辞めた時、母と住むことを考えないでは無かった。むしろそうなるだろうと決め込んですらいた。伊山は8年前に1度結婚をしていたが、あっけなく、その1年後には離婚をした。子供もいない。別れた理由は、伊山が仕事に追われ、おざなりにした夫婦関係にあった。妻はもう、伊山にうんざりしていたし、伊山はそれを受け入れられない妻を責めた。うんざりされようとも、自分は間違ったことはしていない。生活は仕事の上に成り立っている。仕事に精を出すことは、生活を支えることに繋がるのだから、感謝こそされても、非難される筋合いなどどこにも無い。そう思っていた。しかし最近は、もう少し何とかなったのではないかとも思う。仕事を言い訳に、妻をほったらかしにしていたのではないだろうか。そんな風に後悔することもあった。
しかしそれからは、恋人は勿論結婚の話だって無かったのだから、母と暮らすことが自然の流れであると思っていた。そんなことを考えながら、荷造りをしていてふと思ったのだ。埃のかかった潰れたカメラを見て。昔から、そうだった。母のもとでは何も出来なかった。母はよく出来た人だった。出来過ぎていたのだ。一人っ子ということもあり、私は甘やかされて育った。そんな母の溺愛ぶりを、父は何度か咎めはしたが、母は一向にそれを控えようとはしなかった。高校生になると、伊山は写真家になりたいという夢を持った。母にねだってカメラを買ってもらうと、それを、どこへ行くにも持って行った。一眼レフは当時高額だったことすら、頭には無かった。そうして1ヶ月もすると部屋の隅に置かれたカメラは埃をかぶってしまった。母といると、つい甘えてしまい、何でも中途半端になってしまう。東京で一人暮らしを始めてから、伊山は自分が成長したことを強く感じた。何でも一人でやり通す精神力や、臨機応変さも、全て一人になってから手に入れたものだ。
そんな思いから、母には悪いが一人暮らしをすることにしたのだ。その代わりに、実家から電車で30分程度の所に居を構えた。いつでも行けるという思いが、余計に実家から足を遠ざけた。
夜、寝付く時、ふと隣の部屋で眠る母の寝息に耳を澄ました。大丈夫、一定のリズムで聞こえてくる。それは、何の誇張でもなく、生きている証拠だった。そうして、自分の判断は果たして正しかっただろうかと、天井を眺めて考えた。その真ん中には、四角いガラスに覆われた電球がある。暗闇に浮かんだガラスの枠には、梅の木のイラストが描かれている。子供の頃は複雑に絡む枝が、人の横顔に見えて怖かったものだ。今でも、それは恐怖こそ無いが、顔に見える。
薄い布団は、畳の感触をほとんど和らげずに、私の背に伝えた。外から聞こえる蝉の声が、伊山に改めて夏を感じさせた。暑い。汗が額をつたった。そうだ、夏は暑かった。どうしようも無い暑さで寝付けない夜もあった。布団が汗で濡れて、気持ちが悪かったのも覚えている。今でも夏は暑いのだ。変わったのは自分だけで、四季は毎年変わらず訪れている。そんな当たり前のことすら忘れていた。いつからか、季節は自分の中から消えていたのだ。それは他のどんなものよりも、自分にとって重要では無かったからだ。
戻ってきてよかった。少なくとも、季節というものを思い出した。
今まで、自分が人間らしからぬ生活をして来たことを、気付かされた。まるで、この数十年間の生活全てが間違った方向にあったような気すらした。伊山は、益々母と暮らした方がよかったのではないかと自問した。私は、何をするために、一人暮らしをしたのだろうか。ただ単に、母親の面倒を見たくなかっただけではないか。孤独さと気楽さを天秤にかけて、独りでいることを選んだのかもしれない。
結局一人暮らしをして、ただ日々物憂げに暮らしている。外に出れば、車に撥ねられるかもしれないと、憐れな被害妄想に陥り、時間を浪費していただけだ。
何とも言えぬ空虚さを抱え、伊山は寝付けなかった。蝉の声、母の寝息、全てが生きている。今、自分の呼吸音は体内に響いてはいるが、果たして本当に動いているのだろうか。自分一人だけが実は死んでいるのではないだろうか。そんな気さえした。月はあざとく照り、夜はそれでも暗い。伊山は夢と現実の間を行き来しながら、うだるような暑さに答えを求めた。
翌朝、寝不足から来る独特の気だるさを感じながら、伊山は食卓に着いた。母はもう起きていて、鮭を焼いていた。香ばしい匂いが部屋に充満していた。料亭を思わせる朝食が、テーブルに並べられていた。具こそ質素ではあるが、その盛り付けは丁寧この上無かった。材料の無い中で、突然帰ってきた息子への、精一杯のもてなしが感じられた。伊山は胸が痛むのを感じた。ともすれば涙さえ流しかねなかった。
「すまないね、俺のために」
伊山の口からは、そんな言葉が自然とこぼれた。母は伊山に気付くと、振り向いて、何だ、起きてきたのかい、と言い最後に、焼鮭を一切れ皿に乗せた。味噌汁からは湯気が揺れていた。伊山はすっかり気だるさを忘れていた。いや、味噌汁だけでは無い、和え物も、茶碗によそわれた米も。全てが必要以上に伊山の心を温めた。
伊山が朝食を食べ始めると、母は優しい表情を浮かべ、見守るように見つめた。そして、思い出したように、言った。
「あんたがずっと昔に、夜突然来たことがあったろう?」
「俺が家に来る時は、大概突然だからなあ。いつの話だい?」
「近所で子供が自殺したって言って、帰ってきた時のことよ。」
伊山ははっとした。そうだ、すっかりここに来た目的を忘れていた。こんな所でのんびりするために帰ってきたのではないのだ。15年前のあの事件を調べるために戻ってきたのだ。やはり母といると、いけない。そうして一人暮らしさせていることへの安っぽい言い訳を、心の中ですぐさまかき消した。
「そうだ、その事件のことで戻って来たんだよ。何かあったのかい」
「もう知っているだろうが、あんたが会いに行った塾の先生が、3年くらい前に捕まったんだよ。確か、高下とか言ったかね。ここらじゃちょっとした話題になって。聞いた時には何とも思わなかったんだけど、ふと、あんたの顔を見て思い出したわ」
伊山はすぐには信じられない程、驚いた。高下が逮捕された。あの不気味な男が。あの事件からもう随分経っている。あの男ももう40歳を越えているだろう。まさに寝耳に水だ。全く知らなかった。
事件については、今から図書館に行って調べるつもりだった。それにしても、そんな重要な事さえ知らずにいるとは。伊山は少し苛立って言った。
「なぜ、もっと早く言ってくれなかったんだい」
「言おう言おうと思っていたんだけど、ずっと忘れていたんだよ。なんせあんたが落ち着いてこの家にいたことなんか無かったからね」
「それなら電話くらい…」
そう言いかけて、言葉を止めた。いい年になって母親に甘えて文句を言ってはいけない。第一、当時の自分が母からの連絡を受けたとしても、おそらく何一つ行動を起こさなかっただろう。そういった意味では、すばらしいタイミングだったのかも知れない。伊山は母に礼を言うと、早々に支度をし、家を出た。母は、今晩も息子が夕食を食べると聞いて、嬉しそうに今夜は鍋にすると言って、しわしわの笑顔を見せた。それは本当に楽しみなことだ。母の作る鍋は、絶品なのだから。