4.ある日の作戦決行の話(前編)
朝の雑踏、仕事へ学校へと急ぐ人並みに飲まれながら、今日も今日とて俺は考える。
昨日は妙案も浮かばぬまま、結局いつの間にか眠ってしまったらしい。
思い起こすは、俺がおかしくなってからの莉々夏の言動だ。
そもそもの初っ端、風呂場であんなことがあって。
俺は俺のことでいっぱいいっぱいだった。だからあのとき、あんな光景を目にして莉々夏はどう思ったのか、今の今まで考えてみもしなかった。
家族のように思っているだろう俺が(不可抗力とはいえ)自分に対してあんな反応を見せたわけだし。
驚いた。思考が停止した。そりゃそうだろう。
そんなパニックの中で付着したものを無言で洗い流して、風呂場から出て行こうとして。
でも莉々夏は、最後に振り返ってこう言ったんだ。
『あ…………ありがとうございましたっ!』
そしてそのとき莉々夏の顔に浮かんでいたのは――、微笑みだ。
なんで俺は笑顔でお礼を言われたんだ?
振り返ってみてもまったく意味がわからない。
動揺して混乱して、それでも何か言わなければと焦った末に取り繕った笑顔とともに意味のわからない言動が出てしまった、といえばそれまでだ。
でも仮に、そうじゃない真意があったとしたら……。
そのヒントになりそうなのが翌日、俺が湯冷めして風邪をひいて学校を休んだ日のことだ。
風呂での出来事があって、その後お互い寝るまで相当に気まずい思いをしたってのに。
俺の風邪を自分の責任だと思い込んだ、とでもいうのか?
おばさんが出勤したあとを見計らって、ざわざわ学校をサボって家まで帰ってきて、俺を温めるために同じ布団に潜り込んだ……、と?
これら一連の動向って、血の繋がった普通の姉弟であれば果たしてどうなんだろう。
中学三年の弟と高校一年の姉が一緒に風呂に入るなんてこと自体がまずあり得ない気もしないでもないけど、いったんその一般常識は捨て置くとして。
そこで弟が姉の裸を見て暴発して――なんてことになったら、普通は姉が気持ち悪がって弟に近づかなくなるんじゃないか?
……いや待て、そんな風に思うくらいならそもそも風呂に一緒に入ったりなんてしない気もするな。
じゃあ逆に、キモいと思う気持ちが姉側には無いと仮定すれば説明がつくんだろうか。
弟の突然の生理現象に驚きこそしたけれど、不快に思ったりはしなかった。仕方のないものとして脳内に落とし込んだ。
そして翌日、弟の風邪を前日の出来事とは切り離されたものとして認識し、慈愛の心から弟を心配して寄り添ってあげたという風に考えてみたらどうだろう。
一見、道理が通っているようにも思える。思えるけど……、こと莉々夏に限っては何とも言えない。正直に言って。
というのも、莉々夏が俺を弟のように扱うことは基本的にはこれまで無かったことなのだ。
それは俺たち――俺と莉々夏母子が、同居人として、良く言えば共同体として、生活を共にするパートナーという関係性を暗に成り立たせてきたからに他ならない。
莉々夏から見ればおばさんは実の母親だが、おばさんは俺の母親代わりになろうとはしなかった。そして俺も、それを求めることは絶対にしなかった。
おそらくだけど、おばさんはそれが亡くなった俺の母への義理立てと考えているんじゃないかと思う。そして俺も、俺の母親はあくまで亡くなった母だけであって、他に母性を求める気持ちなんて微塵も持っていない。
だからこそ、そういった関係性を一番近くで見てきた莉々夏も、意識してのことかどうかは別として俺を弟のように扱ったりはしなかった。
世の中には血の繋がりなんて無くても家族以上の関係性を築いている人たちだっているだろう。その点については俺たちだって、世の家族という括り以上に家族としての絆で結びついているというのは自信を持って言える。
でもさ、話は戻るけどあの莉々夏だぞ?
いつでもどんな場所でもべたべた引っ付いてきて、高校生にもなって異性の風呂に突撃してきて、恥ずかしげもなくぺったんこなカラダを見せつけてきて、ある意味で恥も外聞もない家族らしさは感じるものの、家族を想う慈愛の精神なんてものとはイメージが結びついてくれないんだよな。
そして、やはり引っかかるのはあの『ありがとう』だ。
仮に俺の暴発を不快に思わなかったとして、仕方のないことだと許容したとして、じゃあなんで『ありがとう』なんだ?
んーーーーー、わからん!
脳が回転しすぎて焦げ付きそうになったところで、ちょうど学校に到着した。
こりゃ仕切り直しかな、と前を向いたところで、俺の目が校門の向こうを歩く一人の背中を捉えたのだった。
※※※
「イケメンを見込んで相談がある」
「イケメンの範疇で答えられることなら、喜んで」
昼のチャイムが鳴って、教室がざわめきに包まれてすぐ。
もはや嫌味すら感じさせないイケメンこと同級生ヤマギシの爽やかな笑顔を引き連れて、俺は目をつけていた空き準備室へ移動する。
昼休みに野郎が二人。
うす暗く、いくつか放置された机以外がらんどうの準備室に顔をつき合わせて弁当を広げるなんて構図であっても、ヤマギシは画になった。俺については……ノーコメント。
「で、相談って?」
こんな状況であっても普段とまったく変わらない口調でヤマギシが問うてくる。こういう姿がまたイケメンをイケメンたり得させるんだろうな。俺には到底真似できないが。
「ああ、その、実は…………」
俺はどこまで話していいか逡巡したものの、この件、この内容で相談する以上、結局は隠しようのないことだとすぐに悟った。
ヤマギシも俺の家庭事情はある程度知っているし、これまでの付き合いの中でこういう風な話題に関する口の堅さにも信頼はおける。
「そうか、お前の姉ちゃんとのことか、なるほどな」
エスパーですかお前は? イケメンってそんな能力も持ってんの?
「まだ何も言ってないだろ」
「あれ、違ったか?」
「いや、違ってないけど……」
ヤマギシがニヤっとする。
「ゆっくり聞こうじゃないか。話してみいよ」
「ん……」
中途半端にぼやかしたところで、どうせすべて見透かされるのがオチだ。それくらい俺とヤマギシには経験値に差がある。
俺はこの数日間の出来事、それによる煮詰まった悩みを正直に打ち明けた。
「――そうか、姉ちゃんを意識して、おっ勃つようになっちまったか」
……さすがに暴発の事実までは赤裸々に伝えられず、濁しちまったけども。
「正確には姉じゃないけどな。でもヤバいよな、これって……」
「なんでヤバいんだ?」
「え?」
何気なく発せられたヤマギシの言葉に、俺は顔を上げる。
「だってそうだろ。肉親じゃないってんならただの他人の女だよ。そんな〝女の裸〟を直視して、健康な中学生男子がおっ勃たないことのほうが異常だろって」
「あ……」
イケメンは得意げに顎をさすった。最近はシブく顎髭を生やしたくて四苦八苦しているという。
「日本では十八歳以下は法律で結婚できないけど、よその国では十三歳くらいで結婚して子作りしてたりもするんだ。生物的観点から見て、カラダの機能的には俺たちでも充分もうそういうことができちまうんだよ。だから反応して当然。意識して当然。むしろそういう気持ちが無い奴ってどうなのって俺は思っちまうけどな」
「…………」
目から鱗、というのを生まれて初めて実感した気がした。
ヤマギシは弁当を口に運んで、空になった箸先を空中でピコピコ動かしながら言う。
「だからお前の思う問題のうち、家庭内でそういう反応が出るようになっちまったってこと自体を防ぐ術はねえんだよ。ていうか防いじゃいけねえ。んじゃどうしたらいいか、あとは二択の問題だ」
「二択?」
「そう。突き詰めれば、姉ちゃんを見て勃つようになっちまったってことを本人に知らせるか隠し通すか。その二択しか選択肢はねえんじゃねえかと思うぞ」
断言されるとそうとしか考えられなくなる。それくらいの説得力を持った言葉だった。
「で、でも……『俺、莉々夏で勃つようになっちまったから気を付けてくんね?』、なんて言えねえよ俺……」
「ま、そらフツーはそうだろうな」
ヤマギシは弁当の中で最後まで転がっていたミニトマトを口に放り込んで、弁当を閉じた。そしてゆっくり咀嚼して、身震いしてから飲み込んだようだった。
「トマト嫌いなの?」
「うん、だって酸っぱいじゃん。食えないほどじゃないけど」
残すとかーちゃんがうるせーしな、とはにかむヤマギシにちょっとだけ親近感がわく。恋愛の神と言えど人間らしいところもまだ残ってるじゃないか。
「でも、考えてもみいよ。仮にそれを言われなかったとして、お前の姉ちゃんはどうなると思う?」
「どうなる、って……」
「お前が急によそよそしくなった。自分と距離を取るようになった。自分は避けられてるんじゃないか。私たちはこのまま他人になってしまうんじゃないか」
「でもその前提で、俺が莉々夏を見ておっ勃っちまったって事実があるんだぞ。莉々夏だってそれを直視してるんだぞ。それでもそんな風に思うか?」
「勃った事実とその後のお前の態度がリンクしてなければ、そうやって考えても不思議はないんじゃないか」
「リンクしてない……」
結局のところ、やっぱりそこなんだ。
俺の起こした出来事と、俺の態度が変わったこと。
莉々夏の解釈の中でそのふたつが繋がっていなければ、たしかにヤマギシの言う通りなんだよな、と思う。
「それ聞いて思い出した。言動の意味がわからなくてさっきの説明で省いたことがあるんだけどさ」
「お、なになに」
「俺がはじめて勃たせちまった直後、莉々夏が礼を言ったんだよ。『ありがとう』って、ちょっとだけ笑顔で」
「ふむ……」
ヤマギシは顎に手をやって考え込んだ。
「……案外、向こうもお前に気があるんじゃないか? 家族だと思われてると思っていたお前が自分を見て勃たせたんだ、自分をそういう目で見てくれたんだ、ってさ。それで嬉しくなって『ありがとう』って」
「バっ……バカかンなわけあるかよ! からかうなっての!」
俺は思わず椅子を蹴って立ち上がってしまう。
ヤマギシは楽しそうに「くっくっく」と肩を揺らした。ちくしょう他人事だと思いやがって。
「ま、それは冗談として、どちらにしてもこのままお前が距離を取り続けるのは、良い策とは思えねえんだよなあ」
「心臓に悪い冗談はやめてくれ。んで、だったら俺はどうしたら良いと思う?」
「そうだな……、言葉で伝えるのは恥ずかしいんだろ?」
「うん、そりゃあな」
「じゃあ取るべき手段なんてひとつしかなくね?」
「ひとつ……?」
「そう」
ヤマギシは某少年探偵のようにビシッと音が鳴りそうな仕草で、真正面から俺を指さした。
「――言葉が駄目なら、行動で見せるしかないだろ!」
※不定期更新ですが数日中に次話更新の予定です。
また今後の参考、方向性決定のためにぜひ各話ごとの評価にご協力ください。