ゆめうつつ
相変わらず、ここには何も無い。
名前も知らない羸痩した木が一本。昼下がりの陽光に晒されて金色の鱗粉を揺蕩わせている。
私は僅かな木陰にぼんやりと座っており、つまり太陽に背き、温まりきった柔らかい天然芝に裸足で触れていた。十歩ほど先には芝生から砂浜へ移り変わるグラデーションが広がっていて、草木の囁きと漣に混じりさらさらと砂が駆けていく音だけがここにはあった。
ああ、この孤島を抜けて遠くに見える水平線を越えて立ち上る入道雲を突き破ることができれば、その向こうで寝ているであろう私を揺すって起こしてやるのに。
いずれ帰る時間は訪れるのだろうが、このままゆらゆらと微睡みを楽しんでいるか、さっさと起きてしまうか、私の匙加減でどうにでもできる。
と、そんな風に考えていたのだが、既に私は太陽の位置に合わせて何度も座る場所を更新している。その度に空腹を感じて起きよう、起きようと念じているがどうにも目が覚めない。悪夢ほど覚めにくいときはあれど、この見慣れた景色を悪夢とは思っていないのだが。
意味ありげに同じ夢を毎晩見せてくるのだからそろそろ何か起こっても良い頃なのだが一向に何も無いばかりか覚醒までの時間がどんどん延びており、まるで現実と遜色ない程に私の身体が活動しているようなのだ。
私の空腹はそれなりに心配になるほど進行している。
この夢から覚める方法はただ一つ、自然に現実の体が起きるのを待つのみ。例え夢の中で餓死しようと現実では無事であることを祈る。
何か食べ物は無いかと少し辺りを見回したが、半分寝ている頭と寝ぼけ眼は何一つ見つけられなかったようだ。そもそも木が一本生えているだけの小さな島に見渡しただけで見つかるような都合の良い食料などあってたまるものか。などと自分の夢だというのに文句を付けていたら、ついに腹の虫が鳴った。
誰に聞かれた訳でもないのに恥ずかしくなってしまい、何となく腹をさすったが目は覚めない。諦めて再び芝生に目を落とした。
不意に、木の影が突然太ったように見えた。
それは見間違いでは無かったらしく、影の中腹辺りからつば広の麦わら帽子らしき大きなシルエットが浮かんでいる。その持ち主が私の肩をトントンと叩くのと、私が振り返るのはほぼ同時の出来事だった。
「ねえ、お兄さん。どこからきたの」
高くも低くもない声。
麦わら帽子に結ばれた橙色のリボンが風に揺れる。
陶器のように白い指が、結べるか結べないか位の長さの黒髪を耳に掛けた。まるで太陽を背負っている様に見えることも相まって、神秘的というか、超越的な存在にも映り、半袖のワイシャツから覗く首元も目を逸らした方がいいと思った。あどけなさ、幼さが強調されている。なんというか、扇情的だった。明るい少年のようであり、淑やかな少女のようでもある。
私は先程の情けない腹の音を聞かれたのではと逃げ出したいほど恥ずかしくなったが逃げ場所はどこにも無い。俯いている私に彼は夜空みたいに大きな目を細めて微笑んだ。
「お兄さん、お腹が空いてるんだね。サンドイッチがあるんだ。僕と一緒に食べようよ」
返事をする間もなく、私の手は引かれ強制的に立ち上がらされた。未だ抜けない眠気によろけた。
いつの間に現れたのか、手を引かれて振り向いた先には太陽に向かって一本の道がいくつかの小さな丘を横断しながら畝っている。少し草を刈って土を露出させただけの簡易的な道。蹴って遊ぶ程にも大きくない小石が散りばめられていた。
かつて私が何も無い孤島だと思っていたここは、実は人の住む島だったのか。それならばなんと勿体の無い時間を過ごしてしまったのだろうか。
手を引かれるまま畦道をしばらく歩いていたが、景色に特に変化は無い。小高い丘が追加されただけで特に建築物や人間の気配があるわけでもなく、代わり映えのしない緑と空。少しも視界を憚る物が無い草原は少し丘を登ればすぐに水平線が現れた。ぼうっと眺めていて少しでも興味深いものといえば、歩き進むたびに変わる彼の影法師くらいなものか。
そんな道を暫く歩いていると、まだぼやけて見えるほど遠くに木が一本見えた。まさかまた同じ場所へ戻ってきたのではと心配したが、見慣れた例の砂浜は無かったので安心した。この島で二本目の木だ。少し前向きになれたお陰か足の疲労が溶けるようだった。木陰にはランドセル程の大きさの使い古したバスケットが置いてあり、その粗く不揃いな網目と薄桃色のハンカチーフは木漏れ日を吸い込んでいるようにも見えた。
「たくさん歩いたね」
その台詞は私の憔悴具合を見て言ったのだろう。
出会った時と同じように髪をかき上げ、彼は木陰にちょこんと腰を下ろした。息も上がってないしまだまだ歩き足りないといった感じだ。
数十分寝ぼけながら歩いた私の足はいとも簡単にふらつき、格好悪くも先に地面に手を着いてから座るはめになった。彼とバスケットを挟んで座ったのは、なんとなく密着するのは恥ずかしいと思ったから。私の半身は木陰に入りきらないままだ。
そんな様子を感じ取ったのか、彼は首を傾けいたずらっぽく笑って見せた。
「どうしてそんなに離れて座るの? 僕の隣においでよ」
彼はバスケットを拾い上げたかと思うと、私達の肩が密着するほどの距離まで飛び込んできた。心臓が止まるかと思った。
ここで気の利いた冗談を言えるほど口は上手くないので私は押し黙るばかりだ。
「さあ、お腹が空いているんでしょ。食べよう」
膝の上に乗せたバスケットを開けると、赤と緑の何かが挟まれたよく見かけるサンドイッチが入っていた。 野菜なのだろうが、よく分からない。丁度二人分のお腹を満たせるくらいの数。勝手にバスケットに手を突っ込むのもなんだか行儀が悪い気がして、待ての命令を受けた犬のような顔をしていた。彼はにっこり笑って一切れを私に差し出した。
おずおずと伸ばした手が彼の指先と接触する。
夢から覚めてしまうんじゃないかと思うくらい心臓が高鳴る。さっきからよく分からない感情が沸き起こってきて仕方がない。彼は何の遠慮も気遣いもしていないだけなのだろうが、私は一人で悶々と彼の意図を汲み取ろうとしていた。余計な事だと分かっている。なんだか場が持たずサンドイッチと彼の顔を交互に覗いていたら不意に合ってしまった目に首を傾げられた。すぐさま再びサンドイッチに視線を移した。
ひと呼吸。
静かに一口食べると、懐かしい味がした。何がどう懐かしいと思わせているのか分からないが、懐かしい。そしてもちろん美味しいが、どのように美味しいのか説明ができない。夢だから、仕方ない。
そう、これは夢なのだ。よく考えなくてもこれは夢、鮮明なだけの夢だ。夢だから、おどおどして彼に話しかけられないまま終わらせるのはもったいないのだ。彼の伝えたいことを分かりきらぬまま、私の言いたいことを何も言えぬまま、この夢には終わって欲しくない。私はもどかしさを解消する理由をなんとか揃えて、いざ一言「おいしい」と言おうとした。
「おいしい?」
先を越された。
彼は片時も目を逸らさず、私を見つめていた。
うん、おいしい。
夢の中で私は初めて口を開いた。
彼はより一層にっこり笑ったあと、大きく口を開けてサンドイッチを頬張った。私もつられて微笑をもらした。
何の刺激もなかった私の夢の中に、こんなにも魅力的な住人がいてくれたこと、しがらみのない静かで落ち着いたこの夢の中で、一生を終えるのも悪くないと思った。気づけば私の分のサンドイッチをいつの間にか食べきってしまった。空腹感も幾分か落ち着いたようだ。
彼にされたように、今度は私が凝視する。仕返しだ。
言い表しにくいが、妖艶な雰囲気の中にこのような幼さというか、そういうものを感じて、その、とても可愛いと思った。口いっぱいに咀嚼する姿や、指についたものを舐めとる姿、その時ちょっと寄り目になる顔。小動物の食事を眺めているようで、ああ、可愛いなあと思っているうちにどんどん微睡みが深くなってくる。彼の姿を細まった目の真ん中にとらえたまま首が傾いてくる。
この時間が永遠に続けばいい。意識の隙間でふとそう思った。
食べ終わった彼はこちらに気づくと心配そうな目で覗き込んできた。何か言いかけたようだが、蕩けた脳が理性を少し阻害したようで、私は静かに彼の背中に手を回した。
彼は一切抵抗しなかった。こうなることを分かっていたかのように、さらに言えばこうなるよう仕向けたかと思うほど。表情は分からないけど、怯えてはいない。嫌がる訳でもない。ただ私を受け入れることになんの弊害も無いと、そう考えているのだろう。彼の頬の温かさを肩で感じていると、私の背中に手を回してくれた。糸飴のようにか細く白い腕だが、確かに温かかった。
「寂しいの?」
無邪気にそう聞く彼に、なんだか深い罪悪感を覚えて慌てて離れた。
寂しいわけじゃない。
君がそんな目で見つめるから……。
なんて言い訳じみた、もとい気障な台詞は言えない。突然の無礼を素直に謝りたかった。
「お話、聞くよ」
地面についた私の手に、彼の手が重なる。
私はしどろもどろになりそうな口を落ち着けて、木にもたれかかり一息ついた。
寂しい、か。
考えてみればこれは夢の中。眠気で思考が定まらないことも相まって、その一言を皮切りに一度開いた口は思ったことをそのままにすらすらと話し始めた。不安だったこと、孤独だったこと、悲しかったこと。それだけでなく話はどんどん脱線し、嬉しかったこと、笑ったこと、 その他とりとめのない話まで、つかえることなく話し続けた。彼は時折頷いたり、撫でたり、共感したりしてくれた。私は時折目を瞑って話していたが、その度に雲の形が次々変わっていった。
人生でこんなにも一気に喋ったのは初めてだ。ぐちゃぐちゃになった記憶や経験をそのまま言語として翻訳しただけの言葉に脈絡は全くなく、私が喋ったことなのに私ですら理解できていない。あまりにも彼に聞き役を任せ続けてしまったので、ふと我に返って謝ったが「全然」と笑って返してくれた。
ここで話に区切りがついてしまった。
突然何一つ言葉が浮かばなくなり、静かになりすぎた空間と次の言葉を待つ彼の視線に板挟みになった私は肩を竦めて座り直した。
目一杯並べた私の妄言に対する総評は、彼が前を向いて優しく笑ったことで全て説明がついた。
生ぬるい風が吹いた。
あらゆる影と日向の境目が滲みだした。いつの間に現れたのか太陽の傍には鉛のように質量をもった暗雲が。
私は彼と顔を見合わせた。不規則に吹く湿った風に彼の黒髪が靡く。心配そうな顔だった。この後何が起こるのか大体予想がついたので、私は先程まで木漏れ日の下で太陽を存分に吸ったバスケットを胸の前に抱えた。それはもう既に雨の匂いを吸い込んでじめじめしていた。
先程までどうしようもなく快晴だった空はみるみるうちに侵食され、地上では灰を振りまいたかのように暗くなってしまった。
ついていけない速度で状況は変化していく。まるで夢のようだとヘンテコなことを考えた。今まさに夢の中にいるというのに。
空を見上げていた私の手に、震える彼の手が重なった。
「大丈夫だよ」
重なる私たちの手の甲に二、三滴の雨粒が跳ねた。
「心配しないで」
たちまち風雨は勢いを増し、静かにそよぐだけだった草木は興奮し、耳障りにざわめいた。大きな雨粒は木の葉の上でトランポリンのように反射してはさらに小さな粒となって私達の肌にまとわりつく。気づけば空は地上の全てを洗い流さんばかりに吹き荒れていた。
ぼうっとバスケットを抱えながら、私はもうこの夢の中の住人になってしまったのかと錯覚した。跳ねる水滴をこの肌で感じられるように現実と遜色なく体の感覚が機能している。視覚も聴覚も明瞭だし、嗅覚も鋭敏に働く。そして、ある程度複雑な思考を行っても目覚めることがない。体感二時間以上ここにいるが、もはや眠気というものもいよいよ分からなくなってきた。ここが本当に夢の中なのだとしたら私はもう死んでしまって、完全に体から精神が分離してしまったのだろうか。
手榴弾でも投擲されたかのように爆発的な突風が私達を襲った。彼は小さな悲鳴と共に私の胸に倒れ込んだ。私は咄嗟に地面に片手をつき、もう片方の手で彼の胴体を支えた。彼の麦わら帽子は風に飛ばされて、たちまち見えなくなった。残念だが、もう取り戻しに行くことは出来ない。
さすがにここまで激しくなると、もう体が触れ合うくらいでドキドキしていられない。私達に危機が迫っている。
降った雨の量に見合わず丘の下は既に冠水し始め、陸地をどんどん減らしていた。この非合理的な光景を見ると、やはり夢なのだろうかと俯瞰してしまう。
深く考える余裕もなく、濁流のように波打つ水面はたった一本の木と私達に目掛けてどんどんせりあがってくる。
覚悟を決めたのか、諦めてしまったのか分からないが、彼は私の体をより一層強く抱き締めた。呼応する様に、彼を守るかのように、ほとんど無意識だったが、私からも強く抱擁を返した。そして濁流は私達を簡単に飲み込み、渦巻く。草原の底が抜けてしまったかのように私達は深く、深くへ落ちていく。僅かな光すらも届かないところへ。
きっと怖いだろう。私は力一杯抱き締めていた腕を少し緩めた。サンドイッチを食べさせてくれたこと、とりとめのない話を聴いてくれたこと、そして彼に夢の中で出会えたこと。これが特別な夢じゃないとすれば、現実の私は正常に目を覚ましいつも通りの日常が始まるはずだ。ただ、私にとっての特別な夢としては一生記憶に残り続けるであろう。
耳の中に水が侵入してきた。それは生暖かくて、目が覚めるどころか微睡みをさらに強めた。息もできる。全く苦しくない。私に体を預けていた彼は力がすっかり抜け、まるで眠っているようだ。
そろそろ終わりが近づいている。ひどく現実的な夢だった。ほとんど目も開かないし前後左右もよく分からない。ただでさえ暗い水中にいるのだから尚更だ。最高潮に達した微睡みの中、ほんの少しの不安がよぎり彼の顔を見つめ直した。
あぶくを細く吐いて、彼は眠っていた。
私は安心して瞼を閉じた。彼の顔を忘れるのではないかと思って。夢の終わりは緞帳のようにゆっくりだった。
私はベッドの上でぼんやりしていた。
薄目に映る薄暗い部屋、天井で揺れる橙色のごく淡い光。
全身が乾ききっていて肌が突っ張っていた。やけに寝苦しかったような気もするが汗はかいておらず、風邪をひいた時のような不快な熱が体内を循環している。さっぱり目が覚めない。どうもおかしいと思ったら、よく考えてみればここは私の部屋ではない。どうやら暑さの原因は私の目の前にある暖炉で、電球や蝋燭などの灯りのない部屋で唯一の光源だった。ベッドの横にある窓はまるで黒い塗料を塗りたくったかのように何一つ見えず、乱れた髪の毛できょとんとしている私がぼんやりと映るばかり。今は果たして夜と言い切っていいのか不安になるほどの深い深い闇だった。
焚べられた木から灰がほろりと落ちる。それと同時に微かに弾ける音がして、蛍のように二、三匹の火の粉が煙突へ吸い込まれていった。
喉が渇いた。
過剰なほど喉が渇いて、気持ち悪くて仕方ない。呼吸をする度に少し狭まる喉がピッタリと張り付いて、時折咳をするように無理矢理剥がす必要があった。その度に擦りむいたような痛みが走るものだから、呼吸ひとつで寿命が縮んでいるんじゃないかと思う程だ。水を得られなかった植物が徐々に枯れていくように。
ああ、水が欲しい、とそう思っていた私の手にはいつの間にかガラス製の小さなコップが握られていた。本来は逆のはずだが、指が冷たいと感じたのはそれに気がついてからだった。
中には無色透明の液体が入っており、これを持ったまま零さないように横になることは不可能なので明らかにたった今手にしたものなのだろう。現実とは思えない現象が起こってしまったが、別段私は気に留める様子を見せず、自分でも驚くほど当たり前のように受け入れた。
どちらにせよ喉を潤せるものなら何でもいいと、私は放り投げんばかりに勢いよく二、三口で水を呷った。
閉じた喉の入口を無味の液体が引き剥がし、胃の中にすとんと落ちていった。僅かに掠れた音のする深呼吸を何度か繰り返すうち、気道は瑞々しい呼吸を始めた。
冷たい水が血液に直接流れ込んだかのように冷気が体をじわじわと巡る。脳と眼球がほどよく冷えて、少しずつぼんやりした意識が回復してきた。いよいよ眠気が覚めようとしているのだろうか。
もう彼はいない。これは夢で、私はこれから現実へと帰る。
きっとこれは現実の体がゆっくり覚醒しているせいで、現実と夢の狭間、曖昧なところにいるに過ぎない。
それにしても不思議な夢だった。
そうだ、夢から覚めたらすぐにメモを書こう。そして彼のことを忘れないように、物語仕立てにして私の元に残すんだ。そうすることで、現実世界で彼は人格を持ち、生き長らえることができる。そう、それから……
仄暗さに目が慣れてきて、何気なく暖炉に目を移した。
暖炉に向かって人が座っている。
後ろから見える頬を揺らいだ炎の光が撫でて、私の喉が、嗚咽の前兆のような、声にならない音を鳴らした。さっき飲んだ水が全身の毛穴から蒸発したんじゃないかと思うくらい、身体中に熱が走った。物凄く、胸の中と外が痺れるほど傷んだ。
彼はこちらに振り返った。
暖炉なんかより暖かくて心地の良い笑顔で。
「また、会ったね」
その大きな瞳に映った大きな夜空と炎のように揺らめく星々が、私が今どこにいて何をしているのか教えてくれた。
再びぱちりと火の粉を散らし、蛍は彼の頬を仄かに照らして吸い込まれていった。
終わったかと思われた夢はまだ続いていた。
はたまた、自分が今まで現実だと思っていたところが寧ろ夢であって、今やっと目が覚めてここにいるのだろうか。もしそうなのだとすればひどい悪夢だった。
ここは狭間であり、現実と夢の両方が存在する場所だ。だから、彼は現実にいるんだ。間違いなく。
そう、彼こそ現実にいるべき存在。彼のいない世界こそが悪夢であり、たとえ間違っていようとも私は彼の生きる世界を現実だと信じ込もう。
私はベッドを転がり落ちて、彼にもたれるように抱きついた。
暖炉に暖められた服と、彼の首から感じる体温と、私の行き場のない感情が全部混ざって目から落ちた。
もう時間が無い。はっきりと見えていた彼の姿はどんどん輪郭をぼやけさせ、それが覚醒の合図なのかはたまた私の目から溢れ出てくるもののせいなのか、私はどうしようもないくらい心を乱した。乱れに乱れて、さらに意識が覚醒する。半透明になった彼に重なって、上も向いてないのに天井が見えてくる。ああ、これは私の部屋の天井だ。
今にも消えそうな彼はその体、その腕で、確かに私の体を強く抱きしめた。そして私がどうしても聞きたくて、どうしても聞きたくない言葉を、終わりでもあり、始まりでもあるその言葉を、優しく、囁いた。
「おはよう」
長い長い夢が終わった。
その終わりはいつも空っぽの天井だ。
膨大なスケッチの束、食い散らかした弁当の残骸、胸を掻き毟って広がった血痕、散乱した錠剤の瓶。
あまりにも冷たくて泣きそうになる朝焼けが、開け放った窓から覗いていた。部屋に散らかるその全てを、微風が撫でては纏った埃を部屋の隅に運んでいく。
どうしてこうなっているのか思い出せない。
それに、多分思い出したくない。
おそらく丸二日は寝ていただろう。頭から足の先までコンクリートのように冷え固まって、立ち上がることすらできない。私は空腹を満たすために冷蔵庫へ向かう事も、水を飲むために蛇口をひねる事も叶わなかった。
ふやけた瞼だけが熱を持っていて、緩んだ目尻からまた一筋流れた。
彼の言葉を何度も反芻したが、あまりにも現実的なその言葉はもう二度と、幸せな永遠の夢を見ることを許さないと言っているようだった。
優しい拒絶だ。
そして、きっと愛されていたんだ。
カーテンがなびく。
相変わらず、ここには何も無かった。